第二十三師團歩兵第七十一聯隊関係 戰歿者慰霊碑

廣島市比治山 陸軍墓地

碑文 全文

戰歿者慰霊碑建設趣意書

ノモンハン事件は 昭和十四年五月 滿洲國と外蒙古との國境 ノモンハン附近に於て 越境問題に端を發し 約五ヶ月に亘り 炎熱不毛の草原で 戰史に希な激戰を繰り返し、惨烈悲壮な苦闘を重ね 遂に國境防衛の重責を完うした。

この間一万二千余柱の戰死者を出し廣島縣出身者も多数に及んだので、この度 歩兵第七十一聯隊、野砲兵第十三聯隊、輜重兵第二十三聯隊等 関係諸部隊の戰友が 遺族と共に 英霊の武勲を 永久に顕彰する爲に 縁深い廣島の聖地に慰霊碑を建立したのである。

昭和五十二年五月吉日

廣島ノモンハン會

廣島市中區基町 廣島城址 北側

上記 碑文からも ノモンハン事件に参戰した 歩兵第七十一聯隊、野砲兵第十三聯隊、輜重兵第二十三聯隊が 軍都廣島で編成された事實は確認されよう。 孰も 留守第五師團から抽出、基幹されたものだと 考へられる。

備後護國神社

廣島縣福山市

濱田護國神社

島根縣濱田市

ノモンハン事件戰歿者
慰霊碑建設の趣意書

ノモンハン事件は 昭和十四年五月 外蒙と滿洲國の國境ノモンハン附近に ソ蒙軍が越境侵入してきたのに端を發し 約五ヶ月に亘り 炎熱不毛の ホロンバイル草原で 彼我両軍が 世界戰史でも希なる激戰死闘を繰り返した事件である。

我が軍は 数次に亘る激戰で 多くの將兵と大砲、兵器を失い、肉弾戰を以て果敢な攻撃を加え 惨烈 悲壮の極みと云う戰闘を展開し 國境防衛の重任を完うしたが この戰闘で 將に 將兵七千六百九十六柱の戰死者を出し、島根縣出身者だけでも 實に 三百余柱に及んでいる。

このたび 島根縣在住の戰友で結成しているハルハ會が中心となり英霊の武勲を永に顕彰するため 遺族ならびに関係者の協力を得て 元第二十三師團歩兵第七十一聯隊第二大隊が編成された縁のこの地に慰霊碑を建立した次第である。

昭和五十一年九月十六日
島根縣 ハルハ會 建之

上記碑文からも 歩兵第七十一聯隊第二大隊が 島根縣濱田で編成されたことが確認される。 支那大陸に出征中の 廣島鯉第五師團歩兵第二十一聯隊 留守部隊を基幹として編成されたものと思われる。

『下天は夢か!』 引用と盗用の硲 のページに戻る。

(2006/04/12 追記)



inserted by FC2 system