レクイエム帝國海軍

大前敏一おおまえとしかず海軍大佐の足跡そくせきを訪ねて

初陣ういじん
昭和12年5月 二年間の米國駐在をへて日本郵船秩父丸で歸國した大前敏一は 6月1日 少佐で 第23驅逐隊“菊月”艦長を拜命する。
この年 第23 驅逐隊は佐世保軍港所屬の第三豫備艦で、大前にとって二年七ヶ月ぶりの海上勤務である。
丁度、15年間のNaval Holidays の明けた年で 聨合艦隊は 永野 修身おさみ司令長官 (兵28)、 小澤 治三郎參謀長(兵37)のもとで 昭和12年度前期訓練たけなはな時期である。

7月7日に發生した 廬溝橋での紛爭は 當初 海軍は 米内 光政海軍大臣(兵29) 山本五十六海軍次官(兵32)の方針で不擴大、現地解決の態度であったが 聨合艦隊は 紀州沖での年度演習を直ちに中止して呉で必要な補給をすませ佐世保に廻航、待機態勢に入る。
その時、 艦隊勤務經驗が殆どなく、土佐の生まれで時々汽車に乘り遅れる様な ヌーボーの永野に代って 少將の小澤が あたかも聨合艦隊司令長官であるかのごとくテキパキと 必要な諸命令を口達していったと謂はれる。 また、戰艦の主砲彈を徹甲彈から陸用砲彈に積み替ようとする永野と それに反對する小澤との間で激烈な論爭のあった事が傳へられてをり 永野と 小澤では 戰術思想も戰略思想も全く異にしてゐた事の例證である。

豫備艦である 第23驅逐隊 も7月11日 09:50軍令部からの 機密電で「24時間即時待機」命令を受ける。 しかし 飽くまでも不擴大方針の海軍は 相手側への刺戟を避けるため支那本土への艦艇の派遣は愼重に控へる。
それまで自己抑制につとめてきた海軍も 8月9日上海で陸戰隊第一中隊長 大山 勇夫中尉(兵 60) 射殺事件が發生し 上海での緊張が昂まるに及び8月10日 13:25 長谷川 清第三艦隊司令長官(兵 31) は 佐世保で待機中の 第八戰隊、第一水雷戰隊、呉鎭守府第二特別陸戰隊 竝に 佐世保鎭守府第一特別陸戰隊に對し 直ちに上海へ向けての發航を下令する。  陸戰隊の増援は支那側を刺戟して 緊張は更に昂まり 一觸即發の状態となる。
此の事態に 米内海軍大臣が12日夜 急遽 近衞首相、杉山陸相に事態を説明、翌13日 09:00 からの臨時閣議で【自衛權の發動としての海軍の武力行使】 は正式に閣議の諒解事項として政府に認められる。 息詰まる緊張の中で對峙してゐた日中両軍の間で戰端が開かれたのは 13日夕刻で、14日朝には 支那空軍マーチン雙發爆撃機の空爆があり 14:30長谷川第三艦隊司令長官は<自衛權の發動>を聲明。
15日 第一聨合航空隊(司令官 戸塚 道太郎少將 兵38) の 木更津航空隊(竹中龍造大佐司令 兵39) は 大村飛行塲から、鹿屋航空隊(石井 藝江しづゑ大佐司令 兵39)は 臺北松山飛行塲から それぞれ 96 陸攻による人類戰史上初の渡洋爆撃を 颱風による惡天候の中 敢行。 ここに戰火は一擧に中支に擴大する。
國民政府軍の公式戰史は 日中戰爭の始まりを 此の時點と認識してゐる。

陸軍も 15日、上海派遣軍の戰鬪序列を發令、松井 石根いはね豫備役陸軍大將を現役に復歸させて軍司令官に任命、第三師團(名古屋)と第十一師團(善通寺)に動員を下令する。
16日、旅順に待機中の 横須賀鎭守府第一特別陸戰隊と呉鎭守府第一特別陸戰隊も 第三艦隊司令長官の指揮下に入り 上海へ急行、上海の陸戰隊は 総勢6,300 となる。 が 十倍の敵に對峙たいじして 30,000 の居留民を保護するには 余りにも兵力不足である。
聨合艦隊は 陸軍部隊の輸送に主力艦をあてる事にして 第一艦隊旗艦“陸奥”を三津濱に、“長門”を小松島に入れて 第十一師團の輸送にあてる。 また 第一艦隊第三戰隊の“榛名”“霧島”を 熱田灣に廻航、第三師團先遣隊の輸送にあてる。 帝國海軍 75 年の歴史の中で 陸兵の輸送に聨合艦隊の主力艦群を使った希有の例である。

これに先立ち 佐世保で待機中であった 第23驅逐隊は 第三水雷戰隊に編入され、旗艦“北上”に將旗を翻す 司令官 近藤 英次郎少將(兵 36) に率いられて14日午後 佐世保を抜錨 15日夜 揚子江口に到着。
菊月、三日月、望月、夕月からなる第23驅逐隊は江灣鎭附近を砲撃 埔東側から砲銃射撃を受け、約一時間これに應戰した。
第三水雷戰隊は 陸軍の本隊上陸に先立ち 陸戰隊による橋頭堡確保の 支援命令を受ける。
竹下 宜豐少佐(兵 48)指揮の横須賀鎭守府第一特別陸戰隊500名と 第三師團(師團長藤田 進中將)歩兵第六聨隊(聨隊長 倉永辰治大佐)の先遣隊の歩兵一個中隊、機關銃一個小隊 ならびに 工兵一個小隊 合計 670名の呉淞鐵道棧橋岸壁への敵前強行上陸の支援である。

昭和12年8月23日 00:30近藤司令官の發進命令に 船團は 一齊に黄埔江西溝を發航。航行序列は 第23驅逐隊、第21水雷隊、輸送船雲陽丸、當陽丸、信陽丸、第三水雷戰隊旗艦“北上”の順の單縱陣。 これに 第一回上陸部隊の 第三師團先遣隊を乘船させた橋本 信太郎大佐司令(兵 41)の 第7 驅逐隊 朧、潮、天霧が續く。
いまや 上陸作戰の成否の鍵は  第23驅逐隊の先頭艦「菊月」の艦橋で指揮をとる艦長 大前 敏一海軍少佐の雙肩に懸かってゐる。 02:15 上陸豫定地點附近に達し 大前艦長の「撃チ方始メ」の號令一下“菊月”の單裝 12 cm 4門の備砲は一齊に火を吹き始め 後續の各艦艇も順次これにならう。
02:45 竹下少佐の乘船する雲陽丸が機關銃により陸上の敵を制壓しながら岸壁に横付け 敵前上陸を開始する。 三時間の激闘の後 05:45竹下少佐は 長谷川第三艦隊司令長官宛『所定區域ノ橋頭堡ヲ確保シ 陸軍部隊ノ進出ヲ待ツ。』 旨無電で聯絡。 敵前上陸の成功である。
その間、第7驅逐隊の 朧、潮、天霧が 第三師團の先遣部隊の兵員と共に 陸軍部隊の彈藥噐材糧秣を揚陸。
續ひて 第2驅逐隊の朝霧、夕立、村雨、五月雨が 司令 田中 頼三大佐(兵 41)に指揮されて第二回上陸部隊を揚陸。 第三回上陸部隊の 神通、綾波、敷波、夕霧、曙もこれに續く。
第三師團第二梯團の輸送護衛隊指揮官は“名取”艦長 中原 義正大佐(兵 41)がつとめる。 名取、鬼怒、子日、初霜による揚陸が完了するのは 翌24日01:30。
後續の 第十一師團兵員と軍需品の揚陸が完了するのは 25 日 16:00となる。
これが 世に名高い <呉淞ウースン上陸作戰> である。

- 近藤 英次郎中將は 後に 第十一戰隊司令官として 長江遡航作戰に勇名を馳せる。

- 竹下 宣豐少將は 19.10.19 第36警備隊司令として Leyte 島にて奮戰戰死する。

- 橋本 信太郎中將は 第三水雷戰隊司令官として 小澤治三郎南遣艦隊司令長官の下で 最も困難とされた 山下 奉文第二十五軍司令官の Kota Bharu上陸作戰を成功させる。20.05.16 第五戰隊司令官として英國海軍機動部隊と交戰Malaya半島 Penan 沖で 乘艦“羽黒”と運命を共にする。最後は 5隻の英國海軍驅逐艦の魚雷で とどめをさされた事が <水雷屋> の中將にとって せめてもの慰めであらう。

- 田中 頼三中將は 後に敵米海軍をして<最も卓越した驅逐艦乘り>と賛嘆せしめ、 第二水雷戰隊司令官としてTassafaronga沖の海戰に 壓倒的に優勢な 米重巡洋艦隊に壓勝、米國海軍公式戰史に "It is some consolation to reflect that the enemy who defeat you is really good and Rear Admiral Tanaka was better than that - he was superb." と言はしめる。

- 中原 義正中將は 日米開戰當時の 海軍省人事局長をつとめ、17.12.24 南東方面艦隊參謀長。  翌年11月 Rabaulで米軍の空爆に重傷を負い 19.02.23 築地の海軍軍醫學校附屬病院で戰病死。

上海派遣軍の上陸は成功したものの、蒋介石は 歐米の最新の輕火噐で武裝された精鋭を次々に繰り出しAlexander von Falkenhausen陸軍中將率る 獨逸軍事顧問團の作戰指導で日本軍は大苦戰に陥る。 12.08.24參謀本部は第九(金澤)第十三(仙臺)、第十六(京都)、第百一師團(東京)の四個師團の追加動員を決定。 それでも 民族意識に目覺めて戰意旺盛な國民政府軍の堅陣は抜けず  さらに 第十軍の戰鬪序列を發令して 第六(熊本)、第十八(久留米)、第百十四師團(宇都宮)と獨立混成第九旅團を動員して 12.11.05【日軍百萬上陸杭洲灣】のアドバルーンを掲げて杭洲灣上陸作戰を展開、「兵法の下の下」と謂はれる  <兵力の逐次投入> の典型である。
大前は この杭洲灣上陸作戰前に 數々の想ひ出を殘して“菊月”を退艦、12.10.23 付けで軍令部出仕、12.11.15付けで 補 軍令部員 兼 海軍大學校教官海軍省出仕の辭令を受けて2年7ケ月ぶりに 霞ヶ關の赤煉瓦に着任する。

霞ヶ關勤務
軍令部では 第三部長直屬の 諜報主任で 部長は 野村 直邦少將(兵 35)。
野村は 13年4月 海軍武官として上海へ赴任、その後16年3月 後任の 阿部勝雄少將(兵40)と共に 日獨伊三國同盟の軍事專門委員として獨逸へ派遣される。 その儘 獨逸に駐在、18年7月 獨逸潛水艦 U511 に便乘して歸國。 東條内閣の末期、海軍の歴史の中で最短の海軍大臣を五日間だけ勤める事になる。

この頃の 諜報主任の仕事は 後に日米間の緊張が昂まった頃のスパイ紛いの活動とは違ひ 高度の戰略的情報蒐集である。 大前が着任して直ぐに直面した難問題は 12.12.12 に起きた <パネー號誤爆事件> である。
南京陥落直前 揚子江に蝟集する敗走の支那軍を満載した艦船攻撃命令を受けた 第二聨合航空隊第十三航空隊常洲前進基地の 村田 重治大尉率いる九六式艦上攻撃機 3機、奥宮 正武大尉率いる九六式艦上爆撃機6機は 九五式艦上戰鬪機6機に護られて 砂塵を巻き上げて次々に離陸。 揚子江を上流に向かって航行中の船團を發見して 奥宮隊は直ちに急降下爆撃を加へ、村田隊は 高度3,500メートルから 60キロ 爆彈の水平爆撃を加へて歸投する。 夕刻になって 米國極東艦隊司令部から 第三艦隊司令部宛「本日午後二時以降、パネー號  トノ無線連絡杜絶。」と 日本側に航空偵察に依る搜索を依頼する連絡が入り  第三艦隊司令部は大騒ぎとなる。 搜索調査の結果 奥宮隊が攻撃を加へたのがStandard 汽船所屬の 3雙で、村田隊の放った 2彈が命中して沈沒した船が 米國海軍砲艦パネー號 (U.S.S. Panay) である事が判明する。
支那方面艦隊報道部は 直ちに「支那軍ハ汽船ニテ南京ヲ脱出上流ニ向カイタリトノ報ニヨリ コレガ追撃爆撃ニ向ヒタル海軍航空隊ハ、スタンダード會社汽船三雙を誤認シ爆撃ヲ加ヘ該汽船及ビ傍ニアリタル米艦一雙ヲ撃沈セシムルノ不祥事ヲ惹起セリ。 右ノ事件ハ アメリカ海軍ニ對シ誠ニ遺憾千萬ノコトニシテ長谷川長官ハ之ニ關スル一切ノ責任ヲトルタメ直ニ適當ノ措置ヲ講ジツツアリ。」の聲明を發表すると共に、河用砲艦“保津”(艦長上田 光治中佐 兵45)“安宅”、“江風”“鵲”、“鴻”に搜索救助を命じる。“保津”は 直ちに下關を發って 開源碼頭下手に投錨、同地に在泊中の英艦 Beeに先任將校 橋本 以行大尉(兵 59)を派遣して 英艦救助隊と共に 江岸からの執拗な狙撃を冒して 夜を徹して救助活動にあたらせる。
この時の大臣 米内光政、次官 山本五十六、軍務局長 井上成美、第三艦隊司令長官 長谷川 清等は いづれも 加藤 友三郎の 不戰海軍 (Fleet in Being) の思想を踏襲する海軍左派で、就中 長谷川は 山本の前任の駐米武官であり 前任の次官で お互い氣心の知れた仲であり、長谷川の攷は 支那方面艦隊報道部の聲明の中に盡されている。
海軍は 素早く反應し、次官としての山本は「海軍は ただただ頭を下げる。」と聲明し軍務局長の井上は「F. Roosevelt 米大統領宛の親電」出電を外務省へ申し入れる。  又 長谷川は「自分が更迭される事で アメリカ側が納得するものなら遠慮なくやってくれ」と 山本に申し入れている。

當時の駐米大使は 山本と同じ 越後長岡の出身で 山本とは旧知の 齋藤 博。
齋藤は アメリカ人の間で評判のよかった大使であるが ラジオを通じて 日本側の非を率直に認め アメリカ人に誠心謝罪する。
ともかく 關係者の必死の努力で 二週間で決着をみるが 解決にあたって 本來 當事者である 外務省よりも Joseph C. Grew 大使に直接掛け合った 山本次官の功績の方がはるかに大きい。 
齋藤 博は 翌々年2月 華府で客死、F. Roosevelt 大統領は その死を悼み 遺骨を日本に送り届けるのに 異例の軍艦を派すと謂ふ儀禮を盡す。
この時の 巡洋艦が「アストリア」(U.S.S. Astoria)であり その時の艦長が ターナー大佐 (Captain Richmond Kelly Turner) であり、三年半後  大前が Savo島沖の夜戰で 因縁の邂逅を果たすが、 その事は後で書く。

パネー號事件は【南京陥落】 (12.12.13) で有頂天の日本では當時でも余り一般の注目を浴びる事は少なく 新聞報道も南京陥落の快擧の陰に隠れて控へ目で今や 歴史の彼方へ忘れさられてゐるが、眞珠灣以前に 日米開戰の危機があったとすれば それは パネー號事件であり、その事をいち早く認識した海軍左派の人達の必死の努力で、關係者の迅速 且つ 嚴重な處罰で誠意をもって對應し  解決をみたものである。 いま 米國側の記録を調べてみても 日本側の對應次第で日米開戰の危險性のあった事を否定出來ない。 當時 赤坂の米海軍武官府で情報擔當補佐官を勤めていた Edwin T. Layton は戰後書いた著書の中で「グルー大使はアメリカ政府が對日宣戰するかもしれぬとして、館員に歸國の準備を命じた。」(Ambassador Grew, remembering how the Spanish-American War had broken out in 1898 after the sinking of the Maine in Havana Harbor, expected a declaration of war from Washington and ordered his staff to begin packing.) とまで書いている。

この時、海軍大臣から戒告處分を受けた者の中に 村田重治、奥宮正武の名前がある。 村田は後に艦爆の江草と共に 雷撃の神様と謂はれた男で 何れも兵學校は58期。 昭和6年、大前練習艦隊參謀と 歐洲への遠洋航海を共にしたクラスである。 帝國海軍航空隊の至寶 村田や 江草の事を語れば話は盡きない。
“赤城”飛行隊長として九一式淺海航空魚雷改二を裝着した40機の九七艦攻を率い眞珠灣の米戰艦群を全滅させて勇名を馳せた村田重治は、17.10.26 “翔鶴”飛行隊長として、米空母 CV Hornetと差し違へて南太平洋海戰に散華する。
“蒼龍”飛行隊長として250 Kg爆彈搭載の九九艦爆78機を率いて眞珠灣に殺到 戰史家Samuel E. Morison, Ph.D. をして「日本海軍が戰果を擧げた時、そこには大抵 江草がゐた。」と言はしめた 江草隆繁少佐は、19.06.15第521航空隊飛行隊長として 自ら手塩にかけて育て上げた 世界初の雙發急降下爆撃機、500 Kg 爆彈搭載の 最新鋭 Y-20「銀河」21 機と共に米機動部隊に突入、Marianasの海に散る。  江草聖子夫人は 大前と同期の 岡村 基春の令妹であり、夫戰死後 教職を志し戰後UC Berkeley, Michigan両大學に留學、日本の英語教育法の  最高權威者として 高知大學名譽教授となる。

- 橋本 以行中佐は 伊58號潛水艦長として 戰爭末期 廣島の原爆を Tinianへ運んだ米重巡洋艦 U.S.S. Indianapolis 撃沈の戰果を擧げる。

今 筆者の手許に 一枚の寫眞がある。
山本五十六、横山一郎、そして 孫の裕志を彷彿とさせる 若き日の大前の顏がみゑる。藝者を中に山本と並んで坐ってゐる外人は 米國海軍武官の Harold M. Bemis 大佐である。 大前の終生の友となる 横山の事は この後 まだたくさん書くが、横山が 第五水雷戰隊首席參謀から 海軍省官房付に着任したのが 大前と同じ12年11月、翌年5月、海軍省副官となって、14年12月第二遣支艦隊參謀として轉出するまで 同じ赤煉瓦の二階と三階で勤務を共にする。
寫眞は アメリカの海軍武官府と 昭和13年の新年會を兼ねて「パネー號事件」の 所謂 手打ち式をやった時のものだが、 今、この寫眞の塲所と日時を 正確に言ひ當てられる人はゐない。

13年11月15日付けで 同期生の トップ を切って中佐に進級した 大前は、14年12月、軍務局第一課勤務の辭令をもらい 赤煉瓦の三階の軍令部から二階の 海軍省へ移る。
軍務局長は阿部勝雄で 前職は軍令部第三部長。 後任の 第三部長が岡 敬純 (兵39)で この後、 阿部は 野村直邦と共に 日獨伊三國同盟の軍事專門委員として獨逸へ派遣されるが 後任の 軍務局長が 又 岡 敬純である。
野村、阿部、岡は 何れも 三國同盟組で 山本、井上が艦隊へ去った後 省部で主流をしめる。 終生獨身の岡は 戰後 極東國際軍事裁判 A級法廷に訴追されて 終身禁固刑の判決を受けるが、釋放後、大前は 高齢の岡を世田谷砧の寓居に よく慰問に訪ねてゐた様である。
第一課長は 矢野 英雄大佐(兵 43)(14.10.10. - 15.11.15)。 後任は これ又親獨派の高田 利種大佐(兵46) である。
矢野は 駐英武官から歸國したばかりで 若き日の留學先も英國と謂う海軍切っての英國通。 讃洲香川の産で 氣がやさしく部下を怒鳴ったりするような事は決してない紳士であったと謂う。 開戰時 聨合艦隊旗艦“長門”艦長、後に軍令部第三部長等を歴任するが 一度その謦咳に接した部下は 下士官、兵にいたるまで 齊しく その人柄を懐かしむ。 19.07.08 中部太平洋方面艦隊參謀長として Saipan で戰死。 任 海軍中將。

任務は 編制主務である。 海軍の人事は 海軍大臣の擅權専管事項で 海軍省人事局長が一手に宰領するが 實際には 山本權兵衞が 派閥、情實を排するため 制定した <軍令承行令>が 昭和の戰時にも嚴然と生きており 組織が決まれば人事は兵籍序列で半ば自動的に決まる仕組みになっていた。
そこが 編制主務の苦心のしどころで、用兵者の意を體して編制を行い、人事局長が適材適所の人事が行へる様 組織を組み立てて行くわけである。 平時は兎も角 戰時には最重要な 責任の重い仕事である。 時の 人事局長は 前に名前を上げた 中原 義正少將で 後に 南東方面艦隊參謀長として 大前の直上の上官となる。

開戰時の秀逸と謂はれた人事は 開戰直前の 16.10.18、平田 昇中將(兵 34)に替へて 海軍大學校長であった 小澤 治三郎中將を 南遣艦隊司令長官に据へた事であらう。 この人事も 表向きは<軍令承行令>の所爲とされている。
即ち 南遣艦隊を建制上の必要性から第二艦隊の配下に編入する事になったが平田中將は 第二艦隊司令長官 近藤 信竹中將(兵 35)の序列上位にあり 更迭となったと謂う。 建制上の必要性を詮索せずとも 最適材最適所の人事である事に 何人も異議を差し挾む余地はない。
宮中での親補式を了へた小澤は 室積沖に假泊中の 聨合艦隊旗艦“長門”に 山本五十六を作戰打ち合せのため訪ねる。 小澤を信頼しきっている山本は「適當にやってもらおう。」と言ったのみで 後は 積もる雜談に終始したという。
16.10.24 Saigon飛行塲に到着、直ちに旗艦“香椎”に着任。 着任後、先づ最初にやった仕事は 旗艦の變更要求である。
“香椎”は16年7月 完成したばかりの新造艦ではあるが “香取”“鹿島”とともに 元々 候補生の遠洋航海用に建造された練習巡洋艦で基準排水量 5,890トン 速力18 ノット。 艦隊旗艦としての最大の問題點は 通信能力の脆弱さである。
それから、Saigon航空基地、Tudaum、Sokulanton飛行塲を精力的に回り、航空戰力を詳細に檢討し 既に舊式になりつつあった 96 陸攻に加へて 新鋭機の増援を要求する。
直屬上官の 近藤は 小澤の要求に 冷淡であったと傳へられるが 山本は「小澤の云ふ事だから。」と 聨合艦隊から 重巡洋艦“鳥海”を派し、第十一航空艦隊から 臺中飛行塲に待機中の 鹿屋航空隊の一式陸攻 3 個中隊 36 機を抽出分派先發隊が 藤吉 直四郎大佐司令(兵 44) 宮内七三少佐飛行隊長(兵56)等と共に Tudaum基地に進出するのは開戰直前の12月5日である。
この鹿屋隊が12月10日、英國東洋艦隊の旗艦 Prince of Wales と 巡洋戰艦 Repulse を撃沈し Sir Winston Churchill をして その回顧録の中で「前途は全く暗澹としている。」と言はしめた あのMalaya沖海戰で大活躍をした事は 多くの戰記に詳しく語られている。
小澤の 次なる功績は Kota Bharu上陸作戰に關する「陸海軍協定」である。
陸軍が最重要視して 最精鋭師團を配した 第二十五軍の「コタバル上陸作戰」は大本營陸海軍部での話合で決着が付かず 現地協定に委ねられたが 山下奉文第二十五軍司令官から敵情判斷を聽くや その必要性を認めて あっさり決行を取り決める。
眞珠灣攻撃に先立つ事二時間前、大東亞戰爭の幕は 斯くして 小澤治三郎中將率いる南遣艦隊の上陸支援砲撃で切って落とされる。

更には、今村 均中將率いる第十六軍の蘭印攻略に際し、獨斷で 麾下の 第七戰隊(司令官 栗田 健男少將 兵-38 旗艦“熊野”) と 第三水雷戰隊(司令官  橋本信太郎少將 旗艦“川内”)から 第十一驅逐隊(吹雪、白雪、初雪)と 第二十驅逐隊(天霧、朝霧、夕霧)を管轄外の蘭印攻略戰に分派 17.03.01 Batavia沖夜戰で 米英蘭聨合艦隊を壞滅させるのに大きな役割を演ずる。
今村は この時 大混戰の中に乘船の龍城丸に魚雷が命中して沈沒、日頃の佩刀「志津三郎兼氏」の古刀を、この日のために 陸大首席卒業恩賜拜領の「月山」の軍刀に佩きかへ、軍裝のまま泳いで上陸する事になるが、後に海軍の造船官が潜水服を着て調べた所、龍城丸の破穴が英米の魚雷のモノより遙かに大きく味方の魚雷によるものである事が判明する。 昭和29年に巣鴨拘置所から釋放された 今村が最も親しくつきあったのは 小澤であるが 海軍の小澤と陸軍の今村の終生の親交は この時に始まる。

緒戰の捷報を 海軍省の一室で聞きながら 自分の出番を 今か今かと待ちわびていた 大前に 出陣の機會が訪れるのは 17年7月になってからである。
Midwayで慘敗を喫し壞滅した 第一航空艦隊の司令部を新編の空母部隊の第三艦隊に据へ 新たに第八艦隊を新設する編制替の仕事を最後に 軍務局第一課を去り、17.06.20付で補 聨合艦隊司令部付、17.07.14付で新設の第八艦隊參謀として着任する。

着任後 直ぐに生起するのが 大前參謀の名前を海軍部内で不動のものとした Savo島沖夜戰(日本側呼稱 第一次ソロモン海戰)であるが、その事を語る前に不世出の名參謀の 生ひ立ちを語らせてもらう事にする。



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