田中 克彦 著
「ノモンハン戰爭」
モンゴルと滿洲國 

岩波新書 1191
2009年6月19日 初版第1刷發行

この本を讀めば モンゴル と モンゴル人 についての見方・認識が一變する。

ノモンハン事件に關する從來の認識を覆す新説である。

即ち 從來の日本側の認識は 「單なる國境紛爭の一つにすぎないもの。」 であり 「ほっておけばありきたりの國境事件で終はったであろう。」 (P-9) とするものであり、 事件が擴大したのは偶發的・突發的なものだとするものであった。

  一方、蘇聯側のそれは 事件(戰爭)は 「田中上奏文」 (Tanaka Memorandum) に沿った大日本帝國の亞細亞征服計畫という一貫した流れの中の侵略意圖に依るものだと謂う。(P-81)

著者は その どちらの見解にもく みせず、内モンゴル(巴爾虎バルガ族・ダクール族) と 外モンゴル(ハルハ族) 成 立なりたちの歴史から説き起こして事件の背景を掘り下げ、 獨自の見解を開陳してゐる。

私が手にしたものは 10月26日發行のものであるが 初刷から四ヶ月で 七回 版を重ねてをり、一般に廣く受け入れられてゐる事の證左であろう。 大變喜ばしいことである。 帝政露西亞の東進に追い立てられて滿洲の地に逃れた ブリヤート (Buryat) がバルガとなり、その遊牧の民である巴爾虎が 清朝配下の農耕民族である漢民族との 「遊牧 對 農耕という運命的な文明論的對立の構圖」(P-28)も活寫されてをり、 是非 ご一讀をお薦めする。

それについて想い出す事がある。

私の父は、東京帝國大學醫科大學耳鼻咽喉科教室醫局長として 初代 岡田和一郎教授のもとで研鑽、その手術の腕前には定評があったと謂はれてゐるが、關東大震災に重傷を負って健康を害し、官を辭して郷里に近い九洲の温泉町に轉地療養、健康を恢復して 昭和六年 同地に開業してゐる。

母の思ひ出話しに、入院患者の一人に 黒木 親慶 と謂う人がゐて しょっちゅう露西亞ロシア人が訪ねて來、夜な夜な病室を抜け出し、海にボートを漕ぎ出して密談を重ねてゐたと謂う。

瀬尾榮太郎編 「黒木親慶君追悼傳記」 によれば 中耳炎で入院してゐたのは、昭和五、六年頃のことだとあるので、開業直後のことであろう。

亡くなってより後のことであるが、「黒木親慶君追悼記念」と浮きだし文字の馬蹄を象った 持ち手が三八式小銃彈の文鎭が我が家にあり、國民學校の習字の時間に これを教室に持って行くのが僕の自慢であった。 何回かの引っ越しで行方不明になったのが惜しまれる。

黒木親慶は日向郷・飯 野ゑびの村(現 宮崎縣えびの市)の出身で士候16期、陸大24期の俊秀。 第一次世界大戰には歐洲觀戰武官、西比利亞出兵にはセミヨノフ (Grigory Mikhaylovich Semyonov)  (Gregori Michaeilovic Semenov とも綴る) 指導武官として従軍、セミヨノフの頭脳として縦横に活躍。 帝國陸軍がセミヨノフを見限ったことを潔しとせず 大正九年 歩兵少佐で退役。

 しかしその後も 陰に陽にセミヨノフを援け かつ 陸軍中樞に隠然たる影響力を保持してゐたと謂はれる。

この時の露西亞人が果たしてセミヨノフであったかどうかについては確證はないか、後に極東國際軍事裁判A級法廷に蘇 聯ソレンが證據として提出した 「セミヨノフ口供書」 なるものによると、滿洲事變の前後 當時 陸軍大臣であった 荒木貞夫陸軍大將に東京で頻繁に逢ってゐたとある。

セミヨノフは 白系露軍敗北の後 浦 塩ウラジオストックを脱出して上海に逃れ、 さらには 長崎、羅 府ロスアンジェルス紐 育ニューヨークを轉々、米國では歸化を申請して市民權を取得したとも謂はれるが、合衆國は安住の地ではなかったようで、結局 再び帝國陸軍頼みで天津に居を定めたと謂はれてゐる。
  その間、例の 「ロマノフ王朝の金塊」 裁判で 一時期 横濱にも滞在してゐたと謂う。

滿洲事變勃發で、すわこそ 蘇維埃聯邦ソヴィエットれんぽうの軛から脱したブリヤート自治共和國 (The Buryat Republic) 再興の好機到來とばかり、舊知の荒木貞夫陸軍大臣を頼りに その腹心でもある 黒木親慶を九洲の入院先にまで訪ねて密議を重ねてゐたことは十分にあり得る事ではある。

母が云う 「ボートで海に漕ぎ出して 密議・・・」 と謂うのは (露西亞語を解さぬ)船頭を雇って 今で謂う「傳馬船てんません」で沖合で密議と謂う事らしい。
その 船宿の名前も どこかで讀んだ記憶があるが、忘れてしまった。 (「越中友丸」 と謂う船宿だったか?)

ロマノフ王朝から略奪した金塊を軍資金に 祖國再興を畫策するとは なんとも遠大、かつロマンのある話ではあるが、黒木親慶は昭和九年三月 慶應義塾大學病院で五十一歳で罷ってゐる。

セミヨノフ自身は その後も 天津あるいは滿洲で白系露人社會を取り仕切ってゐたと謂はれるので、ノモンハン事件にも陰に陽に暗躍したであろう事は想像出來る。 
黒木なく、荒木も現役を退き 關東軍にどれほどの影響力を發揮できたかだが。

日蘇開戰時、蘇聯は空挺部隊を出動させて大聯で捕縛・身柄拘束してゐる。 事前の周到な計畫によるものとおもわれる。

蘇維埃聯邦最高軍事法廷(the Military Board of the Supreme Court of the USSR)で 國家反逆罪により 「絞首刑」(death by hanging) を宣告され、
 翌 昭和二十一(1946)年八月二十九日 死刑執行。

  一説によると (allegedly) 通常の絞首刑ではなくて 長時間、最も苦痛を與へる方法であったとも謂はれる。

スターリン時代の蘇聯ならあり得る話であろう。

(2009/11/18 追記)

私記、私説「努木爾汗ノモンハン (諾們汗) NOMUNKHAN
 
In the summer of 1939, 2-super land powers, the Imperial Manchukou backed by the Imperial Japanese Army and Mongolian Peoples' Republic backed by the Union of Soviet Socialist Republic commanded by Marshal Georgy Konstantinovich Zhukov (Jukov), collied in the wild desert of HulunBuyr along the Khalkhyn Gol(river), by insisting different borderlines each other.
7,696 lives of Japanese soldiers and 2,330 horses were lost and the same numbers were wounded in three months' bloody battles of human-body and Morotov cocktails against Russian armoured tanks.
Mongolia and U.S.S.R had to pay 18,500 casualties for 200,000 acres of a waiste field, resulted to determine the current borderline between Mongolia and the Peoples' Republic of China.
This article in Japanese language is to console the soul of all of those who dedicated their lives to this wild land.

 

 

熊本縣護國神社 (2007/01/28 寫眞追加)

津本 陽 「八月の砲声」
「ノモンハンと辻 政信」 を讀んで。
 
心から蒙 古モンゴルを愛し、呼倫貝爾ホロンバイルの草原を何度も訪ね、哈爾哈河ハルハがわに想ひを馳せて何度も想を練りながら、司馬遼太郎がどうしても書けなかった『ノモンハン』。
長編「坂の上の雲」で日露戰争を見事に書き尽くした作家が、書かなかった理由を「書いたら俺 死んじゃう!」とのみしか語らなかったが 私はその理由を『「ノモンハン」の眞相を知れば知るほど あまりの悲惨さ、あまりの残酷、残忍さにあった。』ためではないかと考へてゐる。
その「ノモンハン」を期待の作家が書いたと謂うので早速 初版初刷本を書店で求めた。
誰の書いた「ノモンハン」でも いつも読むたびに胸の苦しさを覚へ、息が詰まり、慟哭、号泣なしには読めない。 読み終わったあとも その余韻は暫く続く。
 
この作家は随分と以前 時代物(たしか信長であった)を読む機会あり強く印象に残り期待が大きかったのだが、冒頭 いきなり 記述の明らかな誤りが氣に掛った。 普通 雑誌に連載して單行本として出版するまでに推敲すいこうを重ねて訂正されるものなのだが、この多忙な作家は その暇なく、事實考證には関心が薄いらしい。
 
先ず「第二十三師團は、昭和十三年四月に編成要領が発令され、七月に編成を終えたばかりの陸軍で最初の三單位制(歩兵三個聯隊基幹)師團であった。 日本内地に原隊の所在地を持たない、寄せ集めの特設師團である。」(P-32)との記述は精確、正鵠せいこくを欠く。
 
三個歩兵聯隊で歩兵團を構成する最初の師團は 第二十六師團で 昭和十二年九月三十日山西省大同タートンで編成されてゐる。(補充担任第三師團管區 名古屋、岐阜、静岡聯隊區) 以後 第五師團 (廣島歩兵第十一、濱田歩兵第二十一、福山歩兵第四十一(=後第三十師團へ轉属)、山口歩兵第四十二) や 第七師團 (札幌歩兵第二十五(=後第八十八師團へ轉属)、旭川歩兵第二十六、旭川歩兵第二十七、旭川歩兵第二十八) のような例外を除き、既存師團も含めて大東亞戰争開戰までに順次 旅團編成を解き歩兵團編成に改編されてゐる。
また支那事變勃發直後 第一師團管區の予備役、後備役を召集して急遽臨時編成された 第百一師團のような特設師團(昭和十二年九月一日編成、十五年三月解隊)とは異なり常設師團であって 事件終結後、各聯隊は軍旗再授與の上 師團は再建、第十四方面軍隷下ルソン島で終戰を迎へてゐる。 ちなみに特設師團であった第百一師團は 歩兵第101聯隊(本郷)、歩兵第103聯隊(麻布)、歩兵第149聯隊(甲府)、歩兵第157聯隊(佐倉)の四個歩兵聯隊による歩兵旅團(歩兵第101旅團、歩兵第102旅團)構成である。
 
さらに「第二十三師團は宮崎第六十四聯隊、島根第七十一聯隊、大分第七十二聯隊を基幹としているが、・・・」と謂う記述は 出典が何処なのか疑問を感じる。
 
歩兵第六十四聯隊は 元々明治三十八年に熊本で編成、(明治四十三年聯隊本部は都城に轉營)、歩兵第七十一聯隊は 明治四十一年廣島で創設、歩兵第七十二聯隊は同じく明治四十一年大分にて創設され、第十二師團歩兵第十二旅團隷下でシベリヤ出兵にも活躍した傳統ある由緒正しき聯隊であるが、ゐづれも大正十四年の所謂 宇垣軍縮で 廢隊となったものを、歩兵第六十四聯隊は昭和十三年七月、歩兵第七十一聯隊と歩兵第七十二聯隊は昭和十三年四月復活再編されたものである。
 
師團司令部は 第六師團管區の 熊本で編成されてゐるが、しかしながら当時の逼迫した兵員事情から、各歩兵聯隊の編成は些か事情を異にしてゐる。
 
例へば 歩兵第六十四聯隊本部 は熊本で編成されてゐるが、第一大隊は 第一大隊長 田坂 豊少佐(士候二十八、杵築市出身)、第一中隊長 園下善蔵大尉(行橋市)、第二中隊長 河合 定大尉(大分市)、第三中隊長 太田軍記大尉(熊本縣)、第四中隊長 染矢初男中尉(佐伯市)、機関銃隊長 船倉榮四郎大尉(豊後高田市)を以て大分で編成された大分の郷土部隊で、日豊線大分田ノ原たのはる驛から勇躍出征、門司港、大聯を經由して駐屯任地満州へ。 駐屯予定地海拉爾ハイラルの兵舎が完成するまでの三ヶ月間 濱江バンジアン省(現 黒龍江省)一面坡イーミヤンポー(牡丹江と哈爾濱ハルピンの中間)で警備任務に就いた後十一月九日 海拉爾着任、同地で聯隊は編成を完了してゐる。 また聯隊副官 立川恒喜大尉も湯布院町の出身である。
 
歩兵第七十一聯隊は元々廣島に聯隊本部を置く第五師團管區の聯隊であったが、第六師團管區の聯隊として復活するにあたり聯隊本部は留守歩兵第十一聯隊(廣島)、第一大隊(T)は留守歩兵第四十一聯隊(41i)(福山)、第二大隊(U)は留守歩兵第二十一聯隊(21i)(濱田)、第三大隊(V)は留守歩兵第四十二聯隊(42i)(山口)から それぞれ基幹要員を抽出、それに補充兵員を加へて編成されてゐる。
事件での歩兵第七十一聯隊の戰死者1,636名(1,813名とする説もある)の出身地をみると、廣島縣343名と最も多く、次いで山口縣337、島根縣223、鹿児島縣166、熊本縣72 以下 東京府、大阪府、秋田縣、山形縣、北海道と多道府縣に亘ってゐる。 昭和十二年度(101D, 108D, 109D, 114D)昭和十三年度(104D, 106D, 110D, 116D)と矢継ぎ早に100番台の特設師團を急造したため、就中 第六師團管區では第一○六師團の創設と並行したため兵員補充が間に合わず、歩兵第七十一聯隊は 増設のなかった第五師團管區から融通併合したものだと考えられる。
 
更には 歩兵第七十二聯隊は 聯隊本部を 第十二師團管區の留守第四十八聯隊(久留米)から、Tを留守14i(小倉)、Uを留守24i(福岡)、Vを留守46i(大村)から抽出して編成されてゐる。
 
従って 実体的には 歩兵第七十一聯隊は 廣島、歩兵第七十二聯隊は 久留米であるが第六師團管區の聯隊の体裁を保つため 建制上の聯隊補充區を 敢えて 夫々 鹿児島、都城としたものだと考へられる。
 
因みに特設師團の新設の他、現役師團の復活、新設は 昭和十二年度 仙台13D、名古屋26D、久留米18D、昭和十三年度 仙台22D、東京27D、名古屋15D、金澤21D、姫路17D、熊本23Dと 特設師團 八個、現役師團 九個の実に 一挙十七個師團の増加で 旅團編成を 單に歩兵團編成に改編するだけでは兵員の補充が間に合わず、大隊單位で既存聯隊から要員を抽出して聯隊を編成すると謂う、最早 帝國陸軍の傳統的 『郷土聯隊』 の仕組みは破断界に達してゐたと謂うことである。
 
が、このあたりを指して「原隊の所在地を持たない、寄せ集めの特設師團」だと決めつけるのはいかがなものか。 第二十三師團は編成間もないため指揮官同士の意思疎通円滑未成熟、兵員の練度未完熟、装備劣悪(師團野砲兵聯隊の備砲は全て三八式で七・五糎野砲二十四門、十二糎榴彈砲十二門、総て留守第五師團野砲兵聯隊の遺物)ながら、予備役、後備役編成の特設師團ではなくて勇猛な現役師團ある。 その事は機関銃と火炎瓶で無限の敵戰車に対して勇敢に立ち向かって善戰した戰闘経過を辿れば頷ける筈であり、何よりも敵將ジューコフ元帥 (Marshal Georgy Konstantinovich Zhukov、当時 四十歳になったばかりの陸軍少將)の「日本の下士官兵は実に強い!」と謂う回想(井本P-390から孫引)が何よりもその事を証明してゐる。
 
のっけから基本的事実関係の誤りを突きつけられると 記述内容全体の信憑性に疑いを持たせられる。 筆者は論旨展開に「第二十三師團弱兵説」が どうしても必要であったらしい。
 
尤も この部分は戰史叢書の記述自体も曖昧であり(叢書<27>P-438) 一概に筆者を責めるわけにはいかないのだが、不思議なことに筆者は 戰史叢書<27>關東軍<1>を引用してゐない。 察するに「三單位制師團」云々と謂う部分は 牛島康允やすちか著「ノモンハン全戰史」(自然と科學社 1988年4月)の間違った記述からの引用(牛島書P-30)だと推測される。
 
「出所を異にする複数の資料内容が一致してはじめて史実とみなされることは、歴史学上の基本ルール・・・」(太田尚樹教授)であって、公刊戰史である「戰史叢書」といえども その例外ではない。 間違った記述を引用した引用本を檢證テクストクリティックなしに孫引きするから まさしく「一犬嘘を吠ゆれば、萬犬 實を傳う」の觀を呈する。
 
出    典 歩兵第六十四聯隊 歩兵第七十一聯隊 歩兵第七十二聯隊
戰史叢書<27> 廣    島 島    根 九    洲
津本 陽 説』 宮    崎 島    根 大    分
日本陸軍歩兵聯隊
(建制上の聯隊補充區)
熊    本 鹿 児 島 都    城
実質・実態
(私説、私見)
熊本・大分 廣    島 久 留 米
 

寫眞をクリックしていただくと 慰霊碑の寫眞をご覧になれます。
 
昭和十四年五月第一次事件勃発時点での師團編成は以下の通り;
 
第二十三師團(熊本) 師團長 小松原道太郎中將(士候十八、陸大二十七)
参謀長 大内 孜大佐(士候二十六、陸大三十四)(戰死)
作戰参謀 村田昌夫中佐(士候三十三、陸大四十五)
情報参謀 鈴木善康少佐(士候三十三)
後方参謀 伊東 昇大尉(士候四十二、陸大五十一)
 
歩兵團長 小林恒一少將(士候二十二、陸大三十四)(重傷)
歩兵第六十四聯隊(熊本) 聯隊長 山縣武光大佐(士候二十六、陸大三十八)(自決)
歩兵第七十一聯隊(鹿児島)聯隊長 岡本徳三大佐(士候二十五、陸大三十五)(重傷)
歩兵第七十二聯隊(都城) 聯隊長 酒井美喜雄大佐(士候二十三)(自決)
 
捜索第二十三聯隊(東京) 聯隊長 あずま八百藏やおぞう中佐(士候二十六)(戰死)
野砲兵第十三聯隊(廣島) 聯隊長 伊勢高秀大佐(士候二十五)(戰死)
工兵第二十三聯隊(熊本) 聯隊長 齋藤 勇中佐(士候二十五)
輜重第二十三聯隊(廣島) 聯隊長 緑川忠治中佐(士候二十五)
 
戰闘の詳細經過については 公刊戰史『戰史叢書<27>』「關東軍<1>」對蘇戰備、ノモンハン事件が 実に320頁を費やして詳述してゐる。 が、これとても 事件の末期 師團作戰参謀として事件現場を熟知してゐる 扇 廣 氏(士候三十九、陸大四十九、長崎縣出身 騎兵科)に言わせると、編纂官に対する上司、同僚からの掣肘せいちゅう、制約があって眞實を充分書き盡されてゐないと謂う。
しかして 同氏の著書、「私評 ノモンハン」にしてからが 上官、同僚、部下への遠慮があって筆舌を盡してゐない事は 氏自身が 度々 著書の中で辯解、詭辯してゐる通りである。
そもそも「戰史叢書」は服部卓四郎氏(士候三十四、陸大四十二恩賜、第一復員省史実調査部長、昭和三十五年歿)が占領軍の目をのがれて秘匿した資料を 同期の盟友 西浦 進氏(士候三十四、陸大四十二首席)が引き継ぎ、防衛廳戰史室長として日の目をみたものだと謂われてゐる。
「戰史叢書<27>」の編纂官 西原征夫氏(士候三十七、陸大四十九、騎兵科)の「上司の監督が厳しくて、それ以上の事は書けなかった。」(扇著 P-130)と謂う告白は そのあたりの事を指してゐるのであろう。
戰史叢書はいわば「服部戰史」であって、公刊戰史を帝國陸軍に席を置いた人に書かせる事の いわば限界がその辺にある。 ならばこそしがらみのない作家に期待するところ大なるものがある所以でもあるのだが。
 
その点 五味川純平氏は 氏自身が 關東軍に一兵卒として籍を置き、蘇聯軍戰車に肉弾で立ち向かった経験があるだけに、戰史叢書を読み尽し、師團長から一兵卒にいたるまでの日記、遺書の類を参考にして、さらには 雑誌への連載中に実戰従軍体験のある読者からの情報提供、手記の類を精査、蘇聯側の資料とも照合して プロの戰士として、一兵卒の目線で 無能な將軍、参謀連に対し 遠慮会釈のない痛烈な批判をぶっつけている。
但し、私が引用したものは1980年1月発行の第十六刷であるが、これとても文中に引用された地図の「白銀査汗バイユインザーガン」が哈爾哈河の右岸(東側)に印刷されてゐたりで、記述内容が100%正確であるか否かは確信がもてない。
 
服部さんは自著「大東亞戰争全史」の中で「日本の対ソ態度と国境紛争事件」として『流動的な世界情勢の中で支那事變解決に注力するために蘇滿國境の静謐を保つ必要があった。』と 張鼓峯、ノモンハン両事件を僅か十二行で簡單に片付けてしまってゐる。
關東軍作戰班長として起案した「第七師團」を基幹とした作戰計畫を植田謙吉關東軍司令官(士候十期、陸大二十一期、騎兵科)に却下された事への拘りを戰後まで引きずってゐたのではあるまいか?
果たして第二十三師團ではなくて 精鋭と謂はれた第七師團基幹であったらノモンハンで惨敗を喫する事なく勝利を収めることが出来たのであろうか?
 
奇しくも三年後、辻政信、服部卓四郎のコンビは夫々 大本營陸軍部作戰班長、作戰課長として、当時 最精鋭と謂はれた とっておきの一木支隊(第七師團の一翼である旭川歩兵第二十八聯隊基幹)をガダルカナルでバン・デ・クリフト少將の指揮する米第一海兵師團12,000の精鋭の前に銃剣突撃させて 一夜にして壊滅させてゐる。
服部さんは その事について「大東亞戰争全史」の中で 次のように書き残してゐる。
 
【一木支隊先遣隊の攻撃】「第十七軍司令官は大本營の指示に基づき海軍と協同して敵のガダルカナル占拠未完に乗じ、速やかにこれを奪回するに決し、その任務を先ずトラックにあった一木支隊に附与し、且つ現地海軍と協定の結果、その先遣隊(支隊長の指揮する同支隊主力、即ち歩兵一大隊及び工兵一中隊)をして驅逐艦によってタイボ岬に上陸せしめる如く部署した。」
「一木支隊先遣隊は驅逐艦六隻によりトラックを出航してガダルカナルに向かった。」
「この間、ガダルカナルに上陸した敵はその兵力約二千で戰意旺盛ならず、ツラギに向かい逐次後退中である、又、米軍のガダルカナル島上陸の目的は單に飛行塲の破壊にあるとの駐蘇日本大使館附陸軍武官の報告の通報を受け、先遣隊は勇躍して十八日夜半タイボ岬に上陸し、後続隊の上陸を待つことなく直ちに西進して、飛行塲附近の敵に対する攻撃準備にとりかかった。」
 
この状況判断の なんとノモンハンでの初動の時と酷似してはいまいか。
「出端(出鼻)を挫く。」「野望を初動に於て封殺破碎(破摧)す。」
『占拠未完に乗じ、速やかにこれを奪回するに決し・・・』と謂ったって上陸後既に十日を経過して「占拠未完」とは?
 
『敵はその兵力約二千で戰意旺盛ならず、ツラギに向かい逐次後退中・・・』とは なにを根據にされた判斷であろうか?
ノモンハンでも度々「敵ニ退却ノ兆候アリ。」と偵察機からの誤報に勇み立ってゐたが。
「上陸の目的は單に飛行塲破壊」と謂う陸軍武官の情報は いずこからのものであろうか?
 
  如何なる精兵であれ用兵を誤っては勝ち目はない。
 
以後の展開は 典型的兵力の逐次投入で 半年後には全面撤退を余儀なくされてゐる。


On July 3, Lt.Colonel Takushiro Hattori, chief of operations planning staffs of Kanton Army took off on board
DeHavilland Puss Moth DH80A for enemy's fortifications reconnaissance at low alltitude in the battle field.
His plane was shot down on the front-line, when Russian tanks dashed against the landed plane.
Anti-tank-gun-company led by First Lieutenent Sakae Kusaba defeated Russian tanks and saved Colonel's life.
Picture shows one of a deHavilland Puss Moth.
17 DH80As were supplied to the Imperial Japanese Army in 1932/1933 through Mitsui Bussan Kaisha, Ltd.
Photo by courtesy of The de Havilland Moth Club.
 

Additional pictures of de Havilland Puss Moth DH80A, by courtesy of The de Havilland Moth Club.
デ・ハビランド・モス倶楽部のご厚意による プス・モス寫眞 追加掲載。(2006/07/01)

七月三日、關東軍作戰主任参謀 服部卓四郎中佐はプス・モス機でコマツ臺附近の敵陣を低空偵察中
地上からの銃撃で最前線のまっただ中に不時着、たちまち蘇聯戰車群は炎上する機体に殺到した。
野砲兵第十三聯隊第三大隊第七中隊長 草塲 榮大尉(士候四十七)は三八式七十五粍野砲の直撃で敵戰車群を撃破、
中佐の危急を救った。
哈爾哈河左岸攻勢を断念し 午後四時 右岸への撤退命令が師團司令部から發せられた日である。
昭和七年から八年にかけ十七機のプス・モス機が三井物産を經由して帝國陸軍に納入されてゐる。
 寫眞は同型のデ・ハビランド プス・モス機。
(寫眞掲載 デ・ハビランド・モス倶楽部2005/11/10ご承認取得濟)

The pictures above by courtesy of The de Havilland Moth Club. July 1, 2006.

デ・ハビランド・モス倶楽部のご厚意による追加寫眞掲載。 (2006/07/01) 


さて、筆者が引用している叢書は「戰史叢書<27>」ではなくて、『戰史叢書<8>』「大本營陸軍部<1>」である。 この編纂官は 事件當時 服部卓四郎作戰班長の下で 辻政信と共に作戰参謀を勤めた 島貫武治氏(士候三十六期、陸大四十五期恩賜、蘇聯駐在)で「複雑怪奇ナル欧州ノ新状勢」の中での事件の推移を十数頁の紙面で概説している。

『關東軍の企圖は、膺懲やうちょうし、慴伏しょうふくさせて事件の不擴大を圖るところに眼目があり、』と謂うところまでは頷けるが、續いて『控へ目な處置をとるときは、甘く見られて事件をますます擴大するとの思想・・・』と謂うあたりが、前年の張鼓峯事件の教訓が全くいかされてゐない。
果ては 第六軍を創設し、折角 第七師團の残部、第二師團、第四師團、第一師團、総勢五万の展開を終わった段階で 九月三日大陸命第三四九號(奉勅傳宣ほうちょくでんせん、大元帥陛下直々の命令)をもって停戦させられたことを痛く残念がってゐる。 作戰を継続してゐれば 欧州の新情勢から 必ずや勝ちをおさめたと謂わんばかりだが、果たしてそうであろうか?
敵兵力を下算して、兵法の下の下だと謂われる「兵力の逐次投入」は それ以降の帝國陸軍のお家芸。 作戰発起当初から「牛刀をもって鶏をぐ」筈ではなかったのか。
關東軍作戰参謀としての視點でしか書かれてをらず、戰史編纂官としては別の觀點が求められたのではあるまいか。


七月二十一日 獨蘇通商協定交渉開始発表。
八月十九日 正式調印。
八月二十一日 獨蘇不可侵條約交渉 公式発表。
八月二十三日 獨蘇不可侵條約 正式調印。
八月二十八日 平沼内閣挂冠。
九月一日 獨逸軍 波蘭土ポーランド侵攻開始。
九月三日 英佛 對獨宣戰布告。
九月十七日 蘇聯 波蘭土 侵攻開始。
     
欧州の新情勢とは以上の展開を指すわけだが、將に電撃的である。 平沼内閣は三國同盟問題で七十数回の五相会議(首相、陸相、海相、外相、蔵相による会議)を開きながら、『平沼が一斗の米を買いかねて、今日も五升買ひ、明日も五升買ひ。』と揶揄されながら迷走。 支那事變は天津英租界封鎖問題が英國との間でこじれて決裂して膠着状態。
その間の日本側の苦衷、参謀本部の混亂ぶりはリヒアルト・ゾルゲ・スパイ團の暗躍によって逐一 赤軍第四部に情報としてもたらされてゐたと考へねばなるまい。
先ずは 最大の敵國 獨逸と協商し、西側の安全を確立した上で企図を秘匿しつつ兵力を東へ移動、八月二十日からの大攻勢で日本軍を一気に押し潰す。
同時に獨蘇不可侵條約締結、波蘭土ポーランド分割を密約。
「複雑怪奇なる歐洲大陸の新状勢に鑑み」平沼内閣挂冠。 日本側の停戰申し入れを請けて東側の安全を諮った上での兵力の西への再移動。 獨逸との密約に基づく獲物である波蘭土進駐。 その間 外務省はもとより陸軍省でも全く情報がつかめていない。
手の内を全部さらけ出したまま、膺懲やふちょうし、慴伏しょうふくさせられたのは日本側である。
終戰間際、ヤルタ、ポツダムでの密約も知らずに蘇聯に和平の仲介を依頼すると謂う前代未聞の大失態を演じた時の状勢判断に似ている。
 
繰り返しになるが、この辺りが「公刊戰史」を当事者に書かせる事の限界であろう。
米合衆國海軍が海軍に在籍經驗がある、バーバード大學歴史學教授であり「アメリカ合衆國の歴史」(The History of America)の著者であるサムエル・エリオット・モリソン博士(Samuel Eliot Morison, PhD.)に公刊戰史著作を依頼したのとは大違いである。
因みに宮城縣出身で歩兵科である編纂官の長兄は 士候三十三期、陸大四十四期恩賜で騎兵科から航空科へ、ノモンハン戰に第二飛行集團作戰主任参謀として九七司偵機上で戰死されてをられる。
令弟は士候三十九期、陸大四十七期恩賜で砲兵科、三弟は士候四十五期、陸大五十三期で騎兵科、末弟は士候五十一期。 希有の俊秀、陸軍秀才一家である。
 
この作家は文中 戰闘詳報や小松原日記を引用しながら 戰闘の詳細を丹念に追ってゐる。
しかし 大部分は牛島書からの孫引きで原典に当たった上で 自分自身の言葉で書いたものではありますまい。
 
牛島書からの引用の手法と修辞レトリックは実に巧妙かつ見事であり、この売れっ子作家の得意の技法だとみた。
 
一例を挙げてみよう。 七月初旬、砲兵團戰線投入の塲面(P-341);
『日本陸軍の保有する野戰重砲兵は、五個旅團と一個聯隊であった。 そのうちから野戰重砲兵第一聯隊と第七聯隊という、自動車編成の最新装備の部隊を派遣するのである。 砲兵團では、蘇蒙軍砲兵は三時間で撃滅され、射撃目標はすべて消滅すると豪語していた。 それは、單なる思いこみに過ぎなかった。 何の客観的裏付けもない、井底せいてい痴蛙ちあの夢想であった。』
 
この部分、牛島書の原文は(P-247)『当時、日本が保有していた野戰重砲兵は、五個旅團と一個聯隊であった。 その中で、野戰重砲兵第一聯隊と第七聯隊という日本で最新式の自動車編成による虎の子部隊を派遣するものであって、砲兵團の見解によれば、三時間で蘇蒙軍砲兵は撃滅され、射撃目標は無くなってしまうと自負していた。 自負するに足る客観的理由があった訳ではなく、あったとすれば井の中の蛙、無知である。』
 
実に見事な引用手法を用いた修飾家rhetoricianではないか。
 
列挙すれば際限ないが、もう一つ指摘してみよう。 辻 政信の面目躍如たる謀略だとの疑いをもたれている七月十六日の「富拉爾基フラルキ爆撃」に拘る記述。 先ず牛島書(P-233)からの抜粹;
『初めに辻ノモンハンを見よう「突如として”フラルキ鉄道橋爆撃されたり”との緊急電報を受けたのは、七月十六日午前三時であった。 地獄の釜の蓋も開き生霊が家に帰るというお盆の日、この凶報は地獄への導きにも感ぜられた。 ・・・ ホロンバイルの砂漠に起こった戰火が、大興安嶺を越えて北満の中心部に擴大されたのである。 これでも尚、東京は関東軍に、事件擴大の責任があると非難するのか。 投弾は八發で、被害は大して大きくはなかったが、一般に与えた影響は、物的損害の比ではなかった。 全面戰争になる可能性が頗る強いとの印象 ・・・」と述べている。
資料関東軍によると「七月十六日早暁前、チチハル南西方フラルキの鉄道橋が爆撃されるという事態が起こった。 それは、わずか一機一弾に過ぎなかったが、関東軍作戰課の受けた衝撃は大きかった」と述べている。 この同種同様の二つの資料ですら、「一機一弾」と「一機八弾」との八倍差がある。 次に当時の朝日に掲載された関東軍報道部十六日午後五時発表では「十六日午前三時三〇分頃、外蒙ソ連爆撃機は、不法にも満領内に侵入して來り、富拉爾基附近に爆弾八個を投下して、満露人家屋各一を破壊し、重軽傷者七名を出せり」となっている。
同紙はチチハル特電として「單機または二ー三機で夜陰に乗じ滿洲内に入り込み、十六日午前三時三〇分チチハルを距る滿洲フラルキにソ連SB爆一機現れ盲爆をして逃げ去った」としている。』
 
これが津本本つもとぼんでは次の様になってゐる;
 
「辻は自著『ノモンハン』に記している。 「突如として”フラルキ鉄道橋爆撃されたり”との緊急電報を受けたのは、七月十六日午前三時であった。 地獄の釜の蓋も開き生霊が家に帰るというお盆の日、この凶報は地獄への導きにも感ぜられた。 ・・・ ホロンバイルの砂漠に起こった戰火が、大興安嶺を越えて北満の中心部に擴大されたのである。 これでもなお、東京は関東軍に、事件擴大の責任があると非難するのか。 投弾は八發で、被害はたいして大きくはなかったが、一般に与えた影響は、物的損害の比ではなかった。 全面戰争になる可能性が、すこぶる強いとの印象 ・・・」
『資料関東軍』には、つぎのように記述されている。
「七月十六日早暁前、チチハル南西方フラルキの鉄道橋が爆撃されるという事態が起こった。 それは、わずか一機一弾に過ぎなかったが、関東軍作戰課の受けた衝撃は大きかった」
この二つの資料では、一機一弾と、一機八弾の差がある。
さらに朝日新聞に掲載された、関東軍報道部十六日午後五時発表では、
「十六日午前三時三十分頃、外蒙ソ連爆撃機は、不法にも満領内に侵入してきたり、フラルキ附近に爆弾八個を投下して、満露人家屋各一を破壊し、重軽傷者七名を出せり」
 
同紙は、チチハル特電として
「單機または二、三機で夜陰に乗じ滿洲内に入りこみ、十六日午前三時三十分チチハルをへだたる滿洲フラルキにソ連SB爆撃機あらわれ、盲爆をして去った」という記事を掲載した。」
 
辻書からの引用部分が全くの 同 文identical である事は当然だとしても、ここで謂う「資料関東軍」と謂うのは この作家が引用してゐない「戰史叢書<27>関東軍<1>」(P-577)の事であり、さらには それに引き続き 朝日新聞記事、同紙チチハル電と繋がっては 偶然の一致とは考えられない。
牛島書からの引用、孫引きだと思われる部分は枚挙まいきょゐとま無いが、権威の疑わしく 評価の定まらない著作を下敷きにして、恰も自分自身の記述であるかの斯く装って脚色する技法は、引用文献の丸写しとのそしりを逃れ得まい。

もう一つ、詮索してみましょうか。 P-190

『三日二十三時、戰車数輛が軍橋に殺到してきて、・・・』
『小松原中將の日記にしるす。 ・・・』
『小林兵團長の日記にしるす。 ・・・』

このくだりも、扇 廣著「私評 ノモンハン」(芙蓉書房 昭和61年8月)P-140 - 142 からの丸寫しであって 直接 原典に当たっての 自分自身の言葉での記述ではありますまい。 なぜなら「朝倉工兵軍曹」の話や 引用文に引き続き「手馬」の事が書かれてゐるから。

 
副題に「ノモンハンと辻 政信」とある通り 作者はノモンハン戰史ではなくて、作品を通して「辻 政信」と謂う人物像を描こうと意圖したものだと思う。
辻に纏わる種々のエピソードを織り交ぜているが、しかし結局 この作家が辻をどうみているのか、そのあたりが良く判らない。
 
僕の辻評は昭和十七年一月三日 馬來半島戰中の第二十五軍々司令官 山下奉文中將の日記の下記一節に尽きると思う。(兒島 襄「史説 山下奉文」 文藝春秋社 昭和四十四年五月 P-189 からの抜粹);
 
『・・・辻中佐第一線ヨリ歸リ私見ヲ述ベ、色々ノ言アリシト云フ。 此男、矢張リ我意強ク、小才ニ長ジ、所謂コスキ男ニシテ、國家ノ大ヲナスニ足ラザル小人ナリ。 使用上注意スベキ男也』
 
 
最後に、筆者は終章で『ノモンハン事件における戰没者の数は、牛島康允やすちか氏によれば、昭和四十七年五月、厚生省援護局の調査によると一万一千百二十四名が妥当とされる。 戰死傷を含む全損耗は二万二千名程度と推定できるという。』 (P-490) と 「間違い」の上塗りの様な事を書く。
この 11,124と謂う数字は 戰史叢書<27> P-711に昭和十五年一月附「ノモンハン事件」研究第一委員会調製「研究報告」として記載されてゐる小松原部隊の「戰死、戰傷生死不明、戰病」合計数字であり、どちらに信憑性、合理性があるか「答」はおのずから自明である。
 
出処、出典 戰    死 戰傷生死不明 戰    病 合    計 出動人員
第六軍軍醫部調製
統合表
7,696 9,668 2,350 19,714 58,925
津本 陽 説』 11,124 22,000
第二十三師團軍醫部調 4,786 6,094 1,340 12,230 15,975
第一委員会調製
「研究報告」
5,070 5,348 706 11,124 15,140
 
(第六軍調製総統合表の「出動人員」数は 実際に戰闘に参加しなかった 第二師團、第四師團、第七師團、第一師團等の総ての人員を含む。
表下段は第二十三師團のみの数字で、師團軍醫部と「研究報告」の数字の相違は、生死不明者中戰塲掃除後 戰死と認定された者、捕虜交換後生存が確認された者の数字の差違と考へられる。
2,330頭の軍馬の喪失も記録されてゐるが、軍用犬、伝書鳩の記録はない。)
 
五味川純平氏も戰史叢書記載の戰死者数には疑問を呈してゐる。 しかし 数字の偶然の一致と謂う事はあり得ないので引用文献が取り違へたものに相違ない。
それにしても この売れっ子作家は事実考証に全く無関心、無頓着であり、明らかに信憑性と信頼性に疑問のある出典に依拠して、テクスト・クリティックス能力皆無だとみた。
 

「時代物」を書けば常に評判を取る この老作家は帝國陸軍に関する基本的基礎知識すら缺如してをり、自分自身で權威ある文献を探し出し 自分の頭で それをひもといて自分自身の言葉に直して書くのは無理だとみた。 ましてや 司馬遼太郎が断念し、五味川純平すら 澤地久枝と謂う希有有能な執筆助手を得て書き上げた「ノモンハン」を題材にするとは 無謀に過ぎる。 

『・・交戰にあたり蘇軍は火焔放射その他あらゆる火器を使用し戰塲は惨烈をきわめた。 しかし一戰闘が終ると蘇軍は戰塲を掃除し、日本兵の戰死者にも土をかぶせ一々木の枝を立てることが少なくなかった。 知れる範囲では決して暴虐理不盡でもなく、そのやり方には心を打たれるものがあった。』(戰史叢書<27>P-694)
これは 当時 自動車第四聯隊長であった田坂専一大佐(士候二十七、陸大三十八、後 中將)の戰後の回想である。
殺伐とした戰塲での一服の清凉劑であり、些かなりとも救われる想いがする。
 
帝國陸軍の戰史は いつどの戰記を読んでも 自分が平和な時代に生まれ育った事の幸運を つくづく思い知らされるものばかりである。
(2005/11/15 初稿脱稿)(2005/12/08 改定)
 
主用参考ならびに引用出典;
 
「八月の砲声」ノモンハンと辻政信 津本 陽 講談社 2005年8月
「戰史叢書」<8>「大本營陸軍部」<1> 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十二年九月
「戰史叢書」<27>「關東軍」<1>對ソ戰備、ノモンハン事件 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十四年七月
私評「ノモンハン」 扇 廣 芙蓉書房 昭和61年8月
「支那事變作戰日誌」 井本熊男 芙蓉書房 1998年12月
「大東亞戰争全史」 服部卓四郎 原書房 昭和四十年八月
「郷土部隊奮戰史」 平松鷹史 大分合同新聞社 昭和58年再版
「ノモンハン」 五味川純平 文藝春秋社 1980年1月第十六刷(1975年6月初版)
「ノモンハンの夏」 半藤一利 文藝春秋社 1998年4月
「ニモンハン 隠された戰争」 鎌倉英也 日本放送協会 2001年3月
「日本陸軍歩兵聯隊」 新人物往来社 一九九一年 
「陸軍師團総覧」 新人物往来社 2000年11月
「陸海軍將官人事総覧」 芙蓉書房 1981年9月
 
    
呼倫貝爾(ホロンバイル)と謂う言葉の響きは 日本人にとって草原大地への憧憬を誘い郷愁を覺へる。 われわれ日本人が草原の民の末裔であることと関係があるのであろうか?  呼倫貝爾 (HULUN BUYR)とは 呼倫湖(HULUN Nuur) と 貝爾湖 (BUYR Nuur)とに挟まれた地域の総稱で 現在 その大部分は中華人民共和國内蒙古自治區に属する。
 
 努木爾汗ノモンハン (NOMUNKHAN) とは もともと 町の名前でも、村の名前でもなく、貴人の墳墓のあった塲所だと謂う説が有力である。 大興安嶺山脈に發した 哈爾哈河 (Khalkhyn Gol) が貝爾湖に濯ぐあたりの東。 滿洲帝國が外蒙古との國境線を この哈爾哈河としてゐたのに 蒙古モンゴル人民共和國側は その北側を主張し、200,000エーカーの不毛の土漠をめぐって争奪戰が繰り擴げられたもの。 結果として 中華人民共和國(内蒙古自治區)と蒙古モンゴル (MONGOLIA)との國境線はノモンハンの北側となり、我が同胞の血に染まった大地は 現在 蒙古モンゴル領に属するが、現在の MONGOLIA の地圖には その地名を見出せない。。
因みに日本で「ノモンハン事件」と呼ばれる紛争は露西亞では「ハルハ河の戰争」(War in Khalkhyn Gol)と呼ばれてゐる。


追記、閑話休題;
 
1. 「戰史叢書」<27>によると、關東軍ならびに第六軍が参謀本部からの奉勅命令に頑強に抵抗した理由の一つに 歩兵第六十四聯隊ならびに歩兵第七十一聯隊の二旒の軍旗が一時行衛不明になってゐた事によるとある。 結局 二度目の 大陸命で停戰と謂う事になったが、一個師團と歩兵一個聯隊を壊滅させてなお 二旒の軍旗のために兵を進めようと謂う感覚は 二十一世紀の criteria では 到底理解出来ない。
幸い 歩兵第七十一聯隊の軍旗は 聯隊長代理 ひがし 宗治むねはる中佐(士候二十六)が玉碎直前に焼却を命じて完全處置された事、歩兵第六十四聯隊の軍旗は、停戰後の戰塲掃除で 山縣武光聯隊長(士候二十六)の御遺骸とともに土中から回収されてゐる。
両聯隊には後に それぞれ軍旗が再交付されてゐる。
 
2. 「戰史叢書」<8>の編纂官によると「ノモンハン事件」での日本軍の奮戰が 後に 蘇聯に對日開戰を躊躇させ その抑止力になったと謂う。
蘇蒙側の損害については 永らく厳重に秘匿されてゐたが、グラスノスチ(glasnost 情報公開法)により1999年から関係文書が続々 解禁、公開されて來た。 NHKの「露西亞軍事史公文書館」での調査にもかかわらず 未だその全貌は掴みきれてゐない。
 
半藤一利は書く;
蘇聯軍の死傷者も、最近の秘密指定解除によって、惨たる数字が公開されている。
戰死6,831人、行衛不明1,143人、戰傷15,251人、戰病701人。 これに外蒙軍の戰傷者を加へると、全損耗は24,492人となるという。  圧倒的な戰力をもちながら蘇蒙軍はこれだけの犠牲をださねばならなかった。
ジューコフは、莫斯科モスクワに凱旋したとき、スターリンから日本軍の評価をただされた。
そのとき、日本軍の下士官兵の頑強さと勇気を、この猛將は心から賞賛した。
慰めとはならないが、その理由がわかるようである。
 
半藤一利が引用した『ジューコフ元帥回想録』には「日本軍の下士官兵は頑強であり、青年將校は狂信的な頑強さで戰うが、高級將校は無能である。」とあると謂う。
 
3. 帝國陸軍の兵器比較;


第一戰車團 團長 安岡正臣中將(18) 備   砲
第三戰車聯隊 聯隊長 吉丸清武中佐(26) 七月三日 戰死
八九式中戰車乙型  26両
九七式中戰車(チハ)  4両
  十八口径57m/m砲
  十八口径57m/m砲
第四戰車聯隊 聯隊長 玉田美郎大佐(25)
九五式輕戰車(ハ號) 35両
八九式中戰車甲型    8両
三十六口径37m/m砲
  十八口径57m/m砲
 
八九式(昭和四年(1929)年制定)は既に旧式化してをり、九七式(チハ)と九五式(ハ號)は 後に 山下奉文第二十五軍の馬來半島戰で勇名馳せるが、ノモンハンでは用兵を誤り 敵の敷設したピアノ線に足を絡まれて身動き出来なくなったところを狙い撃ちされている。 
チハは もともと歩兵直協戰車で その備砲は 十八口径。 戰車對戰車戰闘を前提とした設計にはなってをらず、砲弾重量も 砲手が片手で装填できるよう 3kgs で機関銃座破壊用、戰車の裝甲は貫通しない。 敵の戰車砲の砲弾は眞っ直ぐ飛ぶのに 味方の砲弾は弧を描くと謂う兵士の証言は この事を指す。 
ハ號の備砲は 三十六口径だから、對戰車戰闘は可能だが、對する敵戰車の備砲は 四十五口径37m/m、四十六口径45m/m砲だから、敵を射程に捉へて必殺の命中彈を與へるのは至難であったと思はれる。 因みに 蘇聯の歩兵直協戰車は主に 12.7m/m 機関銃を搭載してをり、このへんは兵術思想の違いであろう。
 
戰車聯隊が敵と觸攝したのは七月二日夜半。 瞬く間に出動73両中29両を失い(損耗率 39.7%)、あわや全滅を危惧した關東軍が七日には早くも「戰車兵團ハ原駐地ニ歸還スベシ」の作戰命令を発している。 戰車は有限、兵は一銭五厘で無限。 温存を計ったわけである。 以後 戰塲から日本軍の戰車は姿を消す。
 
赤軍が繰り出した戰車の数は1,000両を越へると謂う。 その内800両が破壊されたとの説もあり、その大半はサイダー瓶にガソリンを詰めた火炎瓶(Morotov cocktails)によるものだと謂はれている。

日本軍が使った「對戰車砲」は「四十六口径三十七粍砲」で 通常「速射砲」と呼ばれていた。
戰後は anti-tank gun を直訳して「対戰車砲」と一般的に呼ばれるようになったが、帝國陸軍は「對」と謂う言葉の意味を嫌って、正式には「九四式三十七粍砲」、それを装備した部隊を「速射砲中隊」と呼稱してゐた。 armour の貫徹力は 20 m/m が限度で、事件初期、15m/m裝甲のBT-5戰車に対しては有効であったが、後期に投入された22m/m裝甲のBT-7、T-26には苦戰を強いられたと謂はれる。 その戰訓で支那戰線で鹵獲した獨逸製47m/m anti-tank gunを模倣して作ったのが「一式機動四十七粍砲」であるが、形状は模倣できても 砲身のみならず砲弾の素材に問題あって 米軍の戰車に対しては充分 効力を発揮出来なかったと謂はれてゐる。
ガダルカナル戰には「一式」が間に合わず、支那戰線で鹵獲した獨逸製47m/m anti-tank guns を使ったが、その後のマリアナ、フィリッピン、硫黄島、沖縄戰では M-4 Sherman戰車の 2-2.5 inches の正面裝甲を貫通出来なかったと謂はれてゐる。 砲身もさることながら、当時の日本の工業水準では砲弾の素材技術が追随出来てゐなかった爲だと謂はれる。

戰車戰に勝ち目なしと悟った關東軍は 内地から最新装備の野戰重砲兵聯隊を出動させて砲兵團を組織、とっておきの重砲を繰り出す。
 
砲兵團長 山内英太郎少將
第一砲兵群 畑勇三郎少將 野戰重砲兵第一聯隊、野戰重砲兵第七聯隊
第二砲兵群 伊勢高秀大佐 野砲兵第十三聯隊、獨立野砲兵第一聯隊


砲   種 射  程 赤軍相当砲種
野砲兵第十三聯隊 三八式75m/m野砲 24門
三八式十二糎榴彈砲12門
8,350米
5,650米
3-inch (76.2m/m)野砲 9,300米
5-inch (127m/m)榴彈砲 11,800米
獨立野砲兵第一聯隊 九○式75m/m野砲  8門 14,000米 3-inch (76.2m/m)山砲 10,700米
野戰重砲兵第一聯隊 九六式十五糎榴彈砲16門 11,900米 155m/m 榴彈砲 17,000米
獨立野戰重砲兵第七聯隊 九二式十糎加農砲 16門 18,200米 107m/m 加農砲 17,500米
穆稜ムーリン重砲兵聯隊 八九式十五糎加農砲 6門 18,100米 155m/m 加農砲 30,000米
合   計 82 門 日本側確認数  76 門

七月二十三日に始まった砲戰は 当初 多大な戰果を挙げたものと期待されたが、三日目には勝負が決まる。
赤軍の対応砲種は 野砲で76m/m、十二榴が127m/m、十五榴155m/m、十加では107m/mと破壊力が勝ってをり、十五加の射程に至っては 実に30,000米で 日本軍の射程外からの砲撃には手も足も出ない。
 
帝國陸軍の大砲で 当時 國際水準に達していると考えられたものは「九○式75m/m野砲」(昭和五(1930)年制定)のみで これは佛蘭西シュナイダー社 (SCHNEIDER CA) 75m/m FIELD GUNを原設計とした國産品であるが、原設計が複合砲身 (compound laminated tube) であったものを 当時の日本の素材、製造技術では対応出来ず、單肉自緊砲身 (one piece autofrettage tube)を採用したもの。
關東軍の実用試験で 連続發射すると、装薬室の熱膨張で公算躱避こうさんだひ(散布界)が無制限に擴大、果ては砲弾が前後転倒し、即ち どこに飛んで行くやら分からなかったと謂はれてゐる。(扇書 P-167)

また 重砲の最大射程での試射すら行われてゐなかったといわれ、大射程での連続発射により砲脚損傷が続発したと謂われる。

陸軍のみならず 英ヴィッカース社製の毘式ビしき六吋砲を模倣した海軍の「三年式14糎砲」でも複合積層砲身が製造出来ず、單肉砲身を採用している。(別稿 参照
 
尤も、現代の戰車砲は素材技術の向上で「單肉自緊滑腔砲身」(one piece autofrettage smooth-bore gun)が主流になってゐる。

4. 第二十三師團 参謀長 大内 孜大佐戰死。 後任の 歩兵第七十一聯隊長 岡本徳三大佐は右膝に手榴弾を受け 戰塲で師團軍醫長が右足切断の手術を行い後送、東京の第一陸軍病院で入院加療中、翌年五月 精神錯乱で入院中の患者に斬殺されたと謂う事になってゐる。  その加害犯人は陸大同期の陸軍歩兵大佐だとして半藤一利の著書に名前の記載がある。
大内大佐、岡本大佐、岡本大佐の後任の聯隊長 森田 徹大佐は 戰塲で自決した 歩兵第六十四聯隊長 山縣武光大佐、歩兵第七十二聯隊長 酒井美喜雄大佐、野砲兵第十三聯隊長 伊勢高秀大佐と共に孰も少將に進級している。

ところが 無事生還した 歩兵第二十六聯隊長 須見新一郎大佐(士候二十五、陸大三十四)は即時 豫備役編入、 捜索聯隊長 井置榮一騎兵中佐(士候二十八)にいたっては自決を強要されたばかりか、靖國神社に合祀されたのは実に 陸軍省が廃止された戰後の昭和二十四年十月になってからだと謂う。
 
(2005/11/22 記、2005/12/31 追記)


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