『零戰の子』 傳説の猛將・龜井凱夫とその兄弟

     (武田頼政 文藝春秋社)   を讀んで。



行きつけの書店で新刊書をみつけた。
書名が いかにも 「光人社的」タイトルで いつもなら 見向きもしないところ、
『傳説の猛將・龜井凱夫』の名前と帯の寫眞が目に飛び込んで來た。
パラパラとめくってみると、エピローグに 横志十六のお爺ちゃんの事が實名で書いてあり、早速 買うことに。

第一章 開戰、冒頭は 臺灣・高雄航空基地で指揮をとる第三航空隊 【第十一航空艦隊(司令長官 塚原二四三海軍中將、參謀長 大西瀧治郎海軍少將) 第二十三航空戰隊(司令官 竹中龍造海軍少將)麾下の戰闘機隊】 司令 龜井凱夫海軍大佐(兵-46)の「陣中日記」の引用から始まる。

帝國海軍の草分け的 古參の戰闘機パイロットであった龜井司令は、大東亞戰爭開戰初日から 空母龍鳳艦長であった昭和十八年十一月十二日までの約二年足らずの間、八册の大學ノートに 陣中日記、戰陣日誌として 日々の出來事を書き留めてゐる。

筆者はこの貴重な一次資料を克明に精査して それを縱軸に、更には 關聯文献、關係資料を隈無く渉獵して それを横軸にして筆を進めてゐる。

更には 單なる「戰 記」に留まらず、戰陣から家族に宛てた多數の私信・書簡を引用しながら、それを素に 謂はばプライバシーとも云へる龜井家の内情にまで深く踏み込んでゐる。

私のホーム・ページの別項、初稿の記述は 「石洲津和野藩四萬五千石龜井家の出自で、陸軍軍醫総監 森林太郎家が 代々 龜井藩の典醫をつとめていた關係で 八歳で上京して森家に預けられ 鷗外の薫陶を受ける。」となってゐた。

 筆者によると 鷗外との關係は 單なる 藩主家と典醫の間柄に留まらず 少將の實父の廢嫡問題、さらには 少將が海軍兵科への道へ進んだ經緯に 陸軍軍醫総監森林太郎自身が深く係はってゐたと謂う。
また、少將が戸籍上の長男で 實兄龜井貫一郎が義弟となった經緯等、筆者は遠慮無く突っ込んで筆を進めてゐる。

龜井貫一郎については 私のホームページ別稿 「淺原健三の生涯」 にもちらっと觸れてゐるが、外交官出身の美丈夫で稀代のプレイ・ボーイが 近衞文麿公爵を使嗾して大政翼賛會へ走らせるさまが克明に描かれてゐる。

更には 筆者の筆が 革新官僚の義弟 毛里英於菟ヒデオトに及ぶと 李鳴コト阿片王 里見 甫などが登場し 筆致は將に佐野眞一ばりに展開する。

龜井少將家は勿論、貫一郎、英於菟、里見 孰れも 妙本寺を中に挿んだ鎌倉族で そこで繰り廣げられるドラマは 一層の興味をそそられる。


エピローグP-404 に『戰後だいぶ經ってから、加藤洋子ヒロコと會う機會があった。』とあるのは、私のホーム・ページ

      「横志十六のお爺ちゃんとマリアナ海軍航空隊司令 龜井凱夫海軍少將の事」

を ご覧になった龜井伯爵本家筋の方からの御依頼で、少將のご令嬢を私の家内の運轉で 大船のお爺ちゃんのお宅へご案内申し上げた事で、平成十四 (2002) 年初夏の出來事。

少將のご長男惟央タダオ氏(京都大學理學部名誉教授、故人)は鎌倉生まれの鎌倉育ち。 先日亡くなられた山本五十六元帥のご長男と同じ ハリス記念鎌倉幼稚園の卒園で 同じ鎌倉住人として ご縁浅からぬ因縁を感じてをります。


光人社ばりの「戰記物」をご期待の向きには 聊か期待が外れるかも知れませんが、
龜井三兄弟を通しての昭和の裏面史であり、流石は文藝春秋社の本だと「讀ませる内容」です。

しいて重箱の隅をつついて 難癖をつけるなら、航空専門誌記者にあるまじき用語の遣い方に誤用・錯誤あり。

帝國海軍では 高角砲(=高射砲)、 機銃(=機関銃)【帝國陸軍では口徑13mm未満が機関銃、それ以上が機関砲、帝國海軍では 口徑に關係なく すべて「機銃」と呼稱】、 艦上機(=空母離發着機)、 艦載機(=艦船カタパルトから發艦機)【「空母艦載機」と謂うのは NHK の誤った造語で 存在しない】、等々。

また 文藝春秋社にしては 珍しく 高雄=高尾(P-09、P-159 x 2)と 三ヶ所も誤植がある。   折角の名著に 「畫龍點晴ノ妙」を缺く。

欲を云へば 文體の品格を騰めるべく、龜井凱夫海軍少將(=井少)、聯合艦隊(=合艦隊)、 零式艦上戰闘機(=零) と本然漢字を遣って欲しかった。
  固有名詞では 森 鷗外、蔣介石、讀賣新聞、水野廣徳、津島壽一、若槻禮次郎、濱口雄幸、源田 實、等々 第二水準漢字に拘ってゐるのだから。

孰れにしても 紙價は高い。 版を重ねる事や 切に祈る。

(2014/12/15)


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