Thorough examination and analysis on "DAY OF DECEIT by Robert B. Stinnett".

P-45 "The most potent evidence is two radio dispatches sent by Admiral Yamamoto to the 1AF on November 25."
For the first radio dispatch, Stinnett referrs citation in P-332 of two sources, but this dispatch is also referred to by Dr. Gordon Prange in his "At Dawn We Slept" P-387 as the source from PHA, Part 13, P-418.
RADM. Edwin Layton referred in his "And I Was There" P-207 as according to Captain Fuchida's recollection, as the source from PHH 13/414-18. (There is a slight difference though, where Latitude 40 degrees north, instead of "42°N" as Stinnett describes)
This dispatch is fictional and had never existed at all. Why such discrepancies occurred ?
At early time after the end of war, by the request of US Strategic Bombing Survey, RADM Kameto Kuroshima who was Yamamoto's senior staff and Captain Mitsuo Fuchida presented a report on Pearl Harbor attack. In that report, because of very limited relative documents available for them then, they made a mistake.

Once a dog bark at the wrong tree by mistake, thousands dogs bark at the moon.

The second one that Stinnett claims as "Radio Dispatch" is not a radio dispatch but a part of the GF's written order No. 3 and 1AF had received before departing from the inland sea to Hitokappu bay.

Suppose logically, combined fleet had received GF's order No. 5 on November 20, 1941, saying "Carry out Second Phase of preparations for opening hostilities", and on November 23, 1AF issued KIDOBUTAI MEIREI SAKU (1AF's order) No. 1 aboard the flagship Akagi, where the first radio dispatch that Stinnett claims for is basically the same as 1AF's order No. 1. Why, why, why Yamamoto dispatched such cable on November 25, 1941 ?

P-49 "HITOKAPPU BAY INTERCEPT"
This radio dispatch was transmitted through Tokyo's broadcast (HA FU 6)
Tokyo's broadcast is usually transmitted using three different wavelengthes, simultaneously, 4175KHz (TO14), 8350KHz (TO15) and 16700 KHz (TO16). Intercept was to be expected. US intercept is recorded 4155 KHz instead of 4175. This difference is reasonable and undersatandable. Most of US intercept of TO14 is recorded 4155 KHz.
However, decryption of the intercept is on post-war-time of April 24, 1946 by OP-20-GZ, US Navy's Office of Communications and the information was not available for the US intelligence in time.
P-189 "The Japs are blasting away on the frequencies"
The original story was in "INFAMY, Pearl Harbor and its aftermath" by John Toland, 1982, and it has been proven fictitious.
P-361 Admiral Nagano's so-referred radio messages to Admiral Yamamoto and Admiral Oikawa, illustrated on P-303 are not radio dispatches but, sealed orders by the chief of Navy's General Staff under the direction by the Emperor.
It was confirmed that the one address to Yamamoto dated November 5 was directly handed to ADM. Yamamoto at 9:30am, Friday morning of November 7, 1941 at the Ministry of Navy.

(Revised and corrected on June 18, 2003)

First Touchstone Edition 2001 is referred.

ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実」のトリックを徹底検証する。

膨大な資料集めには深甚なる敬意を表しますが、資料の内容は玉石混淆、しかも そのtexts examineたるや 我田引水、牽強付会。 しかも肝心なところで「資料は私の机のファイルにあり。」として 示されてゐない。
ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知りながら それを黙認したと謂ふ「大統領の欺瞞・陰謀」説に私が先ず疑問を感じる点は 大統領が真珠湾攻撃を事前に知ってゐたとする根拠となる情報の主要部分が H局 (Oahu島Heeia)、Station HYPO(太平洋艦隊通信諜報部)からもたらされたものであると謂う点です。 たしかに太平洋艦隊にはPurple Machine(マジック解読機)は勿論 解読されたマジック情報すら与へられてをりません。しかし 著者が主張する様に 十一月二十五日付 発 山本五十六聨合艦隊司令長官 宛第一航空艦隊司令長官の電信(同書93頁)と「新高山登レ一二○八」電を H局/HYPOが傍受解読してゐたとすれば たとえマジック情報はなくても 当然 十二月七日には 真珠湾は嚴重警戒態勢が敷かれてゐた筈です。 Station CAST(比島Cavite)にPurple Machineが与へられてHYPOに与へられてゐなかった事実は むしろONI(海軍諜報部)も大統領も ハワイが日本海軍の攻撃対象になるとは全く考へてゐなかった事への証左だと私は考へてをります。
以下 重箱の隅をつつく事をお断りして 文藝春秋社刊「真珠湾の真実」初版第四刷の頁を引用、逐條 解析、検証させてもらいます。

1. 93、113、475頁【決定的決め手となる重要電信】
十一月二十五日山本五十六聨合艦隊司令長官から第一航空艦隊に宛てたと謂ふ二本の電信は全くの「幻」の電信であり 存在しない架空の電信である。
山本の第一報と謂ふのは 文面からして「機密機動部隊命令作第一號」に近いが C點(N42°W170°)での燃料補給は(X−4)(十二月四日)午前であり 若干内容が異なる。機密機動部隊命令作第一號、第二號、第三號は十一月二十三日新嘗祭当日午前九時 麾下各級指揮官を旗艦「赤城」に招致の上 手交下達してゐる。 軍令部ならびに聨合艦隊司令部宛の写は 鈴木 英少佐が持ち帰った事が記録されてゐる。
第二報と謂はれる文面は「機密聨合艦隊命令作第三號」ではないかと推測されるが これも「機密電令作」ではなく「機密命令作」であり内地抜錨前に手交された筈である。
「機密機動部隊命令作第一號、第二號、第三號」の原本は何れも現存しないが 第一號、第三號については 防衞廳防衞研修所戰史室戰史編纂官が種々の資料を基に再現したものが 戰史叢書「ハワイ作戰」の中に收録されてゐる。

筆者は出典を113、475頁に「米戰略爆撃調査團報告書」が原典である旨 記載してゐるが、なぜ二十五日の傍受電であるとしたのかは説明がない。原文では「This message, stripped of all communication data but following the form of the US Navy's intercept messages ・・・ 」とありあたかも傍受解読電報であるかの斯く資料を改竄してゐる。

何れにしても二十一日に「第二開戰準備」が発令され、二十三日に「機密機動部隊命令作第一號」が発令された後に このような内容の聨合艦隊命令が発令される事はありえない。
この点は「ルーズベルト大統領が眞珠灣攻撃を事前に知ってゐた」とする著者の最大の論拠を覆す決め手である。

2. 95 - 99頁「ヒトカップ湾電報」
第一航空艦隊のヒトカップ湾集結を暗示する重要電信であるが 著者は98頁の説明でH局の傍受だとし HYPOが解読したように記述してゐる。  更に「GZ(翻訳者を示す海軍記号)」(原文 Navy designator for the translator)としてゐるが、 GZとは【OP-20-GZ】の事であり、Station NEGATの解読である事は明白である。 解読日時について著者は「諸君」一月号 西木正明氏とのインタビューで「傍受時の翻訳か 戰後の翻訳か 知る術はないが、それ自体は余り重要ではない。」と答へてゐるが、98頁の説明では「暗号解読については重大な疑問がある。」(原文 Decription, however, remains the critical question;)としてゐる。  他の電信書式、例へばSRN Series #006430等から類推して 戰後の1946(昭和21)年4月24日の解読翻訳(translate)である。
通信保全処置はなんらとられておらず、單冠(灣)はカナで一字一字つづられてゐたとなっているが、絶対にあり得ない事で、著者の独断である。

3. 307、476頁
476頁にある「軍令部総長が発信した二通の電報・・・」と謂ふのは 原文では「These two radio dispatches originated by Admiral Osami Nagano・・・」とあり聨合艦隊司令長官宛と支那方面艦隊司令長官宛の二通が一枚の用紙にタイプされた写真が掲載されてゐる。
文面からして 明らかに「大海令第一號」と「大海令第二號」であり 電信命令ではあり得ない。 出典について同じく「米戰略爆撃調査團報告書」を引用してゐるが 前出 機密機動部隊命令作第一號」同様 米国側が戰後に入手した資料によるものである事は明白である。
更には 505頁にある「日本海軍の武力発動発令」として 同じ出典のものを「電信形式」に改竄して記載している。 監訳者は さすがにこの事に氣付き[訳注]で「大海令第九号である」と注記してゐる。
著者は「大海令」「大海指」「機密聨合艦隊命令作」「機密聨合艦隊電令作」「機密機動部隊命令作」「機密○○部隊電令作」を區別する基本的知識が欠如してゐる。

4. 334 - 355頁「無線封止神話の崩壊」
原文は「The Japs Are Blasting Away on the Frequency」であって巧妙な日本語訳である。
このRobert Oggの話と謂うのは基本的に John Toland "INFAMY" Pearl Harbor and its Aftermath(日本語版「真珠湾攻撃」文藝春秋社 一九八二)の蒸し返しであって 同書の巻末「ある見解」で吉田俊雄氏(元海軍中佐、軍令部參謀)が絶妙の見解を披瀝して決着が付いてゐる。 この話の裏付けとしてTolandが引用したJohan Ranneft大佐の証言なるものもTolandの故意か不注意によるオランダ語の誤訳であった事も判明してゐる。
加へて筆者は帝國海軍の通信方法「放送」と「通信」の區別がついてゐない。
367、373、393頁では 著者は波長の長い短波が近距離用で 短くなるほど遠距離に到達するものだと誤解してゐる。 この誤解から 南雲艦隊が東へ移動してゐた証拠だとしてゐる。 短波通信に関する基本的知識の欠如である。

5. 363頁 百二十九通の傍受電報
著者は出典について 389頁原注20で説明を試みているが、証拠資料は掲示されてをらず「布哇が攻撃目標であった」と謂ふ事をimplyする納得のいく説明ではない。
A第一航空艦隊司令長官発信の電信が 六十通で B東京から機動部隊の艦船あて電信が二十四通と謂ふのも 首をかしげたくなる。
Aの1AF旗艦発信が六十通だとした具体的根拠が 傍受解読によるものか 方位測定によるものか判別出來ないが、打鍵紋解析によるものだとしたら、「赤城」の電信士の一部を瀬戸内海に殘置させて擬電を発したと謂はれてゐるから、これに引っかかったと謂ふ事も考へられる。 Bの二十四通と謂ふのは「東京第一放送」だと考へられるが 傍受通數としては いかにも少なすぎる。
日本側で無線封止を破ったことが記録されてゐるのは;

十一月二十八日一七○○ 第六艦隊旗艦「香取」がサイパン島東方で輸送船五隻 を護衞する米ブルックリン型乙巡と不期遭遇した時
十二月六日午後 馬來半島南端を西進中 英軍哨戒機に触摂された時
発 第二十驅逐隊司令(20dg 山田雄二司令 旗艦天霧)一四二○
発 第一護衛隊指揮官 (3Sd 橋本信太郎司令官 旗艦川内) 一五○○
発 馬來部隊指揮官 (KF小澤治三郎司令長官 旗艦鳥海)一五○○
であり いずれも敵に遭遇触摂されて無線封止を解除し作戰緊急信を発信したものである。
その他 單独行動の先遣部隊潜水艦は 随時 敵情報告を発信してをり これらについては言及がない。
先遣部隊指揮官 (6F 清水光美司令長官)は無線封止には 殊の外愼重で「新高山登レ」電を十二月二日二○○○トラック島からクエゼリンに向かう洋上で受信、洋上での電波輻射を避けクエゼリン入港後の五日一七三○ 固定局である第六通信隊を経由して麾下各潜水艦に伝達してゐる程である。(詳細 別稿參照)
290頁に、十一月二十六日○六○○第一航空艦隊との間で「長々と 繰り返し」無線交信を行ったと記述し、さらに「あとがき」の新資料として503頁に十一月二十五日の「HYPOの通信概要」を掲載しているが この通信概要のどこにもそれに該当する文言はない。 その[解説]で我田引水な説明を繰り返してゐるが説得力はない。
(6F旗艦香取は二十四日一四○○横須賀を抜錨 トラック島へ向かう太平洋上にあり。)

6. 375 - 381頁「新高山登レ」
有名なGF機密第六七六番電 GF電令作第一○號であるが 日本側発信経緯は別稿「『ニイタカヤマノボレ一二○八』發信經緯」を參照されたい。
著者は この電信が H局/HYPOにより 傍受解読されたと主張するのだが、その証左として 傍受者のイニシャル「XT」がJoseph Christie Howardだからと説明してゐる。
若し HYPOがこれを傍受解読してゐたら 太平洋艦隊は何故 十二月七日に警戒態勢を敷かなかったかと謂ふ疑問が殘る。
その疑問に対し 著者は 諜報局長 Joseph J. Rochefort少佐と太平洋艦隊情報參謀 Edwin T. Layton少佐二人の怠慢だと片付けてゐる。  この二人の怠慢だと決めつけるのは 少し乱暴に過ぎる極言ではなかろうか。
James C. Howardが Joseph Christie Howardであったと称する経緯は394-395頁に述べられてゐるが、 381頁に示されてゐる「1979年に公開されたアメリカ版のニイタカ傍受電報」に「G2 Comment; G1 Comment;」と手書きされてをり 明らかに「Station NEGAT」の資料である。 「GZ」同様 著者の無知によるものなのか、或はそのことを知っての牽強付会なのかは判らなが、その他にも著者のtexts studyには首をかしげさせられる点が多い。
394頁原注41の「鷲、鷹、鳶 發令アラセラル」(原文では The black kite, eagle, and hawk will fly December 8)の斯きは思はず目を疑ってしまった。 明らかな何カ所かの誤訳は別にして 共訳者は飽くまでも原文に忠実であるが さすがにこの部分は監訳者も窮したようで 原典「服部卓四郎著 大東亞戰爭全史」を引用して狗肉の[訳注]を加へてゐる。
同じ原注41 の「小さな部隊・・・」(原文では Smaller commands - picket boats, coastal lookouts, and other smaller units)云々とあるが GF電令作第一○號は 聨合艦隊麾下 各艦隊司令長官宛であり「Smaller commands」に対しては 各艦隊司令長官から 別の方法、文面で下達されてゐる。 著者は聨合艦隊司令長官「機密電令作」の伝達方法に関する基本的理解が間違ってゐる。 (詳細は別稿參照)

Rochefort大佐は何も書き殘さずにこの世を去ったがLayton少將 (Rear Admiral USN Ret.)は「HYPOがJN-25(海軍暗號書D)解読作業を許されたのは開戰後」であり又 新高山登れ電信傍受は「Bainbridge Island in Puget Sound」だと その著書に書き殘してゐる。
著者はLayton少將を発言が矛盾だらけで嘘つきだと決めつけてゐるが 仮りにこれがHYPOで傍受解読されたものだとしても その事が著者が主張する様に「ルーズベルト大統領が事前に眞珠灣攻撃を知ってゐた。」事にはならない。

玉石混淆ではありますが 膨大な資料の収拾には深甚な敬意を表します。 しかし 折角の資料分析が「我田引水、牽強付会」で、「眞珠灣攻撃」が事前に判ってゐたと謂ふ確証はどこにも見当りません。 作為による「欺書」なのか 無知から來た「愚書」なのか判りませんが 孰れにしても「為書」に違いなく 私は「大統領の欺瞞」説は信じません。

以上の通り、 京都大學 中西輝政教授の 『從來の歴史觀を變へるもの』 というご意見には同意出來ません。

( 2001/11/14 )

引用文獻;
「眞珠灣の眞實」 ルーズベルト欺瞞の日々 文藝春秋社 初版第四刷
DAY OF DECIET」The Truth about FDR and Pearl Harbor、Robert B. Stinnett, First Touchstone Edition 2001



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