そうなんです。「大連」が滿洲國にあったと誤解している人が随分と多いんですよね。
 
まず、日清戰争の講和談判が1895(明治二十八)年 下関の春帆楼で行はれ、我が全權、伊藤博文公、陸奥宗光伯と清國外務大臣・李鴻章との間で取り交わされた下關條約で  臺灣、澎湖諸島に加え 「遼東半島」の割譲、租借ではなくて割譲ですよ、が締結されたのが始まりです。 その時に設けた中立地帯の境界線は、營口ー牛荘ー鳳凰城ー安東を結ぶ 摩天嶺に近い線でした。
 
ところが、條約締結一週間後に早くも 露・獨・佛による三國干渉で 我が明治大帝は 涙を呑んで「遼東還付」をご決断、

臥薪嘗膽 (ぐわしんしょうたん) (苦ヒ肝ヲ舐メ 寝苦シヒ薪ノ上ニ寝ルこと) 十年。
 
 
露西亞皇帝ニコライ二世は厚顔にも 李鴻章を賄賂で籠絡し、西太后に強要して三年後の1898年には遼東半島を租借。  青泥窪(チンニーワー) を
「DALINI」と改稱して都市・港灣を建設し、旅順に軍港と要塞を建設。
 
この1898(明治三十一)年と謂ふ年は 二月に獨逸が膠洲灣を租借、三月に佛蘭西が 廣洲灣を占領、五月には英吉利が九龍半島と威海衛 (Port Edward) を租借と まさに歐洲列強による支那蚕食の年でした。
「三國干渉」とは 『俺ガ簒奪スルカラ、弱小日本ハ 手ヲ出スナ。』 と謂う まさに弱肉強食の時代だったのです。
 
日露戰爭の結果、1905(明治三十八)年、若干四十九歳、ハーバード大學ロー・スクール出身の吾が全權
小村壽太郎侯と露西亞ウイッテ全權との間で締結したポーツマス條約で遼東半島の租借權を 清國政府の同意を得て継承。
帝國政府は 直ちに「ダーリニー」を「大連」と改稱。 旅順に 關東都督府・關東廳を設置して 關東洲大連市に民政を施行。
 
實際の租借地界は 金廠屯ー口門頭ー王家屯 を結ぶ線で、 嘗て取り決めた中立地帯の境界線、摩天嶺からは 遙かに南になりました。
 
滿洲國成立後、同じくポーツマス條約で獲得した南滿洲鐵道付属地の行政權は
1937(昭和十二)年に滿洲國に返還されましたが、關東洲の行政機構には變更を加へることなく、則ち、關東洲内の『治外法權』が そのまま継續される。
 
昭和二十年八月十五日以降も、蘇聯軍が滿洲の廣野に戰車を南下させたのは 嘗ての租借地遼東半島の失地回復が名分であった。

スターリンにとっては「臥薪嘗膽四十年」、『會稽之恥』(くわいけいノはじ)を雪(すす)いだことになる。

蒋介石率いる國民政府軍が滿洲へ進駐後も、昭和二十四年十月一日 中華人民共和國成立後も關東洲の軍事占領を継續して軍政を施行。
 蘇聯軍が大連から撤退を開始するのは、實に1950(昭和二十五)年、中ソ友好同盟相互援助條約が締結されて以降の事である。
 
中華人民共和國政府としては失地回復後も 「關東洲」 「大連市」と謂う名稱には屈辱があり 1951年以降、長らく 旅順・大連地域を統合して「旅大市」の呼稱を使って來たが、1880年(光緒帝六年)の公文書に「大連灣」の呼稱を見つけ出し、都市名の正當性が確認され、
1981(昭和五十六)年に至り 「遼寧省大連市」 の名前が復活されました。
 
旅順が解放區として外國人に一般開放されたのは 實に2009(平成二十一)年3月20日の事です。
 
同胞の大連からの引き揚げが、蒋介石率いる國民黨政府の治安回復後の滿洲國からのそれよりも はるかに困難を極めたのは かかる理由による。
 
旅順高等學校第一期生の宇田博による 解放前の旅順決死突入ルポルタージュ 『大連・旅順はいま。』 (六法出版社 1992/11)はスリル、迫力満点の旅行記である。
 
(2011/10/01 初稿)



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