ペペノゴル砲台

第五十六警備隊小川砲台 砲台長 小川 和吉(海軍大尉)

アン式15糎海岸砲3門が三カ所の洞窟にかくされて居た。
米艦にもみつからず、米艦は悠然と近づいて來るのを見て居た小川隊長が發射準備
命令を出して居た。 米艦驅潜艇が距離2,800米真横に進行中、3門の砲が火を吹い
た。 6發総て命中、驅潜艇は轟沈した。 米軍はこれを日本軍機雷に寄るものと考え
ていたので、其の後も見つかる事はなかった。 昭和19年7月24日テニアン港より米
軍上陸敢行の時、米艦驅潜艇ノーマン、スコットや戰艦コロラドに26發の命中彈を
あたえた。
命中彈の中にはカロリナス柴田砲台の3門も含まれて居る。
其の後、米軍の攻撃により、小川砲台70名の隊員の中、生存者は青森縣 中村春一
(先任伍長)、栃木縣 相良智英(上水)の2名。 柴田砲台70名の中、生存者は静
岡縣 渡辺 正(兵曹)、秋田縣 藤田松次郎(兵曹)の2名。

   この地を整備されました市長 ハーマンM.マングロナ様に厚く御禮申し上げます。
   1996年8月
   横森部隊鴇田隊有線隊員 森岡 利衛(記)

碑文全文原文のまま。


碑文ならびに四葉の寫眞は ペペノゴル砲台跡(Turtle Watching Point)で撮影したものであるが 碑文にある通り 同じ大砲三門(安式四十口径六吋砲)がカロリナス台地入り口の「二本やし砲台」(砲台長 柴田卯助海軍中尉)にも設置されてゐた。

上空から見たテニヤン空港。 West Fieldとよばれ、米軍がカーヒー第二飛行場の南側に建設したもの。 ペペノゴル砲台は飛行場の西端、Two Coralと呼ばれる灣を見下ろす高台の中腹にある。(滑走路端と海岸線の中間辺り) 現在は海岸線にTaganTaganの巨木が生い茂り砲台跡から海は俯瞰出来ない。

寫眞右上 霞んで見えるのがテニヤン港。 「二本やし砲台」はその先の高台にあり 両砲台は電話線で結ばれて 小川和吉海軍特務大尉が統一指揮をとり テニヤン港に向かって来た米艦に正確な射撃を浴びせかけたものである。

下の寫眞は「ペペノゴル砲台」跡地に自生してゐた野生の激辛ミニ唐辛子(ドンニ・ホット・ペッパー)
テニヤン、ロタには それぞれ独自の Hot Pepper sources(フェナデニ・ソース)が瓶詰めで売られてをり
日本のものの十倍辛いと謂うのがうたい文句です。 マリアナは唐辛子の原産地かも知れません。  

「二本椰子」と思はれる場所からテニヤン港を鳥瞰する。 驅逐艦ノルマン・スコット 戰艦コロラドは指呼の間に望見された筈である。

The six 40-calibre 6-inch coastal defense guns (fabricated by Sir W. G. Armstrong Whitworth & Co., Elswick, U.K.) located in Peipeinigul and Carolinas Plateau fired and hit 26-artillery-shell against USS Norman Scott DD-690 and USS Colorado BB-45 on July 24, 1944.

安式四十口径六吋平射沿岸砲
English Armstrong-make 40-calibre 6-inch coastal defense gun.

日清戰争で「吉野」「秋津洲」の主砲として大活躍した実績に鑑み、日露戰争では 英ヴィッカース社建造の戰艦「三笠」を含む総ての戰艦、重巡洋艦の副砲(合計 160門)として採用された。 明治四十一年には「四一式四十口径十五糎砲」として國産化され(四十五口径、五十口径のものもある) 毘式(ビシキ)(English Vickers)五十口径六吋砲に役目を交替するまでの戰艦、重巡洋艦の副砲、軽巡洋艦の主砲として活躍した。 速射砲ながら 砲彈(重量 45 kgs)、装薬莢、火管を別々に装填する方式で、日本海海戰当時は各砲の射手(古参兵曹)が目で照門を見ながら、砲身の旋回(右肩、両脚、腰で操作)、俯仰(左手で俯仰輪操作)、苗頭調定、発砲(右手人指し指)(電路電鍵接)を一人で操作したと謂う。 艦砲としての役目を終わってから海軍工廠の倉庫に眠ってゐたものを平射沿岸砲として 再度のお役目を果たしたものである。 下の寫眞は尾栓が取り外されてゐるが赤く塗られた部分の真ん中の小さい丸が薬莢の鍔の部分である。 この鍔が尾栓に引っかかって尾栓を開くと薬莢が外れる構造になってゐる。
  (2002/11/17 追記)

(横須賀海軍砲術學校教頭、一等巡洋艦「利根」艦長等を歴任され 三式彈開発に貢献された帝國海軍砲術の権威 黛 治夫海軍大佐の著書「海軍砲戰史談」 原書房 昭和四十七年からの抜粹引用。 厚く御禮申し上げます。)

テニヤン空港(West Field)ターミナル正面に展示されてゐる「安式四十口径六吋砲砲身」
巻尺をもって測ってゐたら警官がとんで来て「何をしてゐるのだ?」とすいかされたが 事情を説明すると一緒に手伝って測ってくれた。
正確に計測すると 筒径六吋(152.4 mm) 砲身實長二○呎(6,096 mm) であり 英國アームストロング社 (Sir W. G. Armstrong Whitworth & Co., Elswick, U.K.) 製四十口径六吋砲の砲身である事がわかる。素材は強靱で米軍の艦砲射撃にもかすり傷程度の損傷。
砲身重量は 7 頓あり クレーンはおろか七トン・トラックもなくて 三つ又チェーン・ブロックとコロで港から砲台まで5 Kmの道のりをころがして運んだと謂う。

ペペノゴル、二本やし両砲台には 小川和吉海軍特務大尉、柴田卯助海軍中尉両砲台長をはじめとして 海軍砲術學校を優秀な成績で卒業した練達の下士官、兵が多数配属されてをり 日清、日露戰争の遺物とも謂うべき旧式艦砲で最大の戰果を挙げ善戰敢闘したものである。 

驅逐艦ノーマン・スコットならびに戰艦コロラドの被害状況を示す寫眞は艦名のところをクリックするとご覧になれます。

ペペノゴル砲台ならびに戰闘の詳細に関しては相良智英様の手記「ああ死の島テニアン」をご参照下さい。
ご子息様のご厚意によりリンクを張らせていただきました。 厚く御禮申し上げます。 (Web  回復しました。 2016/06/06)

本日の朝刊で 元順天堂大學教授、日本肺癌學會名誉會長 本間 日臣氏の訃を知る。
中山義秀「テニヤンの末日」のヒロイン「濱野修介海軍軍醫大尉」のモデルだと承知します。 極限の中からの生還、戰後 研究室に戻り呼吸器内科の分野で偉大な業績を残された方だと承知してをります。 享年八十六歳 心からご冥福をお祈り申し上げます。  (2002/11/09 記)



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