「將軍は なぜ殺されたか」 濠洲戰犯・西村琢磨中將の悲劇
イアン・ウオード 鈴木正徳 譯  原書房
    Snaring the other Tiger by Ian Ward
 
原題の「SNARING」とは獲物を罠に掛けることであり、「THE OTHER TIGER」とは 一匹目の山下奉文に対し 二匹目の虎と謂う事であろう。
私が 近衛師團長 西村琢磨陸軍中將の事に関心を持つようになったのは 太田尚樹「死は易きことなり」が切っ掛けである。
 
序列筆頭師團長である近衛師團長でありながら、軍司令官に昇進することなく、スマトラ作戰終了後の昭和十七年四月二十日には 閑職である兵器本部付に補せられ 七月十五日には豫備役に編入されてゐる。 ちなみに後任の近衛師團長は 陸軍省軍務局長から轉出した 武藤 章中將(士候二十五期、陸大三十二期恩賜)である。
 
私の最大の疑問は、新嘉坡シンガポール占領直後に起きた 所謂「昭南華僑大檢證」(華人大粛清事件)の戰後の英軍軍事裁判で極刑を免れながら(昭和二十二(1942)年四月三日判決)、何の訴因で再起訴され、すでに米、英、蘭、佛関係の戰争犯罪軍事裁判がすべて終結して久しい、昭和二十六(1951)年六月、南冥の孤島、マヌス島で處刑されたのか?
この本は その総ての疑問に答へて呉れる。
 
訴因は 昭和十七年一月二十二日ジョホール洲バリットスロンで、濠洲兵捕虜百十人と三十五人から四十人の印度兵が射殺され、生きながら石油を掛けられて虐殺された事件。
この場合、下級將兵が引き起こした事件に對する 所謂「指揮官責任」ではなくて、師團長自身が「虐殺を命令した」と謂う嫌疑。
常識的には師團長が捕虜の虐殺を命ずる事などあり得ない筈だが、日本側の公式戰史である戰史叢書「マレー進攻作戰」から、マレー半島戰中の最大の激戰として記録される その前後の近衛師團の動きを追ってみる。
 
近衛師團(DG)は 3Gi, 4Gi 5Gi の三個歩兵聯隊、歩兵團編成の師團で、駐屯地南部佛印ふついんから泰國盤谷バンコックを經由して陸路馬來マレー戰線に参入。 先ず4Giが十二月二十六日第一線に進出、しかし 當初は 歴戰の勇猛師團 鯉第五師團長指揮下の後衛であり、本格的戰闘は一月十五日に5Giが第一線に進出してからと謂う事になる。
第五師團(5D)がゲマスから半島中央道を、岩畔いわくろ追撃隊(5Gi)が西岸道を、國司くにし追撃隊(4Gi)が西海岸道を舟艇機動で南下。
 
近衛歩兵第四聯隊  聯隊長  國司憲太郎大佐(士候二十四期)
    第一大隊  大隊長  岡  春雄中佐
    第二大隊  大隊長  伊藤 光治少佐
    第三大隊  大隊長  吉田  勝中佐
 
近衛歩兵第五聯隊  聯隊長  岩畔 豪雄ひでお大佐(士候三十期、陸大三十八期)
    第一大隊  大隊長  山本 隼人少佐
    第二大隊  大隊長  兒島 義徳中佐
    第三大隊  大隊長  大柿 正一少佐
 
十七日、第三戰車團の一部である戰車第六聯隊第二中隊、戰車第十四聯隊第三中隊を國司追撃隊に配属して ムアルからバクリを經由してバリットスロン道を急進する事になる。
バクリ付近に展開する敵は、獨立印度第四十五旅團、印度第十一師團捜索第三聯隊、濠洲第八師團の野砲兵第十五聯隊の一個中隊、同速射砲第四聯隊の一個中隊、総兵力約三、○○○だったとある。
 
戰史叢書から引用;
「國司追撃隊の前衛の伊藤大隊は、十八日早朝バクリ西方からの南側高地にわたり陣地を占領している砲数門を有する約一、○○○の英軍と衝突し、ただちに攻撃を開始した。
敵の陣地は各所に掩蓋機関銃座を持ち、抵抗は頑強で伊藤大隊の攻撃は進展しない。
一方、岩畔追撃隊は、十八日夕刻バクリ付近に達し、直ちに兒島義徳中佐率いる第二大隊を伊藤大隊の左翼に展開してその戰闘に加入させた。
これよりさき、岩畔大佐は第三大隊をして海岸道を迂回してバクリ東方約六粁に進出、バクリ付近の英軍の退路を遮断する任務をもって前進させていた。 大柿大隊は二十日未明バクリ東方約五粁に進出、主力をもって東方に迂回し、午前十時頃バクリ・バリットスロン道両側高地を占領して完全に敵の退路を遮断した。」
 
「この間 正面から攻撃中の伊藤、兒島両大隊主力の攻撃は、激しい抵抗に阻止されて進展を見ず、十九日、二十日の両日も攻撃を續行した。 二十日夕刻ころから大柿大隊による退路遮断の効果が現れ始め、次第に敵を圧迫しつつ夜を徹して敵陣地を攻撃し、ついに敵を敗走させた。」
この戰闘で、第三大隊長 大柿正一少佐は二十日戰死、大隊の戰死者は二二六名、戰傷一○六名、實に大隊戰力の六割を失った事になる。
また、十九日夜半、戰車第十四聯隊第三中隊(九五式輕戰車ハ號九両)は道路上の障害物に阻止されたところを對戰車砲の集中砲火を浴びて全滅、中隊長 五反田重雄中尉(士候五十二期)も戰死すると謂う壮烈なものがあった。
因みに、新嘉坡陥落と同時に 第二十五軍司令官は 大柿大隊ならびに五反田戰車中隊の勇戰を賞し それぞれに「感状」を授與してゐる。
 
4Gi-1b(岡 大隊)はマラッカから海上機動により、主力から南東に遠く離れたパトパパ南東にあり。 4Gi-2b(伊藤大隊)はバクリ前面の敵陣深くに取り残され、4Gi-3b(吉田大隊)をバリットスロン東側、5Gi-1b(山本大隊)その更に南東方に、5Gi-2b(兒島大隊)をバクリ北側を迂回させてバリットスロン正面に配置。 この時期、3Gi(聯隊長 生沼おいぬま吉郎大佐)は依然 駐屯地の西貢サイゴンにあり、その内3Gi-3b(大隊長 中島正清中佐)のみが GB司令部(歩兵團長 小林 隆少將)と共に陸路馬來に向かうところであった。
文字通り 近衛師團の手持ち全兵力を投入してのバクリ・バリットスロン包囲網、退路遮断が完了したことになる。
バクリから退却を始めた英機械化部隊は、二十一日 バリットスロン橋梁付近で吉田大隊の猛攻を受けて壊亂状態に陥り、兒島大隊との挟撃、師團砲兵(十五糎榴彈砲一小隊)ならびに第三飛行集團(集團長 菅原道大みちなお中將 士候二十一期、陸大三十一期,隷下 四個飛行團)第三飛行團(飛行團長 遠藤三郎少將、士候二十六期、陸大三十四期恩賜)(戰闘一個戰隊、輕爆三個戰隊、司令部偵察機一個中隊)の援護により翌二十二日 戰闘は最高潮に達し、旅團長H.C.ダンカン准將戰死、獨立印度第四十五旅團は壊滅した。
 
該書の記述を引用して 英國側からこの戰闘を見てみよう。
 
獨立印度第四十五旅團(一月三日印度より新嘉坡へ到着)旅團長ダンカン准將(戰死)
第六ラジュプト聯隊第七大隊
第十八ガワール聯隊第五大隊
第十九ジャネット聯隊第四大隊
濠第十五野砲兵聯隊第六十五砲兵中隊 中隊長 W・Wジュリアス少佐(戰死)
濠洲第八師團
第十九大隊 大隊長 チャールス・G・Wアンダーソン中佐
第二十九大隊 大隊長 J・Cロバートソン中佐(戰死)
第四對戰車砲聯隊
 
濠洲8D-29bが 第四對戰車砲聯隊とともにバクリ西2.5粁ムアルへ通じる道路に布陣したのが十七日。 8D-19bは翌十八日到着してバクリに布陣。戰闘が始まったのは十九日朝で、すさまじい白兵戰であったと謂う。相手は4Gi-2b伊藤大隊であろう。 銃剣と手榴彈で たちまち百四十人の日本兵を倒し、損害は戰死十人負傷十五人だったとある。
十九日午前十時、日本機の爆撃は獨立印度第四十五旅團司令部を直撃、旅團長は重傷を負い、指揮を8D-19b 大隊長アンダーソン中佐が引き継ぐ。
この夜半、五反田戰車隊を全滅させたのは、第四對戰車砲聯隊であろう。
ところが ここで問題が起こる。  一旦 死んだと思はれた日本兵が 突然立ち上がり手榴彈を投げ、負傷兵は最後に狂ったように突撃を仕掛けてくる。 守勢にある濠洲軍としては捕虜をとれる状況になゐ。
「捕虜をとるな、負傷兵を残すな」
「何回かの白兵戰があり、動く敵、あるいは動かなくても、銃剣で刺すかとどめを撃った。敵の誰も生きて逃げる事はできず、推定ではこの交戰で約三百人の日本兵が死んだ。」
「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」というのが指揮官アンダーソン中佐の命令であったかどうかは確認できないまでも、「西部軍がヨンペンを抜けて撤退するまでの時間稼ぎの間、彼等にとって生き残るためには それ以外の選擇肢はなかったのだ。」
 
バクリからの撤退命令で、前衛がバリットスロンに向けて出發したのが一月二十日午前七時。 バクリから一時間すると、激しい戰闘に遭遇したと謂う。 大柿正一少佐を戰死させた5Gi-3b との戰闘であろう。 そして、戰闘は二十一日、二十二日と續くことになる。
 
戰史叢書による一月十七日から二十二日の間 近衛師團の戰果ならびに損害は;
戰果 捕虜 三九八
損害  戰死 三四八 戰傷 二五三
とあるから 戰死者の三分の二は大柿大隊と謂うことになる。
英軍戰死者數の記載がないが、それにしても、三、○○○人いたはずの一個旅團の兵士が僅か四○○人以下の捕虜とは、日本側にも「捕虜をとるな」の風氣があって、完全包囲、殲滅したと謂う事であろうか?
 
法廷に提出された近衛歩兵第五聯隊兒島大隊將校の「署名のない、宣誓もしてゐない」供述書によると、「バクリを占領した翌日(一月二十一日)の朝六時ごろ、第五聯隊第二大隊はバリットスロンへ續く道路を前進した。 第二大隊長兒島義徳中佐の命令で、私は約十人の將兵とともにバクリに残った。 目的はここでの戰闘で死亡した兵士を埋葬し、負傷兵、行方不明者を捜すことだった。」 そして そこで虐殺とも謂へる戰友の惨殺死體を目にした事であろう。
この中尉が戰塲掃除を終へてバリットスロンに着いたのが二十二日午後。 大隊長に報告を了へると、オーストラリア人とインド人捕虜の責任者に任命されたと謂う。
そして午後四時三十分、大隊副官から「將軍の命令だ。 捕虜を處刑しろ」と命じられたと謂う。 近衛師團には「將軍」はただ一人、師團長だけである。
 
西村琢磨陸軍中將は 明治二十二年九月十五日 福岡縣生まれ。 熊本陸軍幼年學校、中央幼年學校を經て陸軍士官學校第二十二期。 第二十五軍隷下の三人の師團長、松井太久郎(廣島 鯉)第五師團長、牟田口廉也(久留米 菊)第十八師團長は同期である。
砲兵科の出身で陸軍大學校第三十二期。 軍務局勤務が永く、昭和八年五月、 砲兵中佐の時、第一師團特設軍法會議判士長(五・一五事件)を勤める。
昭和十一年八月 野戰重砲兵第九聯隊長、昭和十三年三月 野戰重砲兵第一旅團長、昭和十四年三月 東部防衛参謀長、昭和十五年九月 印度支那派遣軍司令官、昭和十五年十二月二日 任 陸軍中將、昭和十六年六月二十四日 獨立混成第二十一旅團長、昭和十六年六月二十八日 近衛師團長。
豫備役編入後、昭和十八年六月 緬甸ビルマシャン洲政廳長官、昭和十九年二月 蘭印らんいん蘇門答刺スマトラ洲知事。
昭和十八年六月に日本を離れて以降、一度も祖國の土を踏む事はなかったと謂う。
 
著者は原著を上梓するにあたり終章を付け加へるために 中將のご長男夫妻を町田市のご自宅に訪ねてゐる。
面談に際し 西村 誠教授がつけた條件は「この著作の日本での信用のために 終章以外のいかなる部分に對しても影響をあたへない。」事で、著者も「日本以外での信用のために」喜んでこの取り決めに同意したと、「はじめに」にある。
原著が濠洲で出版されたのが1996(平成八)年。 原 書房がこの時期 日本語譯を出版したのは 故中將五十五回忌とその部下戰歿英霊への鎭魂のためであろうか。 
 
(2005/05/01 初稿)
 
引用出典;
 
「將軍はなぜ殺されたか。」 イアン・ウオード 鈴木正徳 譯 原書房 2005年3月
戰史叢書「マレー進攻作戰」 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十一年八月
陸海軍將官人事総覧(陸軍編) 芙蓉書房 1993年11月
陸軍師團総覧 近現代史編纂會・編 新人物往來社 二○○○年十一月 
「戰車研究室」
 
  



inserted by FC2 system