71年前の古戰塲を訪ねる。

私の従 兄いとこは昭和13年9月、当時の中華民國湖北省廣濟縣呉伏七村で戰死してをります。

戰死から 71 年目、慰霊のため 戰歿地を訪ねてきました。  以下は訪問雑記;

 
湖北省の省都 武漢は「中國三大かまどの一つ」の異名がある通り、湖北省は文字通り灼熱、炎熱の地であり 呉伏七村を訪ねた九月七日の日中氣温は 38℃、文字通り 鐵 兜かぶとモ焦ガス炎熱ヲ・・・」でした。
 
上海から一時間半、先ずは江西省 九 江ジュージャンへ飛び、一泊。 古來 潯 陽クンヤンの地名で揚子江沿岸の物流の中心地として榮へたこの町も 今やその役目を終へて廣大な市街地はそのままに 改革・解放以前の 丁度三十年前の 上海の街を彷彿させる。 九江の空港も廬山机塲として觀光・避暑地 廬 山ルーシャンへの窓口の役目を果たしてゐる。
 

九江馬廻岭空港。 別名 廬山機塲。  九江の南南西 約40Km。 下町までタクシーで一時間ちょい。

空港でタクシー運転手と筆談。 「白鹿賓舘、多少銭?」 150元で商談成立。

泊まったホテル、白鹿賓舘。 英語は ほとんど通じない。 Registration も大福帳。
他に 「遠洲賓舘」 (九江遠洲國際大酒店) という ☆☆☆☆☆ があると仄聞する。

 

ちょうど 30 年前、改革開放以前の 上海の街と謂う感じでしょうか。
街に 信號機 はなく 横断歩道を渡るのも命がけ。
食事をするところに不自由したが、幸い マック と ケンタッキー があったので 二晩の夕食にありついた。
但し 英語のメニューはなく、店員に英語は通じない。 注文はすべからく指さし。
おかげで 二晩続き、断酒ができました。

 

ホテルの窓から 揚子江の方向に向けて撮影。

 

嘗て長江沿岸の物流拠点として栄えた この街も 今やその役目を終わってゐる。
林 芙美子も 多分 ここから艀に乘って対岸の武穴へ渡ったであろう 
碼 頭マートウ

 

翌日早朝、車で九江長江大橋を渡って黄梅へ。

     

江西省と湖北省を繋ぐ 九江長江大橋。
上が自動車道、下が鐵道線路の二重橋。  

七十年前は第十一軍司令部のあった廬山からは軍用機で行くか 九江からはしけで五時間かけて武穴へ渡り、そこから車で行くしかなかった。
 
今や 九江長江大橋を渡って まっすぐ北上、高速道路を約一時間半で黄 梅フアンメイの街へ着く。

 

黄梅の街は いわば宿場町。
白亜の立派な建物は 税務署庁舎。
さぞや税金が沢山徴収出来てゐることでせう。

 

黄梅の街を西へ左折して一路 廣 濟グアンジーへ。
 
地圖上では S-308 と一應 幹線道路になってゐるが 道幅は三車線くらいの幅廣だが 一部 未舗装の田舎道。
  

歩兵第三十六旅團が進撃した右翼・北側は大別山系が發する切り立つ峻險。

我が歩四七を主力とする歩兵第十一旅團が進撃した左翼・南側は丘陵が聯なる湖沼地帯。

「千湖省」の異名の通り「水 庫」と呼ばれる地塘が無数にある。  加へて 蒋介石は揚子江の堤防決壊を命じたため この辺り一帯は 文字通り水浸しになってゐたと謂う。

丘の上からチェッコ製輕機関銃と迫撃砲に狙い撃ちされながら、歩兵は泥濘に足を取られ、砲兵は山砲を分解して擔いで進撃したと謂う。
文字通り 「泥水ススリ 草ヲ噛ミ・・」 だった事でしょう。
  

防衛省防衛研究所圖書館で帝國陸軍兵要地圖を閲覧させてもらいましたが、当時の軍用地圖は、現代の汎用地圖とは照合せず、黄梅ー廣濟間の村落、山丘の名稱は ことごとく異なってゐる。  早い話、現代の地圖には 「廣濟」 「廣濟城」 「廣濟縣」 の地名は存在しない。


(戰前の地圖で 黄梅ー廣濟間の村落名で現存するのは 「雙城驛村シュアン・チェン・イー・クン」 ただ一村のみだが、S-308 のかなり北側にある。 現在の幹線道路 S-308 は戰前の舊道のかなり南側に建設されたものだということになる。)

地形複雑で 帝國陸軍の兵要地圖は ほとんど役にたたなかったと謂われる。
戰記では 「五峯山には、日本の高野山なみに寺院と僧坊が散在して・・・」 とあるが、五峯山 とか 大符山 とか 鳳凰山 とかの山の名前は ほとんど帝國陸軍が勝手につけた名稱で 実在しない。
帝國陸軍が 「五峯山」 と呼んだところは、「靈 山リンシャン」と呼ばれる山岳だと思はれる。

大符山と謂うのは 「上塝」 (ShangBang) と呼ばれる辺りであろう。 鳳凰山は 「烏亀頸」 (WuQiuJing) ではないかと思われるが 確信はない。
辺りは 相当な峻険である。

 

現地で見かけた寺名、地名は 五祖寺、四祖正覺禪寺、紫雲寺、周國村、余川鎭 等であるが
これらの名稱は 逆に 日本の戰記には出て來ない。

30 Km の距離ながら悪路を難儀して昔の「廣濟城」とおぼしき近辺へ着く。 現在は 梅 川メイチュアン と名前を變へて 城壁もなく、「廣濟」の地名はどこにも残ってゐない。
黄梅、梅川と謂う地名から 梅の名産地なのかもしれない。


 

廣濟城は跡形もなく 「梅川廣塲」 と名前を変えて 近代的 新しい街に生まれ変わってゐる。

 


(維基百科事典によると 「廣濟縣」 は 1987 年の行政區畫改正により 「武穴市」 になったとの事。
 「廣濟城」がなくなった事により 古名の「梅 川」 が復活して 「梅川廣塲」 となったものだと思われる。

(1926年 廣濟縣屬湖北省、 1987年 撤廣濟縣設武穴市)

この辺り 「浄土宗」 發祥の地で、廣濟の地名は 「あまね衆生濟度しゅじょうさいど」 の願ひを込めての命名とか。
武穴とは 元々 廣濟への入り口の長江の船着き場の名稱。)  (2009/10/10 追記)

Google Map では 梅川から さらに西 6 Km 辺りに 「呉伏七村」 がある筈なのだが、それらしき場所が見あたらない。

運轉手の 陳さんが あちらこちらと散々尋ね廻って やっと 幹線道路の南側外れにあるらしい事が判明。

このあたり 帝國陸軍の軍用地圖では 「上呉盛地區」 と呼ばれてゐたが これも帝國陸軍が命名したもので そんな地名は存在しない。  

車一台がやっと通れる田舎道を くねくねと走って それらしき場所にたどり着く。
そもそも 「呉伏七村」 の地名が Google Map に出てゐたこと自体が奇遇であり 英霊のお導きと考へるしか説明がつかない。


  

雨が降ってゐたら ぬかるんで 多分 車は通れなかったのでは。

通譯の 胡 萍さんが 何のためにこんな場所を訪ねるのかとさかんに尋ねるが 説明に窮する。  ともかく小學校を探し求める。
 
平松鷹史著 大分合同新聞社發行の「郷土部隊奮戰史」によると;
・・聯隊本部のある湖北省呉伏七は四十數戸の農村で住民はすでに退散していた。
  部落の前には幅二、三十㍍の河が流れ、付近には畑、水田があり、松、竹、雑木など  が点在、畑には山芋、カボチャなどが栽培されており、内地の風景とそっくりであった。 ・・・

とある。
  

「呉伏七小學」 の校札は どうやら 70年の年代物らしい。

尋ねあてた小學校では授業のまっ最中だったので、先に佛寺を訪ねることにする。
小學校の北東、田舎道を 500 ㍍程歩いたところに霊廟があった。

中國に普遍の道教寺院であるが貧しい農村にしては立派な廟であり 村民の信心深さがうかがえる。  ご本尊は黄帝・老子であるが壁には 阿彌陀如來はじめ 釋三尊の寫眞が掲げてあり 所謂 神佛混交廟である。


  

 

日本から持参の清酒、煙草、お茶 それにサイダーをお供へして 日中全戰没者の ご冥福をお祈りする。

 

  

小學校へ戻ったところ 丁度 授業が一段落したところで、校長先生に 文房具、學用品、野球道具、サッカー・ボール等々 日本から持てるだけかついできた品々をお渡しする。

棒球は野球、足球は蹴球 と ちょっと筆談を交わす。
  

この小學校が 第六師團司令部が黄梅から廣濟に進駐して以降、歩兵第四十七聯隊が約一ヶ月間 聯隊本部を置いた塲所に違い無い。

 

この中から 將來 イチローや中田ヒデが出て來ることを期待する。

 

 
第六師團司令部が黄梅から廣濟城内の小學校に移ると同時に 歩四七聯隊は本部を呉伏七に移動させて一ヶ月以上 そこに居座ってをります。
村内にそれらしき建物が他に見あたりませんので この小學校が歩四七聯隊本部だったことにほぼ間違いありますまい。
 
 
胡麻の収穫を終わったばかりで 澤山干してありました。

黄河・中原は 小麦・麺の文化だが 長江流域、この辺りは 稲作・米飯文化の中心で 水稲・二毛作。 開花が終わったばかりのところ、第二作目でしょう。 我々日本人同様 文字通り 「米食う人達」 です。 そのほか 綿花、蓮根が花盛り。
近くに石灰の採掘場があり、土壌はアルカリ性でしょう。
く わと 水牛によるす きだけの 見るからに零細農業、寒村です。
 

 

歩兵第四十七聯隊補充隊長 下川義忠陸軍歩兵大佐名義の戰死公報には;

「昭和十三年九月十日午前四時三十分 中華民國湖北省廣濟縣呉伏七南方高地ノ戰闘ニ於テ戰死。」

とある。

呉伏七南方高地と謂うのは 寫眞の遙か彼方に見える丘のことでしょう。

午前四時三十分と謂うのは日本時間ですから 現地時間の午前三時半。
戰史記録によると、午前三時、午前六時と謂う時間帯に さかんに襲撃を受けてゐる。
湖北省呉伏七村付近の地圖へのリンク。

上海、南京、九江、安徽省、湖北省付近の地圖へのリンク。

 
私の従兄は 大正六 (1917) 年、東京生まれの東京育ち。  父親の本籍地が大分縣のままであったために 当時の兵制に従って満二十歳になった昭和十二年春 大分聯隊區での徴兵検査を受検。  直後の 七月七日、 廬溝橋事件勃発。
第六師團(熊本)は多数の補充兵を必要としたため、翌 昭和十三年一月十日 歩兵第四十七聯隊(大分)補充隊に入營となったものです。
 
お国言葉も解らぬままに、速成の初年兵教育と 短期実戰訓練・演習を逐えて 武漢三鎭攻略作戰発動に合わせて前線配備されたものと思われます。

先ずは南京入城後の歩四七の足跡を追ってみましょう。
 
12.12.21  南京を離れ 第六師團司令部は安徽省蕪 湖ウーフー、歩四七聯隊本部は寧 國ニンクオに警備駐屯。
13.03.24  蕪湖へ移駐して警備駐屯。
13.05.26  安慶を攻略して 同地で兵力を補充し武漢・三鎭攻略戰に備へる。
 
13.06.18  潜山攻略。
13.07.26  太湖入城。
 
安慶での 休養・補給・補充は予定の行動であったが、潜山でてまどったのはマラリヤ・赤痢・コレラで 多数兵員が野戰病院に入院を余儀なくされたためである。  この地方は まさに 「瘴 癘しょうれいノ地」 である。 
 
13.08.01  宿松攻略。
13.08.02  黄梅へ進撃。 黄梅の敵は戰意なく警備中隊を残して 聯隊主力は宿松に駐屯。
 
約一ヶ月の宿松駐屯は、長江南岸を進撃する第十一軍隷下、第二十七師團(師團長 本間雅晴中將)、第九師團、第百一師團、第百六師團(松浦淳六郎中將)ならびに 臺灣軍波田支隊(波田重一少將)が 炎天下 マラリヤ・赤痢・コレラ多發の三重苦で大苦戰、停頓、それと進撃歩度を合わせるためである。
 
13.08.28  第十一軍命令により宿松を發ち黄梅を經由して廣濟へ進撃開始。
 
古來 「天下鎖鑰之地てんかさやくのち」、 重畳たる大別山系の峻險を背に黄梅ー廣濟間 30 Km を守るのは 國民政府中央軍、四川軍、廣西軍 合計約八個師。  Ernst Alexander Alfred Herrmann von Falkenhausen 陸軍歩兵中將 (General der Infanterie)率いる獨 逸ドイツ軍事顧問團の指導で
切り立つ山の斜面に十重二十重とえはたえに立射散兵壕を張り巡らし、五峯山一帯だけで 迫撃砲陣地 12、トーチカはなんと 450 以上をかぞえたと謂う。
 
攻めるは第六師團は;
歩兵第三十六旅團長 牛島 滿少將(士候二十、沖縄戰で自決、任大將)に率いられた
歩兵第二十三聯隊(都城)、歩兵第四十五聯隊(鹿児島)ならびに 野砲兵第六聯隊が右翼・北側を、
歩兵第十一旅團長 今村勝次少將(士候二十一、後中將)率いる 我が歩四七ならびに 獨立山砲兵第二聯隊が 歩兵第十三聯隊(熊本)を師團豫備として左翼・南側から 野砲・山砲でトーチカを一つ一つ潰しながら谷間の間道を前進する。
 
13.09.06  午後五時 歩四五軍旗は廣濟城入城。
13.09.10  午後、東南手前 大符山で有力な敵に手こずった歩四七軍旗も 遅れて入城。
 
 
私の従兄は この日の朝 午前四時半 廣濟城西 6 Km の呉伏七村南方高地で戰死してゐますので、恐らく 尖兵中隊として前夜から突出野營してゐたところを暁闇襲撃を受けたか、或いは 軍旗入城を容易にするため 呉伏七村に布陣する敵に夜襲を仕掛けたかのいずれかでしょう。
 
廣濟城入城と謂っても 付近には 有力な敵が蝟集してをり、小銃・機関銃・迫撃砲の狙撃を受けながら 以後 一ヶ月以上 第六師團は包囲されて近辺に釘付けになってしまうのです。
 
 
南京女流一番乘りの林 芙美子の二度目の従軍作である「北岸部隊」なる作品があります。
 
 
戰後復刻された中央公論社文庫本の「伏字復元版」でも「○○本部」とか「I 部隊長」だとか「S参謀」だとか 伏せ字のままになってゐるが、読む人が読めば I部隊長とは 第六師團長 稲葉四郎陸軍中將(士候十八期、騎兵科)であり、S 参謀とは 第六師團参謀長 重田徳松陸軍砲兵大佐(士候二十四期、後 陸軍中將)であることが判る。
即ち ○○本部とは 第六師團司令部であり、「北岸部隊」とは「第六師團」そのものなのである。
 
芙美子は九月十七日に上海の龍華飛行塲(海軍の實戰部隊基地であり沖縄戰時 多くの特攻機を送り出したが 現在は使はれてゐない)から海軍機で南京へ飛び そこから汽船で長江を遡航して九江へ。
しかし 九江でお腹をこわして一旦 南京へ引き返す。
 
十月十五日、今度は海軍機で安慶を經由して九江へ。 そこから武穴經由で廣濟へ行かんとするに <北岸部隊は、黄梅、廣濟間で苦戰におちいり、一時、孤立無援の軍隊であったのだから、まだあぶないかも知れませんよ!> と忠告を受けるくだりがある。
 
十月十七日 木の葉のようなはしけで流れに逆らって五時間かけて長江を渡り トラックを乘り継ぎ徒歩で廣濟城の中にある小學校の校舎の第六師團司令部に到着。
 
十月十八日 師團司令部での稲葉師團長との会話の中にも「黄梅から廣濟の戰は全く大激戰でねえ、もう、その塀や、屋根をばりばり撃って來るので、肚をきめて、こっちも腰をすえてしまったが、一時は全く苦戰におちいり、方法がなかったですからね。 兵隊は實によくやりましたよ。  ー 明日はいよいよ前進して行くのだが、一兵も殺したくないと思っています ・・・」とある。
 
当時の事ゆえ この程度の表現が軍の檢閲で許される精一杯の限界だったのでしょう。
芙美子は 以後 師團通信隊の軍用トラックに便乘して 最前線を漢口まで随行し 今回も 華々しく「女流漢口一番乘り」を果たしてゐる。

そして締めくくりは;
「・・・日本の母と妻よ、兄よ、妹よ、恋人よ、今あなた達の人は騎虎の勢いで漢口へ大進軍してきた。漢口の晩秋はなかなか美しい。 街を日の丸や軍艦旗が行く。 私は街を歩きながら、私一人が日本の女を代表してきたような、そんなうずうずした誇りを感じた・・・」
 
戰後、別府・大分經濟界で重鎭として活躍された 草本商店社長 草本利恒氏は 当時
歩四七第一大隊第四中隊第二小隊長として 翌日 13.09.11午後、鳳凰山頂で手榴弾により左前膊部はくぶえぐられる重傷を負ってゐる。
 
 
第六師團は 結局 廣濟近辺で身動きとれず 一ヶ月以上貼り付けにあい、3,000 名の補充兵の到着を俟って やっと前進を再開する。
 
以後の経過は 「北岸部隊」 に詳しい。
 

それにしても なぜ大陸の こんな奥地にまで攻め込まねばならなかったのか?  当初の出兵理由は 「居留民保護」 だった筈だが、戰爭目的は 何であったのか?  戰爭の大義はどこにあったのか?

兵士が泥濘に足をとられた如く、蒋介石の巧妙な 「大敵則退、小敵則戰」 戰法に引きずられて 大日本帝國自身が 泥沼に嵌り込んで滅亡への道を辿ってゐる。
 
二度と再び絶対にあってはならないことです。

日中友好隣善、世界恒久平和を念じつつ、七十一年目の戰歿地を訪ね 日中全戰没者の ご冥福を 心から お祈りしてまいりました。
 
 

通譯の 胡 萍さんと 運転手の 陳さん。  胡さんは 九江學院の學生で 流暢な日本語を話します。
お二人の助けがなかったら 呉伏七村には とうていたどりつくことが出來なかったでしょう。

旅行の手配は JTB トラベルゲート横濱 に 一方ならぬお世話になりました。
厚く御禮申し上げます。

(2009/09/23 初掲)


加藤陽子 東京大學大學院教授によると;

中支那派遣軍は 昭和十四(1939)年一月、 『今次事變は戰爭に非ずして報償なり。 報償の爲の軍事行動は國際慣例の認むる所。』 なる 聲明を出してゐるそうです。

また 『爾今、蒋介石ヲ對 手あいてトセズ!』 聲明を出した 近衞文麿首相のブレインは この戰爭を 『一種の討匪戰』 だと見てゐたとのこと。

孰れも 現代の國際標準、 國際基準から認められる解釋ではなかろう。

加藤陽子著  『それでも、日本人は「戰爭」を選んだ。』  朝日出版社 2009年7月30日 より

主要参考ならびに引用文献;

「日中戰爭」 第三巻 武漢作戰 児島 襄 文藝春秋社 昭和五十九年七月
「熊本兵團史」 支那事變編 熊本日々新聞社 昭和四十年四月
「郷土部隊奮戰史」 平松鷹史 大分合同新聞社 昭和58年
「北岸部隊」 伏字復刻版 林 芙美子 中央公論社 2002年7月
戰史叢書8 「大本營陸軍部 (1)」 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十二年
戰史叢書89 「支那事變陸軍作戰(2)」 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和五十一年


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歩兵第四十七聯隊 (大分) のページへのリンク。



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