辻 政信 著 「潜行三千里」 毎日新聞社 昭和2565日發行 定價 150

 

毎日ワンズ社から 新書版に引き續き 去る八月 完全版なるものが發行されたのを機に、時あたかも 中華人民共和國建國七十年にあたり、鎌倉中央圖書館地下書庫秘藏の

初版初刷本を借りだして一讀した。

 

昭和二十五年六月五日發行とは 20日後の二十五日(日)に 金日成率いる北鮮軍が 李承晩の南鮮に攻め入り 朝鮮戰爭が勃發した日にあたる。

 

當時 日本は 米軍を主體とした聯合國軍の軍事占領下にあり、日本に國家主權は存在せず、出版物は 総て聯合國軍の統制下にあり、 また 筆者の辻政信自身が 戰犯容疑から未だ完全に解放されてはおらず(総ての戰犯裁判が終結するのは 昭和264月)、Wikipediaによると、この時期 臺灣から印度支那半島を地下工作行脚に余念がなかったとある。 中華人民共和國誕生から半年餘、國民政府軍の殘黨が雲南から南支、佛印にかけて去就に迷って割據してゐた時期であり 米軍の黙認の許に 地下で暗躍してゐたことは充分にあり得る事である。

 

朝鮮戰爭の勃發は 辻政信にとって 將に奇貨であり、これにより 聯合國軍の占領政策は一變し 戰犯容疑は有耶無耶となり、「ノモンハン」(亞東書房)、「十五對一」(酣燈社)、「ガダルカナル」(養徳社)と ベストセラアを聯發して一躍 知名度を騰げ、講和條約締結、公職追放解除後 昭和二十七年 初の衆議院議員選擧に 本貫地の石川縣から立候補、 トップ當選を果たす。 以後 衆議院議員を 四期務める。

 

元々 毀誉褒貶の激しい人柄で、所詮は一匹狼であり、人の上に立つ器ではなく、その言動から 自由民主黨を除名されて 参議院全國區に鞍替え。

昭和三十六年四月、40日間の海外出張・休暇届けを参議院に提出し、公用旅券で出國、印度支那半島で行方不明となり、死亡宣告を受ける。

 

後に 情報公開法施行により明らかになった CIA 機密文書の中に、嘗ての上司であった 開戰時 大本營陸軍部作戰課長であり 終戰とともに いち早くGHQが差し向けた特別機で支那戰線から歸國、GHQ G-Ⅱ ウイロビー少將(Maj.Gen. Charles Andrew Willoughby)の腹心として活躍した 服部卓四郎陸軍大佐(士候34、陸大42恩賜)とともに 「辻政信ファイル」の存在が明らかとなる。

これを具に檢證した 公文書研究者の 有馬哲夫早大教授は 「潜行三千里」の記述内容が事實に即したものであると結論づけてゐる。

33軍作戰主任参謀として 惨敗の 北部緬甸(ビルマ)拉孟(ラモウ)騰越(とうえつ)戰線で 寝返った緬甸義勇軍に負わされた負傷の身體を 密林の中の飛行塲から二人乘りの小型機で脱出。 新任の第39軍高級参謀として 泰・(バン)(コック) ドンアン空港に着任するところから 本書の記述は始まる。

本文の中に日時の記載がないが、辭令ベヱスでみると この日は 昭和20524日と謂う事になる。

そして、改編の 第18方面軍作戰課長として 盤谷で終戰を迎へる。

八月十五日の終戰の御詔勅を聴くや、任務を抛擲して 早々と軍服を黃衣に着替え 僧侶に變装して遁竄(とんざん)を決め込む。

本文では「ビルマ義勇軍の叛亂」となってゐるが、「ビルマ獨立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)と呼ぶのが 元々の正式名稱であり、その後 ビルマ防衛軍(Burma Defense Army, BDA) と名稱を變へ、叛亂が起こった 昭和20年3月27日には 兵力15,000人で「ビルマ國民軍」(Burma National Army, BNA)と名を變へてゐた。

 

BIA と謂うのは、四つの援蔣ルートの内、ビルマ・ルウト(滇緬公路)破壊を目的・任務として昭和162月に 「南方企業調査會」の僞稱で設立された 特務機關「南機關」

(機關長 鈴木敬司陸軍大佐)が 當時 ラングウン大學の學生であった アウンサン(Aung San)以下 30 人の志士を日本の貨物船等で脱出させ、海南島で 猛訓練を施して、開戰前夜 密かに泰緬國境から緬甸國内に潜入させて破壊・攪亂工作に從事させたものを母胎とし、現在のビルマ國軍もこの流れを受け継いでゐる。

首長のアウンサンには「面田(めんた)紋二(もんじ)」なる日本名が與へられていたが、この名前の由來は、ビルマを表す支那語の (mian) (dian) を和漢字に置き換へて重箱讀したもので、紋二は ありふれたビルマ名の モンジイにあやかったもの。

 

面田紋二以下30名の志士を海南島で訓練し、その後も終始 行を共にしてゐた特務機關員の一人に 高松高等商業學校出身の 中橋七郎陸軍中尉がゐた。

中橋中尉は 陸軍中野學校入學の時 親・兄弟と縁を切り、戸籍を抹消して 以後 ずっと僞名で過ごしてゐる。 復員後 戸籍を復活して 昔の本名に戻り、永らく東京のビルマ

賠償使節團を取り仕切ってをられた。

親しく面識を忝のうしていただいてゐたが、或る一夕、A財閥發祥地の迎賓館で、開戰前夜 拳銃一挺の武装で 30 人の志士を引き連れて 泰緬國境を越へて緬甸(びるま)に潜入した時の話を拝聴させてもらった事がある。

この中橋さんの現地妻たる ステラが 二人のタイピストと給仕(オチャクミ)小使(バシリ)まで一族郎黨を引き連れて財閥系A社の(ラン)(グウン)事務所に蟠踞してゐた。

全員が カレン族であり 孰れも英語に堪能な基督教徒である。

 

こちらが下手な片言の英語で要點を陳べると、それをステノに採って たちまち Dear Sirs; に始まる 見事なAnglo-English の手紙として返ってくる。 いつ、どこで ステノやタイピストとしての教育を受けたものか、寔に余人を以て代へがたき貴重な人材であった。

 

緬甸と謂う國は 世界でも他に例をみない稀な多民族・多人種國家で、5,000萬強と謂はれる人口の六割がビルマ族であり、残り七部族、全體で135民族が存在する。

その中には 問題の ロヒンギャは含まれてゐない。

憲法上認められてゐるのは 60民族60言語だと謂われるが 詳細は承知しない。

  因みに 人口13億とも15億とも謂はれる 中華人民共和國が 司馬遼太郎によると 少数民族の數は50民族50言語だと謂う。

 

國名も、建國當初から 長らく「Union of Burma」(ビルマ聯邦)であったものを、1974(昭和49)年に「Socialist Republic of the Union of Burma」(ビルマ聯邦社会主義共和國)に、1988(昭和63)年に 再び Union of Burma(ビルマ聯邦)に戻し 二年足らずの1989

(平成元)年に Union of Myanmar(ミャンマア聯邦)に變更、これを 更に 2010(平成22)年には Republic of the Union of Myanmar(ミャンマア聯邦共和國)に變更して現在に至ってゐる。

 

國旗も 獨立以降長らく 二色六星、即ち 眞ん中にビルマ族を象徴する大きな星を カレン、カチン、モン、チン、シャンの少數民族 五族を表す小さな星で囲むものであったが(これを 何故だか”Five-Star flag ”と呼んでゐた)、社會主義軍事政權は これを二色十四星に、2010年 現在の國名變更に併せて 三色一星旗に變更してゐる。

 

日本政府は 國名の變更を 各國に先驅けて いち早く認めてゐるが、聯合王國、濠洲、米合衆國は これを認めず、BBC, Voice of America, The Times, Washington Post 等は

未だに YangonとかMyanmar表記は使はず、Rangoon, Burma に固執してをり、New York Times, Wall Street Journal, CNN等と對應が分かれてゐる。

因みに アウンサン將軍の長女である 國家顧問の アウンサン・スウチイ女史もMyanmarと謂う國名を認めない立塲だと謂うから ややこしい。


話を「潜行三千里」に戻す。

816日には 早くも 日僧 青木憲信の僞名・變裝で 在留日本人納骨堂のある寺に 七人の部下僧侶とともに潜り込む。  長期隠遁に耐えうるだけの糧秣も 軍から運び込んだというから、體のいい 任務放棄、敵前逃亡であり、 中村明人方面軍軍司令官(士候二十二期、陸大三十四期恩賜)の諒解を得た上での行動だと謂うが、英軍の追及を遁れる爲の得意の獨断専行に違いない。

 

終戰から一ヶ月、915日に 英軍が進駐開始。 先ず 軍を武装解除の上 在留邦人の集中營への軟禁が始まる。

泰警察の協力を得て 英軍の包囲網はますます狭まる。

1029日早朝、抜討的に邦人僧侶狩りの情報を探知して、玉碎覺悟で 「軍 統」(軍事委員會調査統計局)即ち通稱 「藍衣社」に駈け込む。 藍衣社とは 判りやすく謂うと

特務機關、ゲシュタポ、KGB を合體したものであり、時により 對日破壊・攪乱・諜報 時により漢奸狩り、時により 反共諜報と ゆすりたかりをものともせぬ無頼漢の集團であり、その親玉は 蔣介石の腹心である 泣く子も黙る 雨農コト戴笠。 

 

軍統は 數年前から 抗日地下組織として盤谷に潜り込んでゐたが、日本の敗戰で 「中華民國國民黨海外部駐(タ イ)辨事處」の看板を掲げて合法的に活動を始めてゐた。

頼みの綱は 嘗て 軍統の親玉 戴笠の親族を助けてやった事と 東亞聯盟との關係であるが、辨事處の人員は全員 海南島か廣東人であり 辻政信の話す 片言の北京官話は全く通じず、筆談で果たして意思疎通が出來たものかだうか。 ともかく 數日 郊外の隠れ家に匿った後、(ハノ)()に送ろうと謂う事になった。

愈々 「潜行三千里」の始まりである。

飛行機では 英軍の監視が嚴しいからと、汽車で佛印(()蘭西(ランス)領印度支那)(現在の(ラオス)との國境まで行き、舟でメコン川を渡って牛車で佛印(ヴィエン)(チャン)(Viangchan)へ。

萬象からメコン川を川舟で 沙灣拏吉(サヴァナケット)(Savannakhet)まで南下。 そこから自動車で 順化(Hue), 城舗榮( Vinh)を經由して 河内(Hanoi) に着いたのが 1128日夕刻。 啞でつんぼの華僑、ニセ醫者 等に化けての まる一ヶ月の逃避行である。

(ヴェト)(ナム)(ラオス)柬埔寨(カンボジア)の印度支那三國として獨立する以前の當時の佛印は 北緯15度を境に 北を中華民國國民黨政府軍が 南を佛蘭西軍が それぞれ分割占領・支配してをり 道中の 街、村の華僑組織は軍統がバッチリ抑えてゐたが、それを結ぶ線上には、既に植民地からの脱却と共産革命を標榜とする (ホウ)志明(チミン)麾下の越盟(ヴィエトミン)(後のヴィエトコン)と 中華民國國民黨政府軍に支援され 民族解放を掲げる 越南國民黨(後の 南越南政府)とが 各地で干戈を交えてをり 自動車に掲げる青天白日旗 必ずしも安導券(Safe Conduct)ならづ。  波亂萬丈の珍道中が描かれてゐる。

 

國民黨越南辨事處の看板を掲げる 河内(ハノイ)は 流石に 南方華僑一千萬の総元締めで 人員も多いが 與へられた宿舎は 便所がなく、手洟、痰唾は床に吐き放題。あまりの不潔さに耐えきれず、在ハノイ日本軍聯絡事務所に頼み込み、佛蘭西通の 前佛印駐屯軍司令官 土橋勇逸(つちはしゆういち)陸軍中將(士候24、陸大32)の諒解を得て、從軍僧上杉政信老師の變名で日本軍の宿舎に潜り込む。 何のことはない、今度は 逆敵前逃亡である。

結局 ここで 昭和21年の正月を迎へ、重慶行きの許可が出たのが3月。

昭和2139日 ハノイ發 昆明經由 重慶へ旅たつ。 19日 夕刻 重慶着。

 

324日、重慶の街の壁新聞で 「雨農墜」 の悲報に接す。

すなわち やっと 重慶までたどり着いたところで 頼みの綱の 戴笠の飛行機事故死に直面する。  萬事休す。

 

重慶では結局 なすこともなかったが、昭和2171日、重慶から遷都を終わった 南京に飛ぶことになる。

ここで「史政信、國防部第二廳辨公」なる 白崇禧將軍からの辭令を受け取る。 軍統部から國防部への留傭である。

 

その間、國民黨政府軍による戰犯裁判は急展開。

昭和21913日 開戰時、香港攻略の第23軍軍司令官であった、酒井 隆陸軍中將(士候20、陸大28)が 南京・雨花臺で、翌昭和22327日 終戰時、第23軍軍司令官兼香港占領地総督であった 田中久一陸軍中將(士候22、陸大30)が廣東で銃殺刑に處せられる。

昭和22426日には 南京攻略戰當時 熊本・第六師團長であった、参謀本部外國戰史課長、駐英武官、國際聯盟陸軍代表等を歴任した 外國通の文人將軍 谷 壽夫陸軍中將(士候15、陸大24恩賜)が 小雨そぼ降る雨花臺で 衆人環視の中、後ろ手に縛られ、跪坐させられて 至近距離からモーゼル拳銃で後頭部を撃たれて處刑される。

これが 支那軍の正式銃殺刑のやり方であるが、南京市茶亭東街にある「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」には 「國防部審判戰犯軍事法廷」 石 美瑜廷長の冷嚴な顔寫眞とともに 後ろ手に縛られて(ひざまず)かされ、至近距離から後頭部を拳銃で撃たれた瞬間の 谷中將の處刑寫眞が掲示されてゐる。 なんとも酷いことである。 合掌。

 

一方では、終戰時 支那派遣軍総司令官であった 岡村寧次陸軍大將(士候16、陸大25)のように、南京軍事法廷で訴追されながら 谷中將に死刑判決を下した石美瑜裁判長から無罪判決を勝ち取った人もゐる。 昭和241949)年1月に復員するまで、蔣介石により最高顧問格として留用される。

國民政府陸空軍総司令 何應欽大將とは その後日本で再會を果たし日本軍將校からなる軍事顧問團「白團」(ぱいだん:團長富田直亮陸軍少將 士候32、陸大39、中國名、白鴻亮)が結成され、昭和24年から約20年にわたり中華民國國民黨政權に協力した。

 

また 終戰時 上海駐屯第13軍軍司令官であり、新嘉坡攻略戰當時 廣島鯉・第五師團長であった 松井太久郎陸軍中將(士候22、陸大29)にいたっては、英軍からの 再三の身柄引き渡し要求に 蔣介石は言を左右にして應ぜず、ついに 最後まで庇い通す。
  (「日中戰争いまだ終らず」マレー「虐殺」の謎 中島 みち 文藝春秋社 19917月)

 

日本人戰犯の去就も明暗を分ける。

 

漢奸についても言及してゐるが、なかでも 昭和23325日に北平監獄で處刑されたとされる 川島芳子について (南京での)新聞記事からの引用として詳しく書かれてゐる。

川島芳子については 替え玉處刑説が種々あるが、辻の筆致は 些か同情的であり、珍しく辻にしてはしめっぽい。(私自身は 替え玉處刑説を信じてゐるが、詳述には紙數を要する。)

 

 

結局、蔣介石総統に逢って 直接 大言壯語する機會は與へられず 史政信、史光裕、呉介南 等の僞名を使い分けながら、他の留傭者とともに 兵用地誌等の 軍事資料の準備任務に携わる。

重慶、南京と 二年あまりを過ごし、「日中合作」 と謂う 當初の大志は繪空事になり、さらには 國共内戰の歸趨もはっきりして來た 昭和23年春、歸國を決意する。

GHQ G-Ⅱ ウイロビー少將の腹心となってゐた 服部卓四郎大佐からは「英軍の追及嚴しく歸國は時期尚早」との密書も届くが、一旦 決心したことを枉げるような男ではない。

 

昭和234月、國防部の歸國認可を受ける。

途中、上海では 植田謙吉、松井太久郎 両將軍を見舞ってゐるが、思想信條を異にする両先輩將軍に對する辻の筆致は 必ずしも穏やかではない。

なを Wikipedia では 松井太久郎陸軍中將の復員は 昭和217月となってゐるが、少なくとも 昭和235月の時點で まだ 蔣介石の庇護下で上海にをられた事になる。

 

 

上海から 元北京大學教授に化けて 變名・變裝で復員船に紛れ込み 佐世保に上陸したのが 昭和23526日。 「潜行三千里」は ここで記述を終はってゐる。

 

              暫く、佐賀縣小城炭鑛で鑛夫をしてゐたとか、日蓮宗の坊主に變裝して 日本各地を行脚してゐたとか、諸説あるが、委細は詳らかでない。

ともかく、「潜行」は 國内でなお暫く續いたことになる。

 

 

   なぜ 今 「潜行三千里」なのか?

 

一讀して 編集子の狙いは 「貪 汚」 にありとみた。

辻政信は 「貪 汚」 と謂う言葉を頻繁に使ってゐるが、耳慣れないし、この言葉は 現代では死語であり 通用しまい。  「たんお」 と讀むらしい。  

 

廣辭苑(第四版)では 意味だけを さらりと片つけてゐる。

 

大修館 大漢語林によると、「貪」(第二水準、配當外)は;

タン(漢音)、トン(呉音)、どん(慣用)とある。

 

村松 明 大辭泉(小學館)には;

「貪汚」 タンヲ(莊氏)

「貪溺」 (耽溺) タンデキ(顔氏家訓)

「貪欲」(慾) ドンヨク、 たんよく(文選)

(もともと 佛教用語だから、呉音で  「トンヨク」 の筈だが 慣用で 「ドンヨク」が普及したものだと考えられる。)

「貪婪」(惏) ドンラン、 たんらん(楚辭)

「貪吝」(悋、遴) ドンリン、 たんりん(漢書)

等々、

 

「貪官汚吏」(たんかんおり) と謂う四文字熟語もある。 漢民族の「(さが)」であらうか。

日本の法律用語にはないが、「虎」や「蠅」を退治する爲に 習近平は 「中華人民共和國貪汚懲治條例」 なるものを制定してゐる。

世上、米國支給の最新兵器を備へた蔣介石軍が、日本軍から武装解除で獲た舊式兵器で武装した 毛澤東軍に敗北した 最大の理由は 腹心の 戴笠 を 不慮の飛行機事故で失った事によると謂はれる。

即ち、虎退治や蠅叩きに敏腕を振るってゐた 戴笠亡き後 國民黨は 根っこから腐りきって 大廈の倒れる如く自ずから崩壊したものだといわれる。

 

本書には 河内(ハノイ)、重慶、南京での 日々の生活を通じての「虎」や「蠅」の活躍ぶりが(つぶさ)に描かれてをり 我々日本人には馴染まない「漢民族の(さが)」が實感として讀み取れる。

勿論 國民黨員の中にも 我々日本人が見習うべき、手本とすべき人達もをり、その人達の事にも筆を吝嗇(おし)んではゐない。

 

一帯一路を標榜に 世界第一の經濟大國を目指す國が 蹉跌を來たし 挫折することありせば、それは 「貪官汚吏」の跋扈であらう。

 

 

現在の支那語圏で “こんにちは” に相當する挨拶言葉は、普遍的に 「你好」(ニイハヲ)(悠好、儞好) であるが、司馬遼太郎によると、この言葉は 共産黨政權が どこからか持って來て普及させたものだと謂う。  それ以前は 「吃過了麽」(チイスウラマ) 即ち 「飯喰ったか?」 であったと。 この本にも 「吃過了麽」 が盛んに出て來る。

共産黨政權の「功」の一つであらう。  そして、最大の「罪」は「批孔」とともに簡體字 即ち 文化大革命文字を普及させてしまったことである。  五千年の文化遺産大破壊である。  今や「康煕文字」が通用するのは 香港と臺灣だけになってしまった。

その香港もいまや危うい。 「功」が いつまでもつずき、「罪」が すみやかに もとにもどらん事を 祈るや切。

 

 

「潜行三千里」 辻 政信著 毎日新聞社 昭和25525日印刷

    昭和2565日發行

                                                                        (鎌倉中央圖書館地下書庫藏 小笹文庫)

                                                 2019/10/20 初稿)

 

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