「海軍兵學校」、名稱の由來と その謂ひについて。
 
NHK「おはよう日本」で在ニューヨーク北米総局 中島将誉記者が「アナポリス海軍士官學校」と喋り ご丁寧にもテロップで流してゐたのを視て仰天させられた。 早速メールで指摘したが 反應がなかった所をみると確信犯だったのかも知れない。
 
黒潮會の名海軍記者 伊藤正徳氏の衣鉢を嗣ぐS紙の昨年十一月二十四日付け読者と紙面を繋ぐ「双方向プラザ」欄に「日本の海軍兵學校は兵科士官の養成校だから兵學校、米國のそれは海軍士官學校だ」との同紙編集部の珍説が掲載されて文字通り度肝を抜かれた。
 
The United States Naval Academy, Annapolis, MD. U.S.A.は「アナポリス海軍兵學校」と呼び慣はされて來てをり 瓜生外吉(後 海軍大將)(*)を始めとして同校の卒業生の経歴に一般的に同呼称が使はれてゐる。 
因みに米國議会決議により明治二(1869)年に 先ず 松村淳蔵(後 海軍中將)(**)が入学を許され、以後入学者十四名 卒業生七名を数へたが 1906年に入校が禁止となる。 理由は日本海海戰に勝利し日露媾和条約締結により日本が仮想敵国となったためだったと考へられる。
 
秋山眞之の研究者として著名な東京大學教授でありパリ大學客員教授でもあった 島田謹二博士は The United States Naval Academyに「合衆國海軍兵學校」の譯を充て その著書「アメリカにおける秋山眞之」の中では「アナポリスの兵學校」の表現を使ってをられる。
 
「陸海軍將官人事総覧」(芙蓉書房 1981年)「日本陸海軍総合事典」(東京大學出版會 1991年)「日本海軍指揮官総覧」(新人物往來社 1995年)等 権威ある出版物はいずれも「アナポリス海軍兵學校」で統一されてをり その呼称の正当性、妥当性に疑問を唱へる余地はない。
 
S紙が もう一つの裏付だと主張する海軍兵學校の命名根拠を兵科士官の養成機関であるからとする点に就いては、大正八年十月刊 海軍兵學校編「海軍兵學校沿革」に「明治九年七月八日 海軍兵學校事務章程制定 舊兵學寮ニ海軍兵學校ヲ設置セラル 改稱ノ意ナリ」と明記されてをり「海軍兵學校」の名稱が「海軍兵學寮」からの改稱であって兵科士官の養成機関と謂う事に由來するものではない事がはっきりしてゐる。 事実 明治二十六年までの或る時期 海軍機関學校は海軍兵學校に吸収されてをり その間 海軍兵學校が機関科士官の養成機関をも兼ねてゐたわけである。 更には大正九年には特務士官の養成を目的として選修科制度が併設されて昭和十九年に採用が中止されるまで存続してゐる。

慥かに大正七年八月に「海軍兵學校令」が制定されて「兵科士官」は「海軍兵學校」出身者に限定される事が明文化されたわけであるが、大東亞戰争開戰前後から所謂「一系問題」が喧しくなり 昭和十七年十一月一日「機関科士官」制度が廃止となり兵科一本に統合されたため最終的には「海軍機関學校」は廢止されて昭和十九年九月九日付で「海軍兵學校舞鶴分校」に改稱されてゐる。
以上により「兵科士官の養成學校だから海軍兵學校、それ以外は海軍士官學校」と謂う論拠には妥当性がない。
 
お隣の国ではR.O.K. Naval Academyの正式名称を「韓国海軍士官学校」と規定してゐるが 「陸士海兵」と謂う言葉の定着してゐる日本で それに影響されて傳統ある「海軍兵學校」の呼稱を變更する謂はれはない。

因みに 江田島、アナポリスとともに「三大兵學校」と並び称されるThe Britannia Royal Naval College (Dartmouth, U.K.) は「聯合王國王立海軍大學校」の正式名稱に代へて傳統的に「ダートマス海軍兵學校」と通稱されてゐる。 これは「グリーンウイッチ海軍兵學校」(Royal Naval College, Greenwich, U.K.)と區別するための意味もある。
 
最近のメディア用語は 例えば「太平洋軍司令官」(CinC, the Head of the United States Pacific Command)とか「太平洋艦隊司令官」(Commander in Chief, the United States Pacific Fleet)だとか 甚だしきは「グリーンヴィル副艦長」(U.S.S. Greeneville's executive officer)だとか、乱れに乱れてゐる。 THE JAPAN TIMESがいつも律儀にfull spellingだし TBS佐古忠彦キャスターが「太平洋軍 軍司令官」とはっきり発音してゐたのが印象的だ。 邦字紙では讀賣新聞だけが「太平洋軍総司令官」、「太平洋艦隊司令長官」、「グリーンヴィル副長」と正確に報道してゐたのが際立ってゐる。
 

(*)  瓜生外吉海軍大將 安政四(1857)年生まれ、加賀大聖寺藩士族 石川縣出身、明治五年 海軍兵學寮入學、明治十(1877)年九月アナポリス海軍兵學校入學、明治十四年六月 卒業成績 26番で卒業、The class of 1881。 日露戰争には第四戰隊司令官として活躍。 後 男爵 昭和十二(1937)年歿。

(**)  村松淳蔵海軍中將 薩摩島津藩奥小姓。 慶應元年三月、市來勘十郎の変名で薩摩藩から英國留学生十九名の一員として渡英。 しかし 徳川幕府からの抗議で就学は許されず、慶應三年米國へ渡り アナポリス入学の機会をうかがう。 明治二年 フルベッキ(Guido Fridolin Herman Verbeck)等の尽力で米國議会の承認が得られ入学が許可された。 The class of 1873 米合衆國海軍少尉候補生として歐洲巡航の後、明治六年十一月帰朝。 即日海軍中佐に任じられ兵學寮教官に補される。 明治九年八月から四度に亘って海軍兵學校校長を務める。 総て英國海軍を手本にしてきた帝國海軍で 兵學校の随所に米國式が色濃いのは そのせいであらう。 男爵。 大正八年一月七日歿。

オランダ系宣教師で東京帝國大學の前身、開成學校、大學南校教頭等を勤めたフルベッキは 日本でのその葬儀に近衛兵が柩を担ぎ国葬の規模で執り行われたと謂う。 更に後日談があり 代々軍人の家系で家伝で日本語を解し、孫(長崎生まれの長男WilliamとKatherin Jordanの三男として1904年Syracuse, N.Y.にて誕生)のヴァーベック大佐 (Colonel William Jordan Verbeck)はウエスト・ポイントを卒業 (Class of 1927 USMA)。米第二十四師團歩兵第二十一聯隊長としてレイテ・リモン峠で第一師團と激戰を交える。(後 第二十四歩兵師團参謀長) 戰後、朝鮮戰争参戰で來日したおり、敵將 片岡 董(ただす)第一師團長(士候二十七期、騎兵科、陸大三十七期、兵庫縣出身、東大政治学科卒、昭和三十八年歿)を訪ね 陸軍中將の禮を執って その善戰を讃えたと謂う。(2004/03/03注記改)

 
主要参考ならびに引用文献;

海軍兵學校編「海軍兵學校沿革」 大正八年刊 昭和四十三年 原書房復刻
「アメリカにおける秋山眞之」 島田 謹二 朝日新聞社 1969年
「ロシヤ戰争前夜の秋山眞之」 島田 謹二 朝日新聞社 1990年
「陸海軍將官人事総覧」 芙蓉書房 1981年
「日本陸海軍総合事典」 東京大學出版會 1991年
「日本海軍指揮官総覧」 新人物往來社 1995年
「海軍創設史」 イギリス軍事顧問団の影  篠原 宏  リブロポート 1986年
「レイテ戰記」  大岡 昇平  中央公論社  昭和四十六年 

2003/01/12 掲載 2003/02/05 改

 

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