山下奉文と武藤 章。

GENERAL YAMASHITA'S SWORD.

This Samurai sword was surrendered on 3rd September, 1945 by General Yamashita, the "Tiger of Malaya", who commanded the Japanese troops in the Philippines during World War II. The sword was made by Fujiwara Kanenaga between 1640 and 1680, and presented to the West Point Museum by Major General Edmond M. Leavey (USMA Class of August 1917) on behalf of General Douglas A. MacArthur (USMA Class of 1903).

武藤むとう) あきら) こう

ウエストポイント(West Point)米 陸軍士官學校參考館に山下奉文ともゆきの寫眞とともに佩刀はいとうの展示あり。 英文の説明にいはく;
『比島(フィリピンの事)で日本軍を指揮した「マレーの虎」山下將軍より1945年9月3日に差し出されたもの。1640-1680 年 藤原兼長の作。』とある。 山下奉文の寫眞は獨逸軍事視察團長として渡歐直前の 昭和15年秋に撮影されたものと思はれる陸軍中將正裝のもの。

以下 兒島 襄著「史説山下奉文」あとがきからの引用; (昭和四十四年五月二十五日 文藝春秋社 初刷)
『大将はおよそ、精神効果や気力に頼ることを嫌う合理主義者であった。おそらく、太平洋戦争時代において、山下大将ほど、個人としては武技に興味を持たず、なにかというと軍刀をはずしたがる将軍も、少なかったに違いない。陸軍大将の佩刀であれば、当時のことである、名だたる銘刀が自然であったが、山下大将は、選択にも無造作だった。降伏ときまり、佩刀を米軍に差しだすさい、山下大将はちょっと困った様子を示し、参謀長武藤章中将が、自分の刀は名工の作ゆえ安堵請うと微笑した旨が伝えられているが、山下大将は軍刀に有効性を認めなかったと同様、いわゆる玉砕戦法を好まず、責任のとり方についても”腹切り型”に背をむけていた。その様子は、フィリピン戦線の戦術指導ぶりや、刑死を甘受した最後に顕示されている。』

慘殺された永田鐵山軍務局長の衣鉢ゐはつぐ(師から弟子に傳へる佛道の奥義、袈裟と托鉢用の鉢を受け渡すの意から)鐵血教壇 統制派の俊英武藤章は2.26事件当時中佐で軍務局軍事課の高級課員として佐官にして蹶起けっき部隊(叛亂部隊)の斬奸状ざんかんじょう(悪者を斬り殺す趣意書)に名を挙げられる。 片や山下奉文少將は陸軍省軍事調査部長で皇道派のspokesman として蹶起趣意書に朱筆を入れたりするが事件勃發直後、大御心おうみこころ(天皇陛下のお考へ)を知るや能吏の常として態度豹変、蹶起將校に讒訴ざんそ(貶めるための陰口)される羽目になる。 お互ひ思想信條を異にする謂はば命がけの敵役かたきやくである。

武藤が山下に兄事する様になるのは日支事變最中の昭和13年 7月、北平で北支那方面軍參謀副長として參謀長山下奉文中將に仕へる様になってからであらう。 翌年3 月少將に進級した武藤は9 月30日付けで陸軍省軍務局長に榮進する。東條英機陸軍大臣の下で軍政をほしいまま擅断せんだん(好き勝手に振舞う)するが大東亞戰爭開戰の議に社稷しゃしょく を殆うく(國を危うくする)することを懼れて開戰に躊躇すると 東條内閣総理大臣兼陸軍大臣に疎まれるようになり 開戰後の17年4 月Sumatra・Medan に司令部を置く 近衞(第二)師團長として中央から遠ざけられる。

一方、2.26事件で陛下の禁忌に觸れた山下奉文は15年7 月陸軍大臣に榮進した東條英機の後任として陸軍航空總監で中央に返り咲く。が、席の温る暇 も與へられず陸軍大臣より遣獨軍事視察團長として訪歐の命を受ける。

第二十五軍司令官としてシンガポール攻略の武勳赫々の山下は軍状奏上(宮中に参内して陛下に戰果報告をする)も許されぬまま、牡丹江ぼたんこう(中國東北部の都市)で第一方面軍司令官としてソ滿國境の護りに就く。 山下が再び脚光を浴びるのは東條失脚後の19年9 月風雲急を告げる比島(フィリピン)に第十四方面軍司令官として命課された時で參謀長には自らの強い希望で武藤章を指名し、名指された武藤も親補職しんぽしょく(陛下から親任される職)からの降格を壓はず(師團長は親補職、方面軍参謀長は奏任職)承けたと謂はれる。

マニラ郊外櫻兵營(Fort McKinley) で着任申告の武藤の言葉も終はらぬうちに山下の發した第一聲は『おーう、待っとったぞ』であったと傳へられる。

武藤 章はマニラ軍事法廷での山下裁判の特別辯護人としての務めを終はって歸國と同時に自らも東京での極東國際軍事裁判A級法廷に訴追され47訴因の内7 訴因に有罪判決を受ける。
A級戰犯中最若年、中將で唯一人の極刑。

若き日に大分歩兵第七十二聨隊で少尉小隊長を務め、大正四年にはドイツ語の能力を買はれて大分俘虜ふりょ(捕虜と同義)収容所勤務を經驗し、先輩將校夫人とダンスに興じ、大戰後のドイツベルリンに學び歐米を廻って見聞を廣め、能筆家としても知られ、泉村宗匠の雅號をもち 苦戰のルソンの山中にあって折々の心境を句に託す風流を忘れず、巣鴨にあっても監視の若年の米兵を得意のwit でからかう事を樂しんだ武藤は處刑直前 最後の面会に初めての着物姿を見せんと訪れた一人っ子の愛娘 の寒そうな薄い肩をみて『ショール買ってやりたいと思ひけり』の一句を詠むやさしい父親であり 妻をこよなく愛する良き夫でもあった。

West Point陸軍士官學校を見學に訪れる日本人は多い。 が 參考館の山下大將の佩刀を見た日本人の何人が この銘刀にまとはるロマンと裏のドラマを承知してゐるであらうか。

寫眞右上は『降伏文書』(Instrument of Surrender) 署名者は 第十四方面軍軍司令官 山下奉文陸軍大將、南西方面艦隊司令長官 大川内傳七海軍中將 竝に Edmond M. Leavey, Major General, USA, Deputy Commander, United States Army Forces, Western Pacific。  日本側署名欄には「大日本帝國大本營を代表して」(By command of and in behalf of the Japanese Imperial General Headquarters)と書かれてゐる。

追記; (2004/12/21)

「最後の陸軍省人事局長 額田 坦回想録」によると 山下將軍自らは 参謀長に額田 ひろし中將(士候29)を希望したとある。 参謀副長 西村敏雄少將(士候32)が 山下將軍に直接確認したとあるので そちらの方が正解のようです。  (1999 芙蓉書房出版)

追記-2; (2006/10/12)

戰史叢書「捷號陸軍作戰(2)」ルソン決戰 附録に「在比帝國陸海軍部隊の降伏文書調印」と題する 第十四方面軍参謀長 武藤 章中將の(於獄中)とした手記が掲載されてゐる。 それによると 當初提示された「降伏文書」には「日本政府ヲ代表シテ・・・」とあったと謂う。 署名された文書には 上述の通り「大日本帝國大本營ヲ代表シテ」となってをり、日本政府を代表してゐないと謂う 武藤参謀長の要求が受け入れられたものだと考えられる。(1972.11 第60冊附録)

引用、參考文獻;
     「史説 山下奉文」 兒島 襄  文藝春秋社
     「暗い暦」 二・二六事件以後と武藤 章 澤地久枝  文春文庫

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