ロタ空港前に展示された日本海軍各種兵器

手前から 九三式13粍聯裝高角機銃、愛知アツタ32、中島護12(ハ103NAK)または三菱火星25 その先に 中島榮21が三基と零戰の尾翼が展示されてゐる。  ここの飛行場には 獅子341fg(紫電) 豹263fg(零戰) 鵬521fg(銀河)が展開の豫定で その地上整備員が配属されてゐた。  アツタ倒立V-12は「彗星艦上爆撃機D4Y2」ならびに「二式艦上偵察機」用。 当時四翅推進器は「紫電局地戰闘機N1K1-J」ならびに「天山艦上攻撃機B6-N」だが double-radial 14氣筒なので「天山」用「護N-1」ないしは「火星N-2」のいずれかと謂う事になる。 Push-Rodsの位置と形状から 「三菱火星25」だと断定出来る。 翅径は 3,500mmである。  ちなみに彗星のそれは 3,200mm、零戰のそれは 3,050mm。  「榮NAM」の一基はboreの部分が剥出しになってゐて 130m/mである事がはっきり計測された。   

推進器は 三翅四翅いずれも住友ハミルトン恒速・可変ピッチ・プロペラー (Hamilton-Standard constant velocity variable pitch propeller) であるが 住友金属工業(現 住友精密工業)では戰時中も特許料を帳簿に計上し 戰後 その清算を申し出て 敵國であったHamilton-Standard社を仰天かつ感激させたと謂うエピソードが残されてゐる。

アツタ32 DB-601E modified.

INVERTED-VEE engine is displayed in the up-side-down position in front of Rota Airport.
This ATSUTA type 32 engine is for carrier-based dive-bomber coded JUDY, derivertive of DB-601E
gasoline injection, turbo-charged, sophisticated inverted Vee-12, liquid-cooled engine
licensed by Daimler-Benz.
The high powered engine having displacement of 33.9 litre produces take-off power of 1,400PS (41.3PS/L)

倒立V-12である事を知らずに 逆さまに展示してあるところがごあいきょう。 上の白くみえる部分がアルミ製cylinder-head coverである。 右端の寫眞に排気タービン過給器が見える。 ニッケル不足から満足な耐熱材料が得られず 耐久時間は驚くほど短かったと謂はれてゐる。 後述の回転軸受にしても劣悪素材に加へて加工技術(全数選別検査をしてゐたと謂う)、熱処理技術 (crank軸induction-hardening、roller表面case-hardening)の拙さから充分なcase-depthが得られてをらず表面剥離、焼付を多発して低稼働率の主原因であったと謂う。 燃料噴射ノズルの加工歩留まりが「5%」と謂うような信じ難がたい記録も残されてゐる。

アツタ32 (DB-601E 150mm bore x 160mm stroke 33.9L C/R 7.2 過給圧力比 1.42 出力1400HP)は 愛知時計電機(昭和十八年二月に愛知航空機と改稱)が海軍の斡旋で獨逸ダイムラー・ベンツ社から技術導入したDB-600シリーズの國産品であるが;
  Master connecting-rod bearingへのroller bearingの採用。
  ガソリン筒内直接噴射の採用。
  倒立型であるための潤滑機構の複雑
等の理由により 稼働率低く 更には 過給圧力、飛行高度および吸気温度によって燃料噴射量を調節する制御機構、飛行高度に応じて過給器の回転数を制御して適正ブーストを得るメカニズム等(エレクトロニクスのなかった時代 総てメカニカルな)斬新しかし複雑極まる設計で 当時の日本の工業技術水準では とてもこなせる代物ではなかったらしい。
英ロールス・ロイス社がメルセデス・ベンツ社からの略奪模倣を発展させて スッピットファイヤーの名器スーパー・マーリンとして結実させ さらには米パッカード社に技術供与して名機ノース・アメリカンP-51ムスタングのエンジンとして大成させたのとは大違いである。
roller bearingについては 要求される素材の製鋼技術そのものが当時の日本の技術力では対応出来ず、さらには滲炭焼入、研磨精度等 基礎技術の面で遠く及ばなかったと謂はれてゐる。 ために軸受の表面剥離、焼付が多発し稼働率を低下させる原因となった。  聯合軍がシュバインフルトのベアリング工場 (Vereinigte Kugellagerfabrik, V.K.F., Schweinfurt)を執拗に爆撃したのはベアリング生産工場を壊滅させてメッサーシュミットの生産を止めようと目論んだ為らしいがダイムラー・ベンツ社は平軸受に設計変更したりしてDB-605、DB-603と設計変更を重ね 最終的DB-603Nでは 44.7L C/R 8.5 過給圧力比 1.75、水・メタノール噴射で出力2850HPを達成し、累計 72,000台を生産したと謂う。  結局日本では生産継続が技術対応不能で絶望的となり彗星33 D4Y3は金星62に換装されてゐる。
彗星の他に 潜水艦搭載の浮舟付攻撃機「晴嵐」にも搭載されていたし、さらには縦に二基 胴体内に搭載した陸上偵察機「景雲」も企画されたが 冷却問題が解決せず完成をみてゐない。

因みに 川崎航空機工業でも陸軍の斡旋で同じダイムラー・ベンツ社からDB-601A (33.9L C/R 6.5 過給圧力比 1.40 出力1200HP)をライセンス導入、ハー40として名機三式戰「飛燕」キ-61に搭載していたがアツタと同じ技術的問題で生産が絶望的となり 空冷double-radial 14気筒ハ−112に換装し「五式戰闘機」キ-100として生まれ変はってゐる。
ガソリン・エンジンで筒内直接噴射が日本で実用化されたのは じつにそれから半世紀以上経ってからであり 基礎技術の裏付けなしに過早に先端技術の導入を図った失敗例である。

   以上 鈴木 孝氏(元 日野自動車工業技術統括副社長 工学博士)の著書からの抜粹引用
                         (2002/11/06追記)

BMW-9C の page への リンク。

綾小路 様から 新しく寫眞のご提供をいただきました。  (2004/12/07 掲載)

ロタ空港近くで撮影された 零戰の残骸。

沖縄ロタ會の人達が記憶で作成した 昔の島の地圖。

 

サバナ山「平和祈念公苑」

ロタ島は岐阜縣可児市の姉妹都市です。 この公苑の碑石の一部は可児市造園組合からの寄贈です。

ロタ島は地上戰闘がありませんでした。 3,000名の陸海軍人中 戰歿者は陸海軍併せて236名。

観光案内には島の南岸アパノン海岸に「齋藤隊墓」の記載があり それらしき場所をくまなく探しましたが見つけられませんでした。 恐らく このアラグアン湾を見下ろす高台の戰歿者墓苑に改葬されたものか それとも千鳥ヶ淵へ御帰還なされたものか、記録がはっきりしません。 合掌。

追  記 (2004/03/14)

綾小路 様 からご連絡をいただき、齋藤隊墓所は昔のままの場所で 整頓、清掃 供花がたえない旨 承りました。 合掌。

写真提供 綾小路 様

ロタ駐屯主要陸海軍部隊

ロタ島駐屯海軍部隊 指揮官 阿部善次海軍少佐(兵科64期)

第五十六警備隊ロタ島分遣隊
獅子 第三四一海軍航空隊(紫電)、豹 第二六三海軍航空隊(零戰)、鵬 第五二一海軍航空隊(銀河)各基地地上員
総員  二○○五人(内 152人戰死)

ロタ島駐屯陸軍部隊

獨立混成第十聯隊歩兵第一大隊 大隊長 徳永 明大尉
(玉 第一師團歩兵第一聯隊第二大隊)(東京 滿洲孫呉)
獨立混成第十聯隊工兵隊(玉 第一師團工兵第一聯隊第三中隊)(東京 滿洲孫呉)
獨立混成第四十八旅團砲兵隊(錦 第十一聯隊山砲兵第三大隊第八中隊)(善通寺 滿洲虎林)
ロタ島守備隊長 今川茂男陸軍少佐
総員 一○三一 (内 84人戰死)

ロタ島駐屯部隊に関しては文献が希少で はっきりしない部分が多く ご異見、ご異論をお聞かせ下さい。

ロタ島には 雷第二十九師團歩兵第五十聯隊(松本)がテニヤンから移動の豫定であったが 出發の当日に米海軍がマリアナへの空爆を開始、移動は中止となる。  人の運命は紙一重、判らないものである。

主要参考ならびに引用文献;

戰史叢書62「中部太平洋海軍作戰<2>」 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十八年
戰史叢書 6「中部太平洋陸軍作戰<1>」 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十二年
「中島飛行機エンジン史」 中川良一・水谷総太郎 共著 酣燈社 1985年
「エンジンのロマン」  工学博士 鈴木 孝 プレジデント社 1988年
寫眞・図説「日本海軍航空隊」 講談社 1970年
日本軍用機寫眞総集 光人社 1970年
WORLD WAR II REMNANTS, Northern Mariana Islands, Dave Lotz

(2002/10/10)



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