山本五十六元帥 生家 ならびに 二階二畳の勉強部屋。

 

 


新潟縣長岡市坂之上町三丁目
平成二十六(2014)年十一月五日撮影

私の書評 「海燃ゆ」 山本五十六の生涯
 工藤 美代子 著  講談社刊 2004(平成十六)年6月

  阿川弘之「山本五十六」との比較對比で。
 
女流作家 工藤 美代子さんが 930 枚の大作「海燃ゆ」を上梓じょうしした。
本書は「見返し」にある通り、「海續く果て」と題して平成十五年一月から一年間に亘って新潟日報に聯載された作品を單行本に纏めたものである。
 
女流作家として 同じ海軍々人を題材とした 高田萬龜子著「静かなる楯・米内光政」(原書房 1990(平成二)年)に比肩される。
 
ただ 高田萬龜子まきこが 獨自の手法、獨自の境地で作品を構成したのに比し この作品は 明らかに 阿川弘之を下敷にしてゐる。 勿論 著者はそのことを隠す意圖は毛頭なく、随所に 阿川を引用し 女流作家の視點、觀點から 阿川とは違った新しい解釋と、解説を加へてゐる。
 
阿川弘之「山本五十六」は 元々昭和三十九(1964)年秋から一年間 朝日新聞社發行の月刊誌「文藝朝日」に聯載されたものを單行本に纏めて昭和四十年十一月に新潮社から出版(327頁、初版初刷 定價四二○円)されたものであるが、その後 300 枚を加筆、改訂し、舊版を絶版とした上で一冊に纏めて「新版 山本五十六」(406頁 定價六○○円)として昭和四十四(1969)年十一月に上梓されたものである。
1300 枚の大作であり山本五十六に関する限り総てを網羅して余すところないものだと考へられ 出版当初 多大な反響をよび、その後執筆された三部作 「米内光政」(昭和五十三(1978)年十二月初版新潮社發行 上巻下巻各定價九五○円) 井上成美ゐのうゑせいび(一九八六(昭和61)年九月初版新潮社發行 定價二○○○円) と共に阿川文學の精華として絶賛を博し、阿川弘之文化勲章受章の大きな原動力となったものである。
初版「山本五十六」から「新版 山本五十六」への移行の經緯については、同年八月末日付けの同氏の筆になる「あとがき」に詳しい。 現在發行されてゐる昭和四十八年二月初刷の新潮文庫本「山本五十六(上)(下)」は この「新版 山本五十六」を踏襲してゐるが、平成二年十二月に改版となり 現在 五十五刷と版を重ねている。 文庫本では 阿川自身の筆になる「あとがき」は削除され、全く不適切、不必要な村松 剛による「解説」が付加されている。 工藤美代子は「初版」と「文庫本」を引用しているので この「あとがき」には目を通してゐない事になる。

ただし 平成二年改版の文庫本には「作品後記」が追加され、「文藝朝日」執筆の經緯に始まって、二つの刑事訴訟問題に関しても より具體的に詳述されてゐる。 更には「五峯録ごほうろく」閲覧が出來た經緯についても 初めて明らかにされてゐる。  工藤美代子は さすがに「五峯録」を目にする事は出來なかったようである。

惜しむらくは「初版」では「資料談話提供者」「参考引用文献」の記載がなく、新版で記載の「参考引用文献」には著者名と書名のみで 出版社名、發行年月日の記載が缺落してゐる。
 
さて阿川弘之が 反町榮一そりまちえいいち「人間・山本五十六」を「下敷」にして、そこから羽を延ばし、枝葉を付けて1300枚の大作に仕上げたのに比し、「海燃ゆ」は阿川山本を下敷にしているとはいえ、適宜 著者自身の身頃と丈に打ち直し、さらには事實考證を加へて徹底分析、獨自の解釋を開陳してゐる。 事実 下敷の部分も單なる下敷とせず、新たに發掘された資料を驅使して阿川に反論を加へている。
阿川が反町本を「・・・郷党の人の、あばたもすべてえくぼ式、都合の悪いことはあまり書いてない・・・」と云った 都合の悪いこと、即ちスモール・ジョンこと鶴島正子、先代小壽賀「和光」の丹羽みち や 舟宿「中村家」の古川敏子にかなりの紙数を費やしているのに反し、著者は 山本の人格の本質に無関係とばかりに徹底してこの部分を排除している。 そして著者が阿川解釋に最も反發しているのは 禮子れいこ夫人と 梅龍こと河合千代子の一件で 阿川の「初版」と「新版」を對比させてまで反論している。
 
「海燃ゆ」は総て當用漢字、新假名遣で統一されてゐるのに、面白い事に この部分の「初版」文の引用に「山本の戰死後は、禮子に「女元帥」という綽名がついた。 禮子は子供には甘く、心のやさしい人・・・」と律儀にも舊態漢字を使ってゐる。
ちなみに阿川弘之は初版「山本五十六」で「連合艦隊」としたものを 新版以降は文庫本も含めて総ての著作を「聯合艦隊」に改めたのに対し、初版本で「禮子」としておきながら、新版以降は「礼子」に改めてゐる。
 
さらには阿川が全く無視してしまった「高野 京」が「海燃ゆ」ではワキ役として登場させてゐる。
著者は「高野 京」を 山岡莊八「元帥山本五十六」(一九四四(昭和19年) 大日本雄辯會講談社)からロマンチックな色彩を嗅ぎ取った旨 記してあるが、(「海燃ゆ」P-45)阿川には この山岡本に接する機會はなかったようだ。 しかし「高野 京」の名前は 山本の書簡には「お京」の名前で頻繁に出てくるし、反町本にも度々 引用されている。 ただ反町本からは いかに女流作家特有の嗅覚をもってしても そこに淡い匂いを嗅ぎつけることは出來なかったであろう。
 
反町本に明治四十年九月二十九日付山本五十六書簡を引用して「三浦内科婦長室にて」の記述があり、高野 京が當時 東京帝國大學醫科大學 三浦謹之助 教授のもとで附属病院「内科看護婦長」であった事が判る。
また 大正六年三月山本が 箱根堂ヶ島温泉で盲腸炎を患ったとき、横須賀海軍病院ではなくて 東京帝國大學附属病院で 全身麻酔をかけて近藤次繁博士執刀で開腹手術を受けたのも 高野 京を頼っての事であろう。 阿川「初版」にも「新版」にも「山本は大尉時代、堀 悌吉といっしょに湯河原へ遊びに行き、蜜柑を一度に四十七個食って、盲腸炎になったことがあった。 その時、手術を受けるのに、彼が麻酔をかけないでやってほしいと主張し・・・」との記述がある。 「蜜柑四十七個」とやけに詳しく書いているわりには「お京」の名前も近藤次繁博士の名前も出て來ない。 大正四年十二月には少佐に進級してをり 或いは 大尉の時と 少佐になってからと 二度虫垂炎を患ったのであろうか?

後に二・二六事件の時 山本五十六海軍航空本部長は豫備役海軍大將である鈴木貫太郎侍従長救出に「帝大外科の第一人者近藤博士」を鈴木邸へ送り込むが、阿川は「反町式表現法では、山本に関聯あるものは何んでも飛びっきり上等になったり第一人者になったりするもので・・・」(阿川「新版」P-101)と皮肉っぽく記述するが、この「帝大外科の第一人者近藤博士」が嘗て山本の盲腸を摘出手術した近藤次繁博士であり、「お京」が一枚も二枚も絡んだ話であろう事は容易に推測出来た筈だが。
 
全般に阿川本では 山本家(高野家)、三橋家の縁戚をほとんど登場させてゐない。
就中なかんずく 高野五郎陸軍軍醫少將や 最も信頼する部下の一人であり、禮子夫人の令妹十美子を自らの仲人で娶らせた 齋藤正久海軍大佐(兵科47期、臺南空司令、第221空司令、第252空司令 等を歴任)の名前が全く登場しないのは不思議なくらいである。
 
阿川が直接取材した人達の多くが既に鬼籍に入り、山本を直接識る人の少なくなった今、山本家、三橋家の関係者の全面取材協力により 女流作家の手で新たな山本五十六像が浮き彫りになってゐる。 中でも 齋藤夏子さんのお話は山本五十六研究者にとっては貴重な證言である。
阿川は「新版」の「あとがき」の中で述べている如く、山本家から「名誉毀損」の故をもって告訴をうけ、その問題に一應の落着をみてから舊版の加筆改訂に着手、約一年間を費やして「新版」の脱稿をみたとある。 しかし 結局 當時まだご存命であった禮子夫人はもとより 嗣子義正氏にも取材は叶はなかった。 また かたよった阿川山本像に抗議の意味で上梓されたと思はれる「父・山本五十六」も「新版」に反映出來なかったと「あとがき」に書いてある。(「新版」引用文献に「山本義正著 父・山本五十六への決別」と記載があるが 出版社名も年月日の記載なく 「父・山本五十六」と同一のものかどうか判断つかない。)
 
「阿川は千代子について書くために五十六をテーマに選んだのではないかと思われるほど、力を込めてこの女性を描いている。」(「海」P-165)と謂い、初版本から「私も、此の女性には會うことが叶わないままである。」(「初版」P-52)を引用して「したがって彼女に関する情報量はそれほど多くはない。」(「海」P-248)と 逢いもしない人の事を少ない情報で書くから山本の實像を間違へてしまったのだと謂はんばかりである。
たしかに阿川は初版本の段階では「會うことが叶はない」ままであったが、新版「資料談話提供者」に「後藤千代子」の名前があり その段階で梅龍コト河合千代子に「逢うことが叶」ってゐるが、千代子への見方そのものは「初版」も「新版」も根本的變化はない。
 
阿川弘之の「暗號戰争」(原題 THE CODE BREAKERS, by David Kahn, Mcmillan 1967 )(秦郁彦譯 早川書房 昭和43年11月)へのおもひ込みは 一方ならぬものがあり、 山本五十六邀撃に繋がった暗號解讀について「現在でも「あれは正規の戰略暗號が讀まれたのではない」と信じている人があるけれども、山本の死から四半世紀後に出版されたデーヴィッド・カーンの「The Codebreakers」を見れば、アメリカの情報部が「NTF機密第一三一七五五番電」を解いていたことはほぼ確實である。」と俗論を排すの筆致で「軍艦長門の生涯」(新潮社 昭和五十年十二月 下巻P-224)の中で書いてゐる。 

著者のカーン氏はユダヤ系米人記者であり 具體的史資料の裏付もなしに傳聞だけを繋ぎ合せて新聞記者獨特の断定的筆致で書いているが、情報公開法 FOIA (Freedom of Information Act)施行以後に上梓された、 海軍次官時代の山本のブリッジの相手をして面識があり、山本の人となりをる 當時の太平洋艦隊情報参謀で 司令長官Chester W. Nimitzに山本五十六邀撃ようげきを直接進言したEdwin Thomas Layton中佐の著書 "AND I WAS THERE" と、1979年に公開された米國立公文書館の資料から、「NTF機密第一三一七五五番電」解讀の經緯について、全くの憶測と推測により書かれてゐた事が暴露されている。
 
この部分、「海燃ゆ」では英人記者ジョーン・ポッターの「太平洋の提督 山本五十六の生涯」を著者は引用しているが、(著者は 兒島 襄譯 1997恒文社版を引用してゐるが、私の手元にあるものは 三戸 榮譯 昭和41(1966)恒文社版で 原書は Admiral of the Pacific; The Life of Yamamoto by John Deane Potterである。 同書は 譯者注にもある通り 内容的には事實に「誤」が多い。) 本書も情報公開法施行以前の1965(昭和40)年に書かれたもので、暗號解讀に関する部分も 事實に相違する。 (詳細は 別稿「機密NTF第一三一七五五番電傍受解讀の眞實」をご参照。)

山本の視察豫定について、著者は十分な咀嚼が出來てゐない。 海軍軍事に疎い女流作家としてはやむをえないところであろうか。
先づ スケジュールそのものは、二番機に搭乘して戰死した 室井捨治航空乙参謀(兵科54、海大36恩賜、佛、獨駐在)が起案したものだと謂はれてゐる。

中攻にて 0600 RR(ラバウル)發
0800 RXZ(バラレ)着、 驅潜艇にて 0840 RXE(ショートランド)着
0945 RXE(ショートランド)發 1030 RXZ(バラレ)着、
中攻にて 1100 RXZ(バラレ)發、 1110 RXP(ブイン)着
中攻にて 1400 RXP(ブイン)發、 1540 RR(ラバウル)歸着。

だから「・・・午前八時にブインに到着する豫定だった・・・」(「海」P-468)と謂う記述は 正確ではない。
米太平洋艦隊諜報部は RXE(ショートランド)を解讀出來なかったが、RXZ(バラレ)着が 0800である事を正確に掴んでおり、そでだけで山本迎撃作戰をたてるに十分であったわけです。 RXZ-RXE往路と歸路で五分の差があることに 米諜報部は「潮流の所為」(Five minutes disparity in minesweeper trip, because of tides)だと 細かい分析までも加へている。

さらに「・・アメリカ側の記録では午前九時四十五分にブイン到着となっている。」と時間差に疑問を呈してゐる記述は 日米海軍の時間表示の差違知識の缺如を示してゐる。
帝國海軍は日付變更線をまたいでの眞珠灣攻撃の時も含めて、作戰地域に関係なく、常に「日本標準時」を使ってゐたのに、米海軍ではG.C.T.(通常はGreenwich Central Timeの略號として使はれるが、米海軍では Greenwich Civil Time の略號といして使用してゐた。 英國では G.M.T., Greenwich Meantimeが一般的なのだが) を基準にしてゐたが、局地、就中 航空情報は それぞれの地域時間を使ってゐた。 G.C.T.を「Q」 (voiceでは「Queen」)として東回りに「A」「B」「C」・・・と 15經度ごとに割り振り 日本時間は 「I」 (voiceでは「INDIA」)即ち、G.C.T. plus 9としてゐた。 迎撃機が飛び立ったガダルカナル・ヘンダーソン飛行塲は東經160度付近にあり、「K」時間帯、即ちG.C.T. plus 11であり、「I」時間帯とは二時間の時差がある。 即ち 0945/K は 0745/I であり 邀撃地點カヒリ上空での攻撃開始時刻を正確に言い當てている。
 
時期的に少し後戻りする事になるが、著者は昭和十二年九月十三日の「高松宮日記」を引用して「・・・高松宮は、どうやらあまり五十六に好意を持っていなかったようだ。」(「海」P-245)と記す。 この話、上海行の件が沙汰やみになった説明に松平恒雄宮内大臣が尋ねて來た時の話として「昨日 海軍次官と聯絡し 現地に行くを海軍も欲せず」との事であったと謂う事なのだが、果たして 山本五十六次官が その様に云ったのかどうか 少しあやしい。 宮内大臣が 舊知の山本次官の名前を語って 海軍の意向のせいにしたのではあるまいか?
上海行きの件がお日記に最初に現れるのは八月二十二日で「北支又ハ上海戰線を見に行くことに對し、宮内省側に根本的に不可とする理由ありや、別當に尋ねさす。」に始まる。
翌二十三日が所謂 呉淞ウースン上陸作戰が決行された日で、大川内傳七少將(兵科37)麾下の上海特別陸戰隊しゃんりくが大苦戰を強いられていた時期である。
なかなか返事がないので二十八日に別當に催促させたところ、木戸幸一宗秩寮そうちつりょう総裁の返答は「コマッタ、メンドウな事」として「簡にして要を得ず。」
九月四日 参内し陛下に直接 お伺い。
九月五日 「お上より御手紙ありて、戰地行きの件につき、御示あり。」
九月九日 「午後、次長に上海行くこと話し、アレンジたのむ。」
九月十日 「上海行きの件、二十日頃として、やはり「大井」をださせる、・・・」
直属上司にあたる嶋田繁太郎軍令部次長(兵科32)に話し、九月二十日頃「大井」で行くことにきまってゐたものを、宮内省に話をつぶされてしまい、腹の虫の治まらぬ殿下は十一日のお日記に延々と紙数をついやし、十二日、十三日、十八日、二十六日と、少々八つ當たり氣味に後々までこの件について書きのこされてをられる。 時移り時代が變って宮内省が宮内廳になり、宮内大臣が宮内廳長官となっても 長袖者ちょうしょうしゃのやることはかわらず、あの時代は記者會見で「・・・キャリヤーを無視し、人格を否定された・・・」と言うわけにもいかず、ひたすらお日記にご不満を込められたものであろう。
 
ちなみに、呉鎭守府の第三豫備艦であり永らく兵學校の練習艦として殿下にも馴染み深い輕巡洋艦「大井」は事變勃發と同時に聯合艦隊に編入され、小松島から徳島の歩兵第四十三聯隊(第十一師團)の陸兵を運んで來た「長門」から馬鞍群島沖合で移乘をうけ、川沙鎭揚陸作戰に従事する。 この時「大井」はなかなか「長門」への横付けが出來ず、聯合艦隊旗艦「陸奥」の艦橋から見ていた参謀長小澤治三郎少將(兵科37、終戰時 聯合艦隊司令長官)がみかねて「イカリヲイレレバシヲニタツ」の信號を送り助け船を出したと謂う有名な話がある。 陸船頭おかせんどう志摩清英艦長(兵科39、後 中將、海軍通信學校長、第五艦隊司令長官、第一航空艦隊司令長官 等を歴任)が後に その時の事を「提督小澤治三郎傳」の中で述べてをり、面白いことに その後をうけた練達の船頭である澁谷清見少將(兵科45、當時 聯合艦隊旗艦「陸奥」航海長、後 海軍航海學校教頭、空母隼鷹、戰艦長門艦長)が「赤煉瓦出身の某輕巡艦長」と揶揄やゆしてゐるのは 編集者の「妙」である。
この頃の山本の印象について、阿川弘之は「軍艦長門の生涯」(下巻P-33-34)の中で、當時聯合艦隊通信参謀で永野修身司令長官の命令で次官、次長、軍務局長にあった鮫島素直少佐(兵科48、後 大佐、終戰時 軍令部第四部通信課長)の言を引用して「山本五十六中將は、世評とちがう冴へない人だという印象が當分拭へなかった。」と記す。 當初 事變不擴大方針であった米内光政海軍大臣が 大山勇夫中尉(兵科60)事件を契機に 積極擴大派に方向轉換、女房役の山本次官も對應にとまどってゐたのではなかろうか?
 
「高松宮日記」全八巻は平成七年六月から順次刊行。 當初 宮内廳は公刊に難色を示してゐたと謂はれるが、妃殿下の強いご意向で發刊にこぎつけた經緯は、編集に携はった阿川弘之の筆になる「高松宮と海軍」に詳しい。
 
著者は もう一カ所、昭和十七年十二月十二日の伊勢神宮御親拝の件に関して昭和十八年五月二十八日の「宮日記」を引用してゐる。(「海」P-413-415)
藤井 茂政務参謀(兵科49、海大30恩賜)の話として 御親拝の經緯を 同期の鹿岡圓平かのおかえんぺい内閣総理大臣秘書官(兵科49、海大32恩賜、後 那智艦長として馬尼刺マニラ灣で戰死、任 海軍少將)から聞いていながら、山本長官に報告出來なかったと謂うもの。
「戰藻録」第六巻 缺落(經緯は「海」P-428/429)のため詳細判らぬが、「宮日記」昭和十八年三月二十四日「聯合艦隊、南東方面艦隊参謀長ニ第三段作戰ニツキ次長説明。」とあり この日 宇垣 纏参謀長が 中原義正南東方面艦隊参謀長(兵科41恩賜、海大24、ラバウルで爆撃により重傷を負い、昭和十九年二月二十三日築地の海軍軍醫學校附属病院で戰病死)を帯同して上京してゐたことが分かる。 山本が四月二日付けで河合千代子宛に出した最後の手紙の文面から、藤井大佐、渡邉安次中佐も この上京に同行してゐた事が判る。 その折り、宇垣、藤井、鹿岡、佐薙さなぎさだむ、兵科50、海大32、当時 軍令部第一部第一課作戰班長、後 南東方面艦隊先任参謀)、渡邉が 梅龍に招待をうけ馳走に預かってゐる。 藤井大佐が鹿岡大佐から 御親拝の經緯を聞いたのは、この上京の折であろう。
また 山本長官戰死の知らせが その日の内に早々と高松宮のもとにもたらされていた事を 驚いているが、高松海軍大佐宮は 當時 大本營海軍部参謀として軍令部第一部第一課にご勤務で、毎日 総ての作戰電報をご覧になられるお立場におられたわけである。 たしかに「甲」第一報、第二報が 四月十八日の欄に記載されているが、この日は日曜日で 午前八時軍令部に出頭、午後から大宮御所に行ってをり 果たして 同日の内に両電を目にしたものかどうかは 定かでない。
因みに 翌年三月 嶋田海軍大臣が軍令部総長を兼任するようになり、毎日 陛下に戰況をご報告申し上げるわけだが、楽観情報を上奏すると、決まって陛下は眞相をご存じでお叱りをうける。何故だと調べたところ、事前に参謀宮殿下から内奏されてゐる事をつきとめ、殿下に作戰電報を見せるなと厳命し、横須賀海軍砲術學校教頭として軍令部から放逐した經緯を 當時 軍令部で毎朝入電電報の整理を擔當していた 野村 實少尉(兵科71恩賜)が書き遺してゐる。

  三國同盟締結にあたって 「及川が東京で首脳會議を開いたのは九月の五日と六日だった。 五十六は會議に出席するために瀬戸内海の柱島から上京した。」(「海」P-301)と原文にある。
省部の三國同盟推進派に突き上げられてノイローゼ氣味になり築地の海軍軍醫學校附属病院に入院した吉田善吾中將(兵科32、それでも翌々月には 山本五十六、嶋田繁太郎と共に大將に昇進)が辭表を提出したのが九月四日。 及川古志郎大將(兵科31)の海軍大臣就任が 九月五日。 裏で畫策して住山徳太郎中將(兵科34)を追い出し、 豊田貞次郎中將(兵科33)が 航空本部長から念願の 海軍次官に就任したのが九月六日。  いくら 口八丁手八丁の豊田でも  就任早々に三國同盟の締結のための首脳會議を招集出来る筈がない。 阿川弘之は「・・・就任後、條約調印までの三週間の間に、・・・」として日時を特定していないが、その成り行きをつぶさに観察していた朝日新聞政治部の杉本 健記者(後 産經新聞論説委員)の書いたものによると 「豊田大臣、及川次官」と揶揄された豊田貞次郎が 得意の根回しをし、すっかりお膳立ての出來上がった この會議が 海軍大臣官邸で開催されたのは九月十五日夕刻だったとのことである。
天王寺中學校、東京外語英語科、海軍兵學校、海軍大學校(甲種十七期)と常に首席でとうした豊田は、はやくから 次官になりたい、大臣になりたいで、阿川弘之は池島信平の言葉なぞを引用しながら「・・常識的な意味では人格圓満な提督であった。」と書く。 しかし續けて、「ある時次官の山本が、「オイ、こういう手紙が來ているから、参考のためにみとけよ」と、佐世保の豊田からの書簡を、軍務局長の井上にみせたことがある。」として 豊田貞次郎佐世保鎮守府司令長官から山本五十六海軍次官あての手紙の内容を披露してゐるが、これこそが豊田貞次郎の人格と人間性を如實に表してゐる。(「新版」P-203)  昭和十六年四月四日 海軍大將昇進と同時に豫備役編入、商工大臣として念願の入閣を果たす。  七月には松岡洋右のあとをうけて 外務大臣兼拓務大臣へ。  その後 日本製鐵社長を經て軍需大臣兼運輸通信大臣も歴任する。 良識ある海軍軍人からは「出世のために海軍を踏み臺にした」と批判されながらも戰後は貴族院議員をも勤め、公職追放解除後は日本製鐵の関連で日本ウジミナス會長として 昭和三十六年まで生き長らへる。
ちなみに兵科三十三期の次席は 豐田副武とよだそえむ(海大15恩賜)である。 東條内閣組閣の際 海軍大臣として推挙されながら 日頃の陸軍批判、對米戰反對の言動が災いして東條英機に入閣を拒否されたと傳へられる。 東條の副官と揶揄された嶋田繁太郎でなく豐田副武海軍大臣が誕生してゐたら日本の歴史は變ってゐたかも知れない。

山本五十六が 及川大臣の諒解を得て近衛文麿に逢ったのが その上京の折りだと謂う事になっているが、伯林ベルリンでの條約調印が 昭和十五年九月二十七日であり すこし 日時の辻褄があわないような氣もする。
阿川弘之によれば 山本五十六は 極秘裏に翌年九月十二日に荻外莊てきがいそうで近衛に再度逢い、「それは、是非私にやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧に入れます。  ・・・」と「前回と同じことを答へ、・・・」(阿川「新版」P-247)とある。  この會談の時、近衛から九月六日の御前會議で 陛下が明治大帝御製 「四方よもの海 皆 同胞はらからと思う世に なと波風の立ち騒ぐらん」 を二度までお詠になられた旨 聴かされてをり 山本にとっては より重要な意味を持つ筈だが、なぜか著者は この會談の事には觸れてゐない。  ちなみに 阿川は「前回と同じ答」と言うが、前回は「・・・初め半年や一年は、・・」(阿川「新版」P-205)となってをり、著者も「海燃ゆ」の中で これを引用してゐる。(「海」P-302)
 
女性筆者ならではの記述もある。
聯合艦隊旗艦「大和」でのミッドウエー海戰出撃壯行會の晝食に「鯛の味噌焼き」が出された話がある。 阿川は従兵長の近江兵治郎から聞いた話を「初版」でも「新版」でも全く同じ文章で事實として語ってゐるだけだが、「海燃ゆ」では「おそらくは大量の鯛を確保するとなると鮮度の問題があって、味噌焼きにしなければならなかったのではないだろうか。」(「海」P-374)と女性ならではの観測を書き加へている。
またテクスト・クリティサイズも怠ることなく、近江兵治郎著「聯合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち」(テイ・アイ・エス 2000年)から「聯合艦隊の主力部隊は、廣島灣に歸ることなく、内南洋のトラック島に向け直進した。」と謂う部分を引用して「實際、五十六が柱島から郷里の人々へ書いた手紙もあるので、・・・」と近江の勘違いを指摘してゐる。(「海」P-394) 宇垣 纏聯合艦隊参謀長(兵科40、終戰時 第五航空艦隊司令長官として沖縄に特攻自決)の日記昭和十七年六月十五日の項に「午後四時半、病院船氷川丸及高砂丸に本回の傷者を見舞ふ。」とあり氷川丸病院長金井 泉海軍軍醫大佐の先導で山本長官、南雲忠一第一航空艦隊司令長官、宇垣参謀長の順で巡察の寫眞が残っている。
同日記、六月十日の項「第二種軍装に変更す。」とあり 山本長官以下純白の軍装なのに ミッドウエー敗戰の南雲長官一人 悄然としてネーヴィー・ブルーの第一種軍装なのが異様である。
この時 氷川丸は柱島沖で傷病患者を収容、重症患者一四○名を呉海軍病院へ、三○○名を横須賀海軍病院へ轉送してをり、近江従兵長の勘違いを裏付けている。
筆者は指摘してないが、近江従兵長の重大な勘違いは他にもあり、軍艦赤城艦長 青木泰二郎大佐(兵科41)がミッドウエーで艦と運命を共にしたと謂う記述である。 航空科の至寶、青木大佐は土浦空司令から長谷川喜一大佐と職務を交代したばかりであり、七月十四日付けで豫備役編入となるが、即日召集で佐世保空司令、元山空司令等を歴任して戰後を生き残る。
 
著者はトラック夏島の海軍病院跡(第四海軍病院)を自分の足で訪ねたのであろうか?
渡邉安次戰務参謀(兵科51)の回想として病院船に少年航空兵を見舞う場面がある。(「海」P-407)  この部分 女流作家の筆は 帝國海軍首將の人間性を余すところなく描寫して涙なくして讀ませてはくれない。
 
聯合艦隊麾下の病院船は 朝日丸、高砂丸、氷川丸等が有名であるが、第四艦隊所属で 主にトラック島を中心に活動してゐたのが、現在 横濱港山下埠頭に係留されている「氷川丸」である。 山本長官がトラック島に將旗を掲げていた間に氷川丸は十回トラックに入港しているが、殆どの航海は横須賀からの往航でトラック島で醫薬品を降ろしてから ラバウル、カビエン、ブイン等の戰地で傷病患者を収容し、歸路は横須賀へ直航している。
少年航空兵を見舞ったのはラバウル、カビエンを經由して昭和十七年九月十四日トラック島へ入港した時の事か、または ブイン、ラバウル、カビエンを經由して昭和十八年三月三十日に入港した時の事と推測される。
後者なら 山本長官がラバウルへの旅立ちの前々日 四月一日午前八時に氷川丸に傷病兵を見舞ってゐる。 この時 病院長は 本間正人海軍軍醫大佐。
 
佐藤千夜子一行の夏島訪問のことにもふれている。 同行の花柳京輔の述懐として「これが昭和十八年四月のことなので、・・・」(「海」P-427)とあるが京輔が千夜子一行の一員なら これは京輔の「記憶違い」である。 佐藤千夜子一行は昭和十八年二月二十四日トラック出航の氷川丸に便乘しているからである。 出航の前々日 山本長官は 二十二日午後二時、傷病兵を見舞っている。 この時 収容患者数は一○三三名。 千夜子一行を病院船に乘船させるかどうか、病院側に難色があったようだが、既に二回魚雷攻撃を受け 文字通り命がけの慰問公演であった事もあり、船の圖書室を提供されたと謂う。 あるいは、山本長官の口添えがあったのかもしれない。
途中 サイパンに寄港、収容患者のうちガダルカナルから最後に撤退した患者三七○名を下船させたと謂う。 餓島の悲惨な状況が日本國内に漏れないようにする為だったと謂はれるが 折角ガダルカナルで生きながらえて病院船に収容されながら内地の土を踏むことなく 一年後サイパンで玉砕させられたものであろう。 サイパン入港の前日、二十五日夜 藝能慰問團一行の船上慰安公演があったと謂う。
戰地から横須賀に直航せず、この三回の傷病兵を乘せてのトラックへの寄港は、山本長官の指示によるものではなかろうか?
 
誰が最初に撃墜された長官機を發見したのか? 「渡邉の回想では、最初に現場を發見したのは、陸軍の道路設定隊で指揮官は浜砂盈栄という人・・・」(「海」P-470)として「みつよし」とルビを符っている。
阿川「新版」では「これは都城の歩兵二十三聯隊で、その歩兵砲中隊第一小隊長浜砂盈栄という人が山本機を発見した斥候隊の長である。」と同じルビを符っている。
この部分「初版」では「・・陸軍の道路設営隊で、指揮官は濱砂盈榮という少尉であった。 此の人の名前は「はすなみ・つよし」と読むらしく、たいへん変った姓であるが、今、何処の人か分からない。」と渡邉安次大佐から聞いて「濱砂盈少尉」(はすなみ)だと思い込んでいた。  その後、「新版」を書くにあたって 宮崎縣西都市(さいとし)大字中尾に 濱砂 盈榮はますな みつよしさんを訪ね當て誤りに氣づいたようだ。  著者は ここの部分で 市川一郎聯隊砲中隊長の證言を引用して西野泰蔵軍曹の名前を登場させてゐる。  西野の名前は平成二年改版の「文庫本」に初めて登場したもので 阿川は この部分 かなり手を加へて記述を加筆改訂してゐる。 著者が参考にした「文庫本」は この改版であることが分かる。

 

 

歩兵第二十三聯隊 濱砂盈榮少尉に宛てた 聯合艦隊戰務参謀 渡邉安次中佐の書翰

宮崎縣護國神社 蔵 (2007/01/28 寫眞追加)

さて、米内光政が山本戰死の知らせを受けた時「山本の気持ちとしては、・・・」と謂う有名な挿話が引用されてゐる。(「海」P-489)  この話、もともと大分縣選出の政友會代議士綾部健太郎が緒方竹虎に話し、緒方が昭和三十年に文藝春秋社から出版された「一軍人の生涯」の中で語ったのが そもそもの出典である。 今や 綾部の名前を識る人も少なく、著者はそのことを書く意義なしとして省略したものだと思うが、 京都帝國大學出身の綾部は 若い頃から菊池 寛と親交があり、「末は博士か大臣か」の大臣のモデルだと謂はれる。 帝國海軍に心酔し、海軍軍人と廣い交友のあった綾部は 米内光政海軍大臣の下で「海軍政務次官」を勤め、戰後は 自由民主黨藤山派の重鎮であり第二次池田内閣の運輸大臣として敏腕を揮い、昭和四十一年には衆議院議長を務めてゐる。
 
若干 重箱の隅をつつく「私の書評」になったが、郷里越後長岡市の関係者、元帥敬仰者の方々の情報、資料提供を得て、阿川弘之とは違った側面で 美事に山本五十六元帥像を描き出してゐる。 「五十六が・・」「五十六は・・」と女流作家の呼び捨て口調は 些か引っかかるところではあるが、阿川弘之「山本五十六」と共に 元帥信奉者の書架になくてはならない 是非欲しい一書ではある。

 (2004/06/30初稿) (2004/07/20 補訂)
 
 

 
写真説明; 高松宣仁少佐宮殿下におかせられては昭和十一年十一月二十六日海軍大學校をご卒業(甲種第三十四期)十二月一日軍令部出仕兼部員に補せられ第二部第三課(軍備計畫擔當)にご勤務。 昭和十二年四月十二日軍令部第三部第五課(對米情報擔當)七月二十六日軍令部第四部第九課(通信計畫)にご轉属となる。
「高松宮日記」は十二年九月二十六日を最後に昭和十六年まで缺落のため日記から詳細を知る事はできないが、もめにもめた「上海行」の件(本文P-245-246)は 結局軍令部参謀として十一月五日の「杭州灣上陸作戰」をご観戰。
寫眞は十一月二十日 大本營海軍部が設置された時の記念寫眞である。
前列左から 軍務局長井上成美しげよし少將(兵37)、一人おいて軍令部第三部長野村直邦少將(兵35)、一人おいて海軍次官山本五十六中將(兵32)、一人おいて海軍大臣米内光政大將(兵29)、高松宣仁少佐宮大本營海軍参謀兼通信部員(兵52)、伏見宮博恭王元帥軍令部総長(獨逸海大)、久邇宮朝融王中佐海軍参謀(兵49)、航空本部長及川古志郎中將(兵31)、一人おいて軍令部次長嶋田繁太郎中將(兵32)、軍令部第一部長近藤信竹少將(兵35)、一人おいて海軍省人事局長清水光美少將(兵36)。
 (この項 滋賀縣ご在住 SM 様からのご指摘で 一部訂正。 厚く御禮申し上げます。 2004/10/04)

 
写真説明;  昭和十三年春、「パネー號事件」決着の手打式。
前列 山本五十六海軍次官と米國海軍武官ハロルド・ベミス(Harold Bemis)海軍大佐。
後列右から軍令部第三部諜報主任 大前敏一少佐(兵科50、海大32恩賜、後 第八艦隊作戰参謀、南東方面艦隊先任参謀、第一機動艦隊首席参謀等を歴任。 終戰時 軍令部第一部第一課長(作戰)、海軍大佐)、その左、海軍省次席副官 横山一郎中佐(兵科47、海大28恩賜、開戰時 駐米海軍武官、後 海軍省首席副官。終戰軍使として大前大佐等とともにマニラへ飛ぶ。 海軍少將)
昭和十三年四月二十二日付 東京朝日新聞記事;
「パネー號事件は賠償金六百六拾萬余圓を ドウマン参事官に支拂って圓満解決した。」とある。
本文P-235に「アメリカでは齋藤が二百二十一万ドルの賠償金を支払うことを約束して・・・」(本文P-235)とあるので、当時一弗が三圓であった事になる。
 

 
写真説明;  南東方面艦隊司令部幕僚。 後ろの建物が山本五十六聯合艦隊司令長官がラバウルで將旗を掲げた司令部。
 右手に問題の機密NTF第一三一七五五番電を発信した第八通信隊の電信室がある。
前列左から; 三和義勇みわよしたけ先任参謀、本多伊吉艦隊機関長、一人おいて中原義正参謀長、草鹿任一司令長官、西尾秀彦参謀副長、大久保信艦隊軍醫長、等松農夫蔵とうまつのぶぞう艦隊主計長、大前敏一作戰参謀、三代一就みよかずなり航空甲参謀。
 
三和義勇少將は中尉甲板士官として山本五十六霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭に出会って以来たちまち元帥に私淑、駐米海軍武官後任補佐官、赤城飛行隊長、聯合艦隊次席参謀等 直接 元帥の謦咳に接し、元帥戰死後手記を執筆、「意味深長な・・・」の一語を最後に未完成の「山本元帥の想い出」を愛妻永枝宛 最後の飛行機便に託し、第一航空艦隊参謀長としてテニヤンで玉砕する。 海軍兵學校第四十八期恩賜短剣、海軍大學校甲種第三十一期恩賜長剣の俊秀の手記は山本元帥研究者にとっての貴重な資料である。
本多伊吉艦隊機関長(海機二十七期)は生涯に三度同年同月同日に山本元帥と同じ勤務部署に発令されたと謂う数奇な経験の持ち主で 戰後「山本元帥と私」と謂う私稿をものする。
兵科三十七期の草鹿任一司令長官は士官候補生としての遠洋航海の時 練習艦「宗谷」の分隊長が山本五十六大尉だった間柄。
大久保信艦隊軍醫長はブインでの山本元帥検屍に立ち会い、戰死した高田六郎軍醫中將の後任として聯合艦隊軍醫長に栄転、海軍乙事件で古賀峯一聯合艦隊司令長官一行と共に殉職。
それぞれに 山本元帥とは深いゑにしで結ばれた人達である。

等松農夫蔵海軍主計少將は 戰後 青木大吉海軍主計大佐と共に「等松・青木會計監査法人」を立ち上げ 現在 Deloitte & Touche Tohmatsu として世界四大監査法人の一つとして發展してゐる。
 
主要参考ならびに引用出典;
 
「海燃ゆ」山本五十六の生涯 工藤美代子 講談社 2004年6月
「山本五十六」 阿川弘之 新潮社 昭和四十年十一月
「新版 山本五十六」 阿川弘之 新潮社 昭和四十四年十一月
「山本五十六」 阿川弘之 新潮文庫(上)(下)昭和四十八年二月
「山本五十六」 阿川弘之 新潮文庫 平成二年(上)三十五刷改訂(下)三十三刷改訂
「軍艦長門の生涯」 阿川弘之 新潮社 上巻、下巻 昭和五十年十二月
「戰藻録」 宇垣 纏 原書房 昭和四十三年
「提督小澤治三郎傳」 原書房 昭和四十四年
「人間・山本五十六」 反町栄一 光和堂 昭和三十九年
「高松宮と海軍」 阿川弘之 中央公論社 一九九六年三月
「高松宮日記」第二巻 中央公論社 一九九五年六月
「高松宮日記」第六巻 中央公論社 一九九七年三月
「井上成美」 井上成美伝記刊行会 昭和57年
「一軍人の生涯」 緒方竹虎 光和堂 一九八三年
「氷川丸物語」 高橋 茂 かまくら春秋社 昭和五十三年
「太平洋の提督」山本五十六の生涯 ジョンD.ポッター 三戸栄訳 恒文社 昭和41年
戰史叢書「中國方面海軍作戰<1>」 防衛庁防衛研修所戰史室 昭和四十九年
「情報士官の回想」 中牟田研市 ダイヤモンド社 昭和49年
「海軍の昭和史」 提督と新聞記者 杉本 健 文藝春秋社 1982年
「陸海軍將官人事総覧」 芙蓉書房 昭和56年
"AND I WAS THERE" RADM Edwin T. Layton, William Morrow, First Quill Edition 1985
"AT DAWN WE SLEPT" Gordon W. Prange, McGraw-Hill 1981
 
(2004/07/01 初掲)



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