臨時編成 < 特 設 師 團 > 推移

特設師團である 第101師團の上海戰線投入については、從來 「停戰後の警備任務を目的として派遣されたが 
長期激戰に手こずり はからずも戰線に投入された。」 との説が 一般に信じられてゐた。
最近の 加藤陽子東京大學大學院准教授の研究によれば 「特設師團の編成・動員・戰線投入は 事變勃發當時の
 石原莞爾參謀本部第一部長の戰略思想に基づくもの」
であると謂う。

即ち 昭和十二年後半にも對蘇開戰必至とみてゐた石原莞爾が 現役屈強師團を滿洲に拘置して
特設師團をして上海戰を戰はせたとする見解である。
石原自身は九月二十七日には參謀本部第一部長を更迭されて關東軍參謀副長に轉出するが、
國民政府軍の戰力をみくびった 作戰初動の失敗は否めまい。



           加藤陽子 「滿洲事變から日中戰争へ」  岩波新書 2007年6月20日 初版         (2008/07/15 追記)



第十六師團司令部 (京都市伏見區深草田谷町 現 聖母女學院本館)

(2009/03/08 撮影)



日華事變勃發直後 留守第一師團、留守第八師團、留守第九師團、留守第十四師團の豫備役、後備役を緊急召集して臨時編成された特設師團は支那大陸を歴戰の後 昭和十五年春までには 夫々 復員、歸還、解隊。 その後、各歩兵聯隊は 順次 三個歩兵聯隊・歩兵團編成に改編されて 常設師團に轉換されてゐる。

特設師團名 新設常設師團名 歩兵團
第百一師團(東京) 昭12/09/01創設 昭15/03解隊
歩兵第百一旅團 歩兵第101聯隊(東京・本郷) 鵄第六十一師團(東京) 第六十一歩兵團
歩兵第149聯隊(甲府) 18・3・13編成 歩兵第101聯隊
歩兵第百二旅團 歩兵第103聯隊(東京・麻布) 歩兵第149聯隊
歩兵第157聯隊(佐倉) 歩兵第157聯隊
騎兵第101大隊
野砲兵第101聯隊
工兵第101聯隊
輜重兵第101聯隊
歩兵第103聯隊は解隊
第百八師團(弘前) 昭12/08/26創設 昭15/02解隊
歩兵第百四旅團 歩兵第52聯隊(弘前) 奥第五十七師團(弘前) 第五十七歩兵團
歩兵第105聯隊(青森) 15・7・10編成 歩兵第52聯隊
歩兵第二十五旅團 歩兵第117聯隊(秋田) 歩兵第117聯隊
歩兵第132聯隊(山形) 歩兵第132聯隊
騎兵第108大隊
野砲兵第108聯隊
工兵第108聯隊
輜重兵第108聯隊
歩兵第105聯隊は聯隊補充區が
弘前に變更となり
彈第四十七師團(弘前)へ
18・5・14編成
第百九師團(金澤) 昭12/08/26創設 昭14/12解隊
歩兵第三十一旅團 歩兵第69聯隊(富山) 柏第五十二師團(金澤) 第五十二歩兵團
歩兵第107聯隊(金澤) 15・7・10編成 歩兵第69聯隊
歩兵第百十八旅團 歩兵第119聯隊(敦賀) 歩兵第107聯隊
歩兵第136聯隊(鯖江) 歩兵第150聯隊
騎兵第109大隊
山砲兵第109聯隊
工兵第109聯隊
輜重兵第109聯隊
歩兵第119聯隊は
安第五十三師團(京都)へ
歩兵第136聯隊は聯隊補充區が
岐阜に變更となり
譽第四十三師團(名古屋)へ
18・5・14編成
第百十四師團(宇都宮) 昭12/10/12創設 昭14/09解隊
歩兵第百二十七旅團 歩兵第66聯隊(宇都宮) 基第五十一師團(宇都宮) 第五十一歩兵團
歩兵第102聯隊(水戸) 15・7・10編成 歩兵第66聯隊
歩兵第百二十八旅團 歩兵第115聯隊(高崎) 歩兵第102聯隊
歩兵第150聯隊(松本) 歩兵第115聯隊
騎兵第18大隊
野砲兵第120聯隊
工兵第114聯隊
輜重兵第114聯隊
歩兵第150聯隊は
柏第五十二師團(金澤)へ
15・7・10編成

2・26事件直後 関東軍隷下滿洲孫呉へ移駐した第一師團の 豫備役、後備役を緊急召集して編成された第百一師團は編合部隊番號を夫々 100 を冠する命名で統一。 9月1日編成發令、編成完了と同時に動員發令。 9月18日神戸を出航、22日呉淞上陸 いきなり最激戰地の上海市街戰に投入されて大苦戰。 中でも東京下町を補充區とする歩兵第百一聯隊は大塲鎭・蘇洲河附近の戰闘で死傷者続出、遺家族が殺気立ち、報復を恐れて聯隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ったと謂はれるが、その聯隊長 加納治雄大佐(士候21)も 12・10・11戰死。 さらに 翌年の武漢三鎭攻略戰でも大苦戰。 13・9・3後任聯隊長 飯塚國五郎大佐(士候22) 徳安で戰死。 13・11・9師團長 伊東政喜中將(士候14) 戰傷で更迭。

フォン・ファルケンハウゼン (Alexander von Falkenhausen) 陸軍中將を團長とする獨逸軍事顧問團は 「將校・指揮官ノ狙撃」を徹底指示。

参謀本部第三課二宮義清少佐(士候34)上海戰線視察報告書の一節(戰史叢書<86>P-382);
< 將校ノ損害ハ、殆ド狙撃ニヨルモノデアル。 肩章、飾緒、靴、帽子ナドガ射撃ノ目標ニナルノデ服装改正ガ必要デアルガ、「服制」ノ関係上、師團長トイヘドモ勝手ニ處置デキヌ實情デアル。 >

第百八師團は通稱號「祐」として 19・7・12 滿洲で復活編成されてゐるが 所属歩兵聯隊は 240i、241i、242i で、また
第百九師團も「膽」として 19・5・22、第114師團は「將」として 19・7・10 夫々復活編成されてゐるが、孰も原師團とは繋がりを異にする。

復活 膽第百九師團は 混成第一旅團(父島)、混成第二旅團(硫黄島)、混成第一聯隊(母島)から成り 混成第二旅團は歩兵第145聯隊(鹿児島)、戰車第二十六聯隊(聯隊長 西 竹一中佐)を主力とする。

將第百十四師團は 獨立歩兵第三旅團(第八十三歩兵團、第八十四歩兵團)を編合部隊として山西省臨汾で再編成されてゐる。

昭和十三年度にも 100番師團は 四個師團が編成されてゐる。

第百四師團(大阪) 昭13/06/16創設 昭16/01歩兵團編成に改編 鳳第104師團(補充擔任 名古屋) 第104歩兵團
歩兵第108聯隊(大阪) 歩兵第108聯隊
歩兵第137聯隊(大阪) 歩兵第137聯隊
歩兵第161聯隊(和歌山) 歩兵第161聯隊
歩兵第170聯隊(篠山)
歩兵第170聯隊は獨立混成第二十一旅團
に編入、ラバウルに向かう途中 輸送船が
沈没、軍旗喪失。
第百六師團(熊本) 昭13/05/15創設 昭15/04解隊
歩兵第百十一旅團 歩兵第113聯隊(熊本) 昭15/07/10歩兵第113聯隊は
龍第五十六師團(久留米)へ
聯隊補充區は
福岡へ
歩兵第147聯隊(大分) 昭18/05/14歩兵第147聯隊は
静第四十六師團(熊本)へ
聯隊補充區は
都城へ
歩兵第百三十六旅團 歩兵第123聯隊(都城) 昭18/05/14歩兵第123聯隊は
静第四十六師團(熊本)へ
聯隊補充區は
熊本へ
歩兵第145聯隊(鹿児島) 歩兵第145聯隊は擔第109師團へ
騎兵第106聯隊
野砲兵第106聯隊
工兵第106聯隊
輜重兵第106聯隊
第百十師團(姫路) 昭13/06/16創設 昭17/05歩兵團編成に改編 鷺第110師團(姫路) 第110歩兵團
歩兵第110聯隊(岡山) 歩兵第110聯隊
歩兵第139聯隊(姫路) 歩兵第139聯隊
歩兵第140聯隊(鳥取) 歩兵第163聯隊
歩兵第163聯隊(松江)
昭17/04/16歩兵第140聯隊は
命第七十一師團(旭川)へ
聯隊補充區も
鳥取から旭川へ
第百十六師團(京都) 昭13/05/15創設 嵐第116師團(京都) 第116歩兵團
歩兵第109聯隊(京都) 歩兵第109聯隊
歩兵第120聯隊(福知山) 歩兵第120聯隊
歩兵第133聯隊(津) 歩兵第133聯隊
歩兵第138聯隊(奈良)
歩兵第138聯隊は歩兵第二十六旅團から
昭18/03/22烈第三十一聯隊(甲府)へ

留守第六師團(熊本)を母胎に編成された 第百六師團は 師團・旅團・各聯隊ともに 100 を冠する命名で、下級將校、兵員の大部分は豫備・後備役の 現職教員、警官、鐵道員、商人等々、市井人からの緊急召集である。 昭13/05/15編成發令、05/27動員完了、06/04門司港出航、06/06上海上陸。 なんとも慌ただしい出動である。

各地で小戰闘を交へながら長江沿に遡行、暫く近辺の警備任務に就き 炎熱の八月 第十一軍隷下 武漢三鎭攻略戰に参戰。 

戰史叢書<89>に依ると 戰闘開始直後の8月9日 迄の上級將校の死傷者は次の通り(P-133);
113i 聯隊長 田中聖道大佐 13・08・06 戰死
113i 第二大隊長 田尻繁雄少佐 13・07・30 戰死
145i 聯隊長 市川洋造中佐 13・08・09 負傷
145i 聯隊副官 本山武雄少佐 13・08・09 負傷
145i 第一大隊長 萩尾佐藏少佐 13・08・09 負傷
145i 第二大隊長 福島橘馬少佐 13・07・09 戰死
145i 第三大隊長 内海暢生少佐 13・08・09 戰死
147i 第三大隊長 谷 實少佐 13・07・27 重傷
各聯隊の中・小隊長は 約半数が死傷 とある。
まさに ファルケンハウゼン中將の指示通り、「將校・指揮官」が集中的に狙い撃ちされたものだと考へられる。
翌年、ノモンハンでも 蘇蒙軍は 盛んに狙撃兵を繰り出し、將校・指揮官を狙い撃ちしてゐる。
斯かる戰術手段を体質的に嫌う帝國陸軍は 「狙撃銃」もなく 有効な手だてを持たなかった。

十月、九江から徳安へ。 途中 雷鳴鼓劉なる寒村に優勢な國民政府軍に師團四個聯隊が包囲されて孤立。 マラリヤ・コレラ、飢餓、彈薬缺乏の中補給は僅かに空中からの医薬品投下のみ。 あわや「師團全滅」寸前に救援に差し向けられた現役師團の第二十七師團、第十七師團に 辛うじて救出される。
しかし 死屍累々、あまりの悲惨さに第十一軍司令部は救援部隊に対し「・・・兵員ハ戰塲内ニ進ムルコトナク、志氣上悪影響ヲ蒙ラシメザルコトニ関シ、特ニ御配慮アリ度・・」と電令して惨状現塲への立ち入りをさせなかった程であると謂はれる。

悲運・悲劇の第百六師團は 第百一師團同様、内地歸還の後 解隊。 復活編成されることなく、師團番號は永久缺番となる。

(初掲 2006/11/03 菊香ル佳日 明治節。)

追 記;

アレキサンダー・フォン・ファルケンハウゼン陸軍中將、駐支ちゅうし獨逸ドイツ軍事顧問團長

Ernst Alexander Alfred Herrmann von Falkenhausen, General der Infanterie
1878(明治十一)年 シレジア(Schlesien、後ポーランド領)の名家に誕生。 第一次世界大戰直前まで在京獨逸ドイツ陸軍武官を勤める。 第一次世界大戰中はオスマン・トルコ軍に従軍。 1927(昭和二)年 ドレスデン(Dresden)歩兵學校長。 1930(昭和五)年 豫備役編入後 蔣介石の軍事顧問として渡支。 蔣介石の基本戰略である 「 大敵則退 小敵則戰 」 に大きな影響を与える。
1938(昭和十三)年5月 現役復歸のため歸國。 西部戰線の歩兵團長を勤める。 1940(昭和十五)年 駐ベルギー軍政長官。 1944(昭和十九)年7月 ヒットラー暗殺計畫に聯座してゲシュタポに逮捕、聯合軍に救出されるまで収容所を轉々。

戰後 ベルギーに送られてユダヤ人ならびにベルギー人虐殺の罪科で 重労働十二年の判決をうけるも、三週間で釋放。
より多くのユダヤ人ベルギー人の命を救う努力が判明したからである。

1950(昭和二十五)年 七十二歳の誕生日に「眞の支那の友人へ」と謂う添へ書きとともに「百萬弗ひゃくまんドル」の小切手が蔣介石總統から贈られたと謂う。
1966(昭和四十一)年7月31日獨逸ナッソウ(Nassau)で逝去。享年八十七歳。

主要参考ならびに引用出典;

「日中戰争」 VOL3/1937-1945 兒島 襄 文藝春秋社 昭和五九年
「郷土部隊奮戰史」 平松鷹史 大分合同新聞社 昭和58年 再販
戰史叢書「支那事變陸軍作戰」<1> 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和五十年
戰史叢書「支那事變陸軍作戰」<2> 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和五十一年
「陸軍師團総覧」 近現代史編纂會編 新人物往来社 二○○○年
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