JTB旅物語 大連・旅順・金洲歴史探訪 4日間
 
2011(平成二十三)年
 
2011/05/xx (x)  大連は晴れ。
 
NH-903 定刻 10:10am 成田を出發、略ゝ満席。 定刻 12:15 大連周水子機塲着。
周水子機塲は 1993/12/06 以來 18 年ぶり三度目。 機塲はすっかり様變はり。
出發前 JTB に訊ねたところでは 総勢 17 名だと謂うことであったが、着いてみると 2 名増へて 総勢 19 名。
後で判ったことであるが、料理人2名が 計畫的遁(とん)づら確信犯で潜り込んでゐた。
 先ずは大廣塲(中山廣塲)へ。

下が昔の寫眞。 

正金銀行も大連警察も 建物は昔の儘です。

 

大廣塲周辺は地鐵工事中で 様變はりながら、やまとホテル(大連賓舘)、大連市役所(中國工商銀行)、横濱正金銀行(中國銀行)、
大連警察署 (CITIBANK)、朝鮮銀行(中國人民銀行)、東洋拓殖(中國交通銀行)等は 昔の面影をその儘殘す。



 就中、京都祇園祭の山車(だし)をモチーフにした1919年竣工の大連市役所は その儘の形で殘されてゐる。
 

續いて満鐵(南滿洲鐵道)本社(大連鐵路辯事處)へ。

 

嘗ての高級住宅街、南山麓は再開發が進み 昔の儘の日本人住宅は僅かに數軒を殘すのみ。

 

 

 

 

  

戰後一時 林彪が住んでゐたと謂はれる 張作霖邸は 現在 大連市の重要文化財に指定され「官邸」と謂う名前の「泰國美味及廣東菜中的精品」レストラン(主題餐廳)となってゐる。

 

 
昔の儘の市電に體驗乘車。 昔 子供の頃によく見かけた 紐で引っ張るセミ・パンタグラフ型。 どちらの方向に走ってゐるか、一目瞭然。
上海・北京に比べて改革・解放の遅れた 北の都 大連は目下 急ピッチで地下鐵工事が進んでおり、路面電車もその完成までの運命か?

  
大連港へ。 數多の日本人が希望と期待に胸ふくらませて降り立ち、失意の内に去って行った滿洲國への玄関口、埠頭ターミナル・ビルは昔は 半圓形であったが 今は梯形に變はってゐる。

日本の租借地時代の 大連港。

  

ここで女八人組はアサヒ缶ビールを根こそぎ買い占める。 なんでも今夜は部屋で宴會だとか。
 
それからが大變。 茶藝舘の個室に二組に別れて閉じ込められる。
一室へは 女八人組。  吾等は 夫婦二組に 鬘(かつら)組、山田組、料理人組に一人親爺の合計11人。
鬘さん よせばいいのに「ライチ紅茶」を所望。 高い買い物とは露知らず(?)日本人のオッチャンが現れて、「品質、價格は私が保證するから」と。
如何にこの堅固なる防壁を 何も買はずに突破するかが 團體旅行の時の醍醐味でもあり、腕の見せ所でもある。  その辺の 阿吽(あうん)の呼吸は 嫁さんとぴったり一致。
 
鬘さん たくさん買って 大きな包みを持って店を出てきたところで財布を落としおる。 通りがかりの小娘(シャオチェー)が 足で蹴って盗まんとする。 危機一髪、セーフ。
 
夕食は 「大連料理」。  二十年前には 關外には 麦酒と高粱白酒しかなかったが 今は 青島麦酒、紹興老酒 なんでもあり。  急速に 關内衣食住文化の關外への浸透が進んでゐる。 料理は種・量共豐富で 味acceptable。
 
女八人組、ウエット・ティッシューに自家箸持參。 中に一人、my-箸持參の人もゐた。 醤油は勿論、酢まで持参、組長の指導宜敷く、中國旅行慣れしてゐる。
 
ホテルの部屋は準deluxe で 照明が薄暗いこと以外は満足。
 
一週間ご滞在の周防・長門・安藝 それから越中からの 「滿洲鐵道視察團」様ご一行他でホテルは満室。
 
2011/05/xx (x) 薄曇り。
07:30am ホテル出發。  Standard組をpick-upして北大橋へ。
前夜夕食事時、へんな咳をしてゐた料理人二人組は風邪だと稱して現れず、以後 空港出發ロビーまで姿を見せず。 最初から確信犯的遁(ト ン)ズラ。

 
景勝地 北大橋は1987年に 北九洲市が寄贈したものだとか。 數十億圓の費用がかかってゐるでしょう。 寄贈の背景・理由がよく分からないが、北九洲市には 「望郷大連」 種族が多數をられたと謂う事でせうか?
徒歩で老虎灘公園へ。 ここはかつて 星が浦と並んで景勝の海水浴塲だった塲所。

  
旅程に「健康寝具店」が含まれてゐたので、余計なことだと思ってゐたが、なんのことはない、口車に乘って 高反撥枕二ヶを1,000元にて購う。
嫁さんには「鼾(いびき)」用をすすめたが、「私しゃイビキはかかぬから」と、肩こり用を求める。
 
再び市内に戻り、黒石礁・星が浦(星海地區)近辺を經由して一路 旅順古戰塲へ。
先ずは「東鶏冠山(ひがしけいかんざん)」北堡壘へ。 一帯の開發は大連旅順旅游集團有限公司、觀光開發を民間に委せてゐると謂う事らしい。

 露西亞からの老若男女觀光客多し。 露西亞人の日露戰爭感を訊いてみたかったが 言語不如意で會話出來ず。

 日露戰爭陳列舘を見てから、水師營會見所隣のレストランで晝食。

  
繃帯所建屋も内部の調度品も総て再現品。  「庭ニ一本(ひともと)棗(なつめ)ノ木」は數本植わってゐて昨年に引き續き二度目の女八人組によると 四代目だとか。

  
 
古い觀光案内には 爾霊山(203)・二○三高地へは御駕籠で往復150元だとあったが今はマイクロ・バス。  徒歩での登りはかなりきつい。 

 頂上からは旅順港が一望できる。

 膨大な損害を出した第三軍による東鶏冠山への攻撃が いかに無駄な犠牲であったかが實感出來る。

司馬遼太郎が乃木希典、就中 參謀長の伊地知幸介を 無能呼ばわりする由縁でもある。
 
山上に展示してある 280 粍榴彈砲は 一見して再現品だと判る。  東鶏冠山に展示してあった露西亞軍十二糎砲も、散々 日本軍を悩ませた陳列舘に展示してあったマキシム重機関銃(馬克沁 重机槍)も模造品だらうか? 現物を見そこなったがネット寫眞で見る嘗ての望臺砲台の「安土得竜(アームストロング)六吋速射砲」も再現品くさい。
 

  
ところで、中國語説明文には「日式280毫米榴彈炮」とあるが 帝國陸軍での正式呼稱は 「二十八珊砲」。

上が 本物の寫眞です。


榴彈砲と呼ぶよりは「臼砲」だ。 歐米では一般にa copy of 「Krupp 11-inch siege howitzer」だと謂はれてゐる。  實際には伊太利亞製のものを參考にして大阪砲兵工廠で設計、明治二十(1887)年に正式採用されたもの。
 
「珊」とは「サンチ」と發音し、建軍頭初ナポレオン式に倣って佛蘭西語を採用した帝國陸軍が大正十一(1922)年まで使用した用語で、後に「糎(センチ)」に變更となる。
 
最大射程 7,650 米で旅順港までギリギリの距離。 装彈は砲身を水平にして、重量 217 kgsの砲彈をクレーンで吊り上げて人力で押し込む。  發射速度は遅いし、短砲身の爲、公算躱避(こうさんだひ・散布界)大きく、装彈毎に 砲身を水平に戻すから、命中精度も良くない。
旅順攻防戰には 18 門が投入されたと謂はれる。
 
一般には、司馬遼太郎も含めて、二○三高地頂上の彈着觀測所と麓の砲兵陣地とを有線電話で繋ぎ、港内に停泊中の旅順太平洋第一艦隊のことごとくを この大砲で砲撃、撃沈したと信じられてゐる。 が、旅順開城後 帝國海軍が調べたところ、殆どの艦艇がkingston辧を開いて自沈してゐた。海軍は陸軍への遠慮もあって その事實を公表出來なかなったと謂う説もある。  勿論、二○三高地占領が直接 旅順開城に繋がった事實は動かぬものの、げに 歴史の眞相は判らぬもの。
 
續いて「川島芳子舊宅」なる塲所へ案内さる。 なんのことはない。 肅親王府舊址なり。 川島芳子舊宅には間違いないが。
軍の管理下にあって 軍としては「漢奸」の舊宅を整備して觀光名所とすることへの抵抗感か、無人の廢屋である。

 

大和旅館舊址へ。  川島芳子がカンジュル・ジャップと結婚式を擧げた嘗ての旅順ヤマト・ホテルは旅社・招待所として使われてゐるが、荒れ果てて昔の面影はない。

榮耀榮華を極めた 往時のヤマト・ホテル。

 
 
周辺は青空市で鮮魚の他、ドリアン、パパイヤ、バナナをも含めて南洋もの種類豐富な果物が商はれてゐる。小さなマンゴーや 眞っ赤に熟したサクランボは何處産だろうか?

 
 
大連に來たからにゃー 林檎を食わねばと、五元もあれば山ほどあろうかと、5-6箇つかんで十元札を出したところ、なんだか判らんことを喚きをる。
ガイドの助けを借りて判ったことは、一個五元だと。 觀光ズレして皆 日本人價格を おしつけられよる。 
 

ホテルに歸って食ってみて 不味いのにがっかり。

 
關東軍司令部舊址へ。  滿洲國が建國されて新京に移るまでの關東軍司令部。 當時の條約上の駐兵權は 鐵路 1 Km 當たり 15人を上限として、総勢約9,000。 師團司令部と謂うところでせうか。

向かいは 旅順博物館、その正面 右手が 旅順博物館別館。

 關東軍司令部と旅順博物館の間に 中蘇友誼記念塔のあるのが目障りだ。

往時の姿。

 
大谷コレクションのめぼしい佛像、文物、經典の類は 殆どここに保管されているが、殘念ながら今回は博物館内部の見學は出來なかった。
 
中國としては、メンツもあって 大谷光瑞鏡如上人の名前を全面に出したくない事情もあろう。    昨年クラブ・ツーリズムで訪ねたと謂う八人組・組長によると、本館には マンモスや象の化石が展示してあって 異臭・悪臭で癖々したと。   不人氣で 旅程から外したらしい。 猫に小判。
 
旅順站へ。  1900年、露西亞が建てた その儘の姿をとどめる驛舎。 文化遺産なり。

流石は大中華帝國。 驛舎も昔の姿を留めてゐます。

  

汽車の時間まで一時間半、バスの中で ゆっくりお休み下さいだと。
時間が余るなら、旅順博物館見學なり、旅順工大(現 406 醫院)、旅順高校
(現 海軍司令部)を見るなり、氣の利かぬこと。
 

 列車の時間が近づくにつれ、觀光バスが續々 集まって來る。  皆 日本人。

山口辯、廣島辯、岡山(おきゃーま)辯、長洲、藝洲、備洲・滿洲鐵道視察團ご一行様。
 

 火車は満鐵時代そのままの旅順ー大連ー瓦房店行き硬座車。

 
 
ガイドは最初から大連まで乘せるつもりはなくて、二つ目で降りますか、三つ目にしますかと訊ねおる。 プラット・フォーム低く どっこいしょとよじ登る。
結局、水師營ー龍頭ー長嶺子ー營城子で全員降りた所にバスが待ってゐた。 降りる時、プラット・フォームが無いので、殆どの女性はスッテンコロリン轉びをった。
 
旅順ー營城子間 28.1 Km。  軌間 1,435 mm。
因みに 南滿洲鐵道は歴史的に 1,520 mm (廣軌・露西亜)、1,067 mm (狭軌・日本)、
1,435 mm (標準軌)の 3 軌が存在したが、(一部支線には 1,000 mm (メートル軌)、 762 mm (輕便軌))最終的には朝鮮との乘り入れもあって、標準軌に統一された。 
 
同じ理由で聯結器は 現在も 『柴田式』 (柴田兵衛技師設計 住友金属工業製)が使はれてゐる。
往路とは逆に、復路は鐵道線路沿いに西北側から大連へ戻る。
 
夕食は餃子店。 各種餃子に舌鼓を打つ。
 
 
2011/05/xx (x) 晴れ。
ゆっくり日程で 09:00am 發、一路 金洲へ。
先ずは金洲博物館(大連金洲圖書館)へ。 節電だとかで 内部はまっ暗。
展示物の寫眞を撮ってゐたら、やんわりと注意をされた。 下が その戰利品。

 
庭に子規の句碑のある金洲副都統衛門へ。

 

 

南山古戰塲址へ。  ここは昔 乃木希典の「山川草木 轉(うたた)荒涼十里 風腥(なまぐさく)新戰塲 ・・・ 」の自筆の石碑があった塲所だが、なぜだか その石碑は今は旅順監獄にあると謂う。  朽ちかけた土台だけが殘されてゐるが、すぐ隣が露西亞戰士墓地で隣に 露西亞戰勝記念塔があって氣に食わぬ。  早々に退散。
 
大連に戻って 菜名店で昼食の後、星海公園の大連自然博物館へ。  國士舘出身だと謂う色の淺黒い中國人が日本語で案内して呉れる。 護衛もどきが二、三人ピッタリついて廻るのでおかしいと思ってゐたら、オッチャンは館内の寶石店の親爺だと判明。 世田谷に三軒レストランを持ってゐて、寶石の買い付けに東京、蘭貢(ラングーン)、大連を行ったり來たりの生活とか。
  
八人組のおばちゃんの一人が 琥珀ネックレース買上げ。 組長も 玉の活沙美容器具をお買上げ。 お美しくなる爲には氣前よし。
黒石礁・星が浦の景觀を寫眞に収める。
    

  

夕食まで時間が余ったのでアカシヤ通りを經由して八人組を健康寝具店に送る。 昨日、 我々が @500元拂ったものを、女八人組・組長が@300元に値切って成功せず。 しかし 昨夜の全體會合で やはり欲しいと謂うことになり、八個買うからと、再度 値切りに行ったもの。 果たして幾らになったやら。
 
夕食は 春餅料理。  最後の晩餐も結構でした。
 
 
2011/05/xx (x) 大連は晴れ。 成田は土砂降りの雨。
 
朝一番、 朝食をすませて 出租(タクシー)で 東本願寺別院 (現 大連京劇院)へ。
  

 

築100年の木造寺院建築に 京劇院らしい彩色を塗ったくってあるが、ともかく保存は行き届いてゐる。

      歩いて西隣の本願寺大連別院址へ。 痕跡はなにも殘ってゐないが 嘗て參詣の善男善女が足跡を殘したであろう階段が 昔の儘 遺ってゐる。 

往時の 本派本願寺大聯別院。 (西本願寺)
(上の寫眞の階段は、 下の寫眞の 山門正面の階段に相當します。)

 

   寺址には大連外國語學院圖書館が建ってゐる。  ともかく寫眞に収めることが出來た。

 
再び適士を拾って大連火車站へ。

站舎外觀は昔の寫眞で見るそのもの。
(上野驛驛舎に似てゐるのは、設計者が同じせいです。)

  ぶらぶら歩いてホテルへ戻る。
 
13:15pm 周水子機塲發 NH-904 にて さらば大連。  再見、再見。
 
(2011/06/01 初稿)

大連とは?

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