霧の日記 ー 辰口信夫軍医が遺したもの。

This article in Japanese is about Dr. Paul Nobuo Tatsuguchi, who was killed during the battle in Attu on May 30, 1943 at age of 33.
He was borne in Hiroshima on August 31, 1911. After completing middle school education, he went to California to study medical science at Pacific Union College and College of Medical Evangilist (now Loma Linda University). He obtained California Medical License in 1938. Then he returned to Japan as an Adventist Medical Missionary. In January 1941, 11 months before outbreak of the war, he was inducted into 1st Imperial Guard Infantry Regiment that is the most honourable and prestigious regiment of the Imperial Japanese Army.
He was a dedicated Christian and left the bible in the battle field that had been a gift from his wife Taeko. The bible containes his diary from May 12, the day of landing of the attacking force, through May 29, the day he dropped a line of farewell message to his family. The bible, together with a pressed flower of Attu and a photo of his elder daughter in it, was returned to his younger daughter Mrs. Laura Mutsuko Tatsuguchi-Davis, who had never seen her father.
The writer's intents and purposes of this article in Japanese language are to have more Japanese people come to know about Dr. Paul Nobuo Tatsuguchi and his diary. Thanks to Mr. Edward Dickinson of 49th FA Battalion, Mr. Les Nordlud of 405th Infantry Regiment and University of Alaska, all of whose web-site's descriptions were referred to and were very helpful in producing this article. Richard Watanabe, the writer 2003/02/20.
I am also grateful to Mrs. Jean Moore Beach for her granting me to use her father's pictures of Attu on the following page. Her father was artillery mechanic of the 7th Infantry Division. (2003/03/05)

二月十六日日曜日 テレ朝 人間ビジョンSP「霧の日記」アリューシャンからの伝言 を視る。 涙、涙、涙。 映像を視ながら「時これ五月十二日、暁こむる霧ふかく、突如と襲ふ敵二萬、南に邀(むか)へ北に撃つ、南に邀(むか)へ北に撃つ。」昔 市立野口國民學校で憶えたメロディーと歌詞が 自然と口をついて出てくる。 涙のなかの感動と感激の一時間半。
三十三歳で最果ての孤島に散った 辰口信夫という 米國で教育を受けた軍医の事に強い関心が湧いた。 調べて行くうちに、一人でも多くの人に辰口さんの事を知って貰いたいと思い立ち このページを書き上げたものです。

辰口信夫さんは明治四十四年八月三十一日 廣島縣生まれ。 大正八年三月尋常小學校高等科、廣陵中學校(原文では graduated from Xerjie Middle School, Prefecture of Hira Shemaとある)大正十二年三月フレーザー英語学校を卒業。 十八歳から二十歳まで加洲のパシフィック・ユニオン医学校、昭和十二年に二十五歳でエバンジェリスト医科大学(現 Loma Linda University)を卒業して昭和十三年九月に加洲醫師免許を取得。 アドベンチスト伝道教会の医師として帰国。
昭和十六年一月、近衛歩兵第一聯隊に入営。 五月 衛生一等兵(PFC Medical Dept.) 七月 衛生上等兵 八月 衛生伍長 九月 陸軍軍医学校、 十月 衛生曹長 十二月 見習医官。 

日本側の公式戰史である「戰史叢書 北東方面陸軍作戰」の記述では「北部第五二一六部隊見習士官」、戰歿者名簿では「北海守備隊野戰病院曹長辰口信夫」となってゐます。  先進米國の醫師免許を持ち、おそらくは 既に日本で醫師としての実績もあったであらう辰口さんが なぜ二等兵で入営し 二年半軍籍に在籍して 依然 見習士官、曹長だったのか?
当時の規定では 戸主本籍地の聯隊區、即ち 第五師團廣島聯隊區鯉歩兵第十一聯隊入営の筈が、どういう経緯で 近衛歩兵第一聯隊に入営したのか、そしてどうして北海守備隊(旭川 熊第七師團が基幹であるが アッツ島守備隊野戰病院は彈第四十七師團弘前歩兵第一○五聯隊野戰病院から抽出)へ転属となったのか 疑問は解けません。

辰口さんが米國で有名なのは玉碎二日目に早くも米上陸軍參謀情報部(Headquarters Landing Force, Office of Assistant Chief of Staff, G-2)に 戰塲で拾得されたその日記が翻譯され その記述内容が感銘を与え 歩兵第七師團内でコピーが広く回付されたためです。  番組の中では この日記の原本は行方不明で、英譯されたコピーだけが現存するとなってゐましたが、歩兵第七師團野砲兵第四十九大隊 エド・ディッキンソンさん(Edward Dickinson 49th FA Battalion)の記述によると、そもそも日記と謂うのは英語の「聖書」の余白に日本語で書き込まれたもので、五十年後の1993(平成五)年に拾得者の第七師團歩兵第三十二聯隊のアルビン・コッペさん(Alvin Koeppe 32nd Infantry Regiment 故人)から 次女のMrs. Laura (Mutsuko) Tatsuguchi-Davis宛に返還されたもだそうです。 この英語の「聖書」は もともと辰口耐子(英譯原文ではTaeke)夫人から贈られたもので、アッツ島の草花と長女ミサコ(英譯原文Miseka)さんの寫眞が挿まれてゐたと。 父親戰死の時 ミサコ様は四歳、睦子様は生後三ヶ月でもちろん父親のお顔はご存知ありますまい。 ディッキンソンさん記述に日付がありませんが 当時は長女ミサコ様は日本に ご母堂は次女Mrs. Davisと加洲にご健在な旨記されてゐます。

ディッキンソンさんと連絡をとって もっと詳しいお話をお伺いしたかったのですが、残念ながらページから連絡先が削除されてゐます。  しかし米歩兵第七師團第四十九野砲兵大隊ホーム・ページ上で平成五年撮影の寫眞は拝見出来ます。(その後 休載となりました。)
二段目、二番目がMrs. Laura Mutsuko Tatsuguchi-Davisでしょうか? 現在 六十歳の筈ですが 映像ではとても六十にはみえない若々しい美人で ディッキンソンさんも「A very attractive and personable lady」(非常に魅力的で容姿端麗、知的美人)だと最高の讃辞を贈ってゐます。 三番目の寫眞の方は山崎保代陸軍中將ご令息Mr. Yasuyuki Yamazaki(山崎保之)でしょう。

辰口日記は 敵上陸の昭和十八年五月十二日から始まって玉碎前日の二十九日で終わってゐます。 十八日間の短いものです。  英譯文を再翻譯したものが大部は戰史叢書に引用されてをります。 五月二十九日 最後の日の記述を引用させてもらいます。 

夜二十時地区隊本部前に集合あり。 野戰病院も参加す。 最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。
僅かに三十三年の生命にして、私は将に死せんとす。 但し何等の遺憾なし。 天皇陛下萬歳。

聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。 十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。
私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻○○子よ、
(原文Taeke)さようなら。 どうかまた合ふ日まで幸福に暮らして下さい。 ○○様(原文Miseka)、やっと四歳になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。 ○○様(原文Tokiko 睦子を「時子」と読み違えたものではないか?)貴女は今年二月生まれたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。
○○様
(原文Matsua, brother)、お大事に。 ○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、(Kochan, Sukechan, Masachan, Mittichan)さようなら。
敵砲兵陣地占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。 敵は明日我総攻撃を豫期しあるものの如し。

私と同年代以上の人で「時これ 五月十二日 ・・・   ・・・ 山崎大佐指揮を執る。」 この歌詞とメロディーを知らぬ日本人はゐますまい。  同じように 米歩兵第七師團の将兵で「Doctor Paul Tatsuguchi」の名前を知らぬ人はゐないと エド・ディッキンソンさんは書いています。

日本兵を鬼畜のように思ってゐた米兵に斉しく感銘を与えたのは 辰口さんが最後に妻子に遺した言葉でしょう。
歩兵第七師團のなかには辰口さんを旧知の同窓の軍医もゐたそうです。  (2003/02/20 結)

参考ならびに引用出典;

米歩兵第七師團第四十九野砲兵大隊ウエッブ・サイト
米第九軍團第百二歩兵師團第四百五歩兵聯隊ウエッブ・サイト
アラスカ洲立大學アンカレージ校公文書館ウエッブ・サイト
戰史叢書「北東方面陸軍作戰」<1>アッツの玉碎 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十三年

    榮子へ遺す言葉

    一、 部隊の長として遠く不毛に入り骨を北海の戰野に埋め米英撃滅の礎石となる
        眞に本懐なり、況や護國の神霊として悠久の大義に生く快なる哉。
    一、 思ひ遺すこと更になし、結婚以來茲に約三十年良く孝貞の道を盡し内助の功深く感謝す。
        子等には賢母、私には良妻、そして終始變らさる愛人なりき衷心満足す。
    一、 健康に留意し老後を養ひ子供達は勿論孫共の世話迄せられ度し。
                                        保  代

     保之 保久 和子 正子へ遺す言葉

     一、 行く道は何にても宜し、立派な人になって下さい。
     一、 兄弟姉妹互に協力し元氣に愉快に活動しなさい。
     一、 母に孝養をを盡すことが、父の霊に對する何よりの供養と存せられ度し。
                                        父より

陸軍中將 山崎 保代 命(享年五十一歳)
靖國神社社頭掲示より引用。 (2003/03/09 追記)

(やいば)も凍る 北海の
御楯と立ちて 二千餘士
精鋭こぞる アッツ島
山崎大佐 指揮を執る
山崎大佐 指揮を執る

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