海軍大學校甲種第三十九期卒業記念寫眞

海軍大學校最後のクラスとなった 甲種第三十九期は 昭和十九年三月四日の卒業を俟たずに順次 前線配置となる。
學校長 吉田善吾大將(兵32) 教頭 白石萬隆少將(兵42) 戰術教官 大前敏一大佐(兵50)
首席 吉岡忠一少佐、次席 小牧一郎少佐(小牧少佐は聯合艦隊航空乙參謀として三月三十一日海軍乙事件で殉職)
編者 石黒 進少佐は三月十五日付で 第一機動艦隊通信參謀を拝命、「あ」號作戰に従事。
因みに司令長官は小澤治三郎中將であり 戰術教官 大前敏一大佐が首席參謀となる。
三列目右から四番目 石黒 進少佐
Lt.Commander Susumu Ishiguro 4th from right at third row.
Commencement at Naval College on March 4th, 1944.

「海軍作戰通信史」に係はる私のコメント;

機動部隊(第一航空艦隊基幹 1AF)に於ける無線封止について。

機動部隊の無線封止は完全かつ確実に実行されていた事が記録されている。  スティネット氏が主張する「・・・南雲が最もお喋りだった。 米海軍無線監視局で傍受した日本海軍電報のうち、半分近くが南雲から発信されたものであった。・・・」と謂う六十通の電報(P-363)というものが 全く根拠のない妄想(baseless hallucination)であることがはっきりする。
更には「十一月二十六日午前六時、單冠灣から出撃する際、彼は中部太平洋司令官(原文 Japan's Central Pacific commander)及び潜水艦隊司令官(原文 the submarine force commander)と長々と繰り返し(原文 extensive radio exchanges)、無線交信を行った。」(P-290)と謂う記述も 全く根拠を欠くものであると断言出来る。
スティネット氏の主張するところは 所詮帝國海軍の厳正なる軍規を愚弄嘲笑するもので笑止千万の極みである。


擬電(僞瞞通信)について。

従来一部戰記では赤城の電信員の一部を内海に残置して僞瞞通信を行ったとの記述が見えるが、実際にはそこまで手の込んだものではなくて1AFの飛行機隊が引き続き九州南部の飛行場で訓練続行中である事を装ったものであった事が判る。
太平洋艦隊情報部のロシュフォート少佐は眞珠灣攻撃中に赤城が発した電信をレシーバーで捉え「攻撃隊の旗艦は赤城」である事を太平洋艦隊司令部に電話で報告して來てゐる。 「どうして赤城だと判った?」との情報參謀の質問に"It's the same ham-fisted radio operator who uses his transmitting key as if he is kicking it with his foot"(電信員は あの乱暴に足で電鍵を叩くようないつもの奴だから)と答へてゐる。
熟練者になるとオシログラフによる鍵紋解析をしなくても 恰もレコードを聴きながらピアノの演奏者が誰であるかを言い当てる様に モールスの打鍵者を聞き分けと謂う。


單冠灣在泊時の出電について。

本書では「右期間艦隊ヨリ發スル通信ハ総テ大湊ニ空輸大湊通信隊ヨリ處理セシメル如クニシタ」と明確に記述してゐる。
従来 この点が不明で、一部では択捉島紗那郵便局からの海底電線を使用したのではないかとの説もあったが これにて事態は明確になった。 大湊航空隊からは三座水上偵察機二機が派遣されて東方海上250浬哨戒を實施してゐたと記録にあるので、この水偵を使ったか、或いは 必要に應じて艦載機を使用したものと思われる。


戰闘機の洋上航法と無線電話について。

二座の艦爆、三座の艦攻は問題ないとして、艦戰については帰投時の航法を「艦戰ハ「クルシー」歸投法トシ長波輻射擔任艦を「蒼龍」トス」と規定している。
「クルシー」とは「クルシー式空三號無線歸投方位測定器」の事で眞珠灣で撃墜された零戰にはFairchild社のlogoをつけたままの米國製RDFが搭載されてゐた。 「クルシー」とは発明者のMr. Geoffrey Kruesi, Dayton-Ohioにちなんで付けられた名称である。 1AFに配属された零式艦上戰闘機二十一型(A6M2)に対しては優先的に優秀な機材が配備されてゐたが 形だけ真似て国産化された「一式空三號無線歸投方位測定器」(東京電氣(株)製)は性能が必ずしも満足のいくものではなく零戰パイロットからは「苦しい」の蔑称も奉られてゐた。 長波輻射担任艦を蒼龍としたのは石黒 進少佐が通信參謀として乗艦していたためであらう。 制空隊の通信統制艦を第二航空戰隊旗艦(蒼龍)としたのも同じ理由によるものと思はれる。

單座艦上戰闘機ではモールスの使用は非常に困難であるが 当時の無線電話の性能限界(公称100KM、実用限界80KM)から短波無線機を使用せざるを得ず 訓練と用法工夫により困難を克服し 出撃直前の最後の綜合演習で やっと確信を得たとの記述が注目される。 
零戰二十一型に搭載されてゐた無線電話機は「九六式空一號無線電話機」(明和電氣製)で 送信機、受信機、電源装置の総重量は約20kg.。 電話/電信(変調)両機能を備へていたが 電話としては10 watts、電信では30 watts、但し周波数帯は3800-5800KCである。
制空隊/甲種戰闘機短波(4595KC) 上空直衛/丙種(特定)戰闘機短波(4430KC)の受発信は可能であるが、指揮官機は、攻撃終了まで甲種短波(7635KC)、攻撃終了後帰投時は全機丙種短波(6580KC)と謂う條件を満たすためには 制空/直衛全機 九六式空二號無線電信機(出力100 watts)に換装したものと思われる。  

追記 (2003/07/01)
ハワイ在住のデイビッド・アイケン氏から 眞珠灣で撃墜された艦上機の設定周波数について以下連絡がありました。

AII-356 常用 7635 KCs 458 KCs 補用 7345 KCs 6580 KCs
D3A   常用 7635 KCs 補用 7345 KCs 6580 KCs 458 KCs
AI-154 常用 4595 KCs 補用設定なし
AII-356 は加賀艦上攻撃機で 出撃26機中未帰還は第一次攻撃隊の雷撃機5機のみ。 AII-356が士官搭乗機なら鈴木三守大尉機と謂う事になる。  D3Aは九九式艦上爆撃機で総出撃機数129機、未帰還15機。
AI-154 は赤城艦上戰闘機で 未帰還は1機のみであり 平野 崟一等飛行兵曹機であると特定出來る。

再追記(2003/07/02)
AII-356 は鈴木三守(スズキ・ミモリ)大尉機であるが英文説明にあったB5N1即ち九気筒光三型搭載機ではなくて十四気筒榮十一型搭載の九七式艦上攻撃機三型B5N2である旨ご指摘がありました。
又 D3Aに就いては加賀第二中隊二十四小隊三番機 坂口 登三等飛行兵曹機であるとの事です。 同機より回収された救命胴衣から爆撃手朝日長章三等飛行兵曹が確認され 坂口機と特定されたものです。

Post Script (July 1, 2003) Mr. David Aiken of Hawaii contributed the following information of the radio frequency;
AII-356 B5N1 Kate torpedo-bomber aboard CV Kaga; 7635KHz and 458KHz, spare 7345KHz and 6580KHz
D3A Val dive-bomber; 7635KHz, spare 7345KHz, 6580KHz and 458KHz
AI-154 A6M2 Zero fighter aboard CV Akagi (Warrant Officer Takashi Hirano) 4595KHz, no spare

Additional Post Script of Mr. David Aiken from Texas; (July 2, 2003)

Aloha from Texas, Richard,
AII-356 was a B5N2with 14 engine cylinders [not B5N1 with 9 cylinders]...the crew was:

Pilot: First Lieutenant Mimori Suzuki; Observer: Hiko Heisocho Tsuneki Morita; Radioman/gunner Nito Hiko Heiso Yoshiharu Machimoto

The D3A had no vertical tail...thus we do not know the tail marking:

The plane had "AII" markings on equipment inside thus the plane came from Kaga. A Nisei in Hawaii was involved in the attempted capture of a crewman from the crash, who committed suicide by drowning. The Nisei recovered the kapok lifevest with "Asahi"...thus the crew was:

Pilot: Santo HH Noboru Sakaguchi; Radio/gunner: Santo HH Nagaaki Asahi
Thank you for posting this information,

Gordon Prange教授の"At Dawn We Slept"によれば 眞珠灣攻撃以前に帝國海軍は100浬以上の制空経験はなくて、昭和十六年八月、淵田中佐と同期(兵52)の第二航空戰隊航空參謀 鈴木榮二郎中佐から 石黒 進少佐に密かに相談があり 艦隊全戰闘機通信に関し石黒少佐が責任者となって対策を講じる事になったたとある。(P-200)

又、艦隊の無線封止についても、七月の南部佛印進駐の際 艦隊の行動が香港の英諜報部に筒抜けになってゐた事実に鑑みて その必要性が通信/情報參謀である 石黒少佐から強く進言された事が記載されてゐる。(P-166)

Public Proprietary

攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐機より旗艦赤城に宛てて発信された「我レ奇襲ニ成功セリ○三二二」の電文。
周波数7635KCは攻撃機隊甲種短波。 因みに蒼龍の統制下にあった制空隊は甲種戰闘機短波4595KC、赤城の統制下の上空直衛機は丙種戰闘機短波4430Kcと それぞれ使い分けてをり、攻撃戰果報告後は 丙種短波6580KCに切替へる事になってゐた。

機動部隊の中で最初に無線封止を破ったのは巡洋艦筑摩から飛び立った艦載偵察機で○三○五 眞珠灣在泊艦についての先行偵察情報を甲種短波で発信している。 時系列的に並べると以下の通り;(何れも日本時間十二月八日)

0305 筑摩機 眞珠灣先行偵察情報
0308 筑摩機 眞珠灣気象情報
0309 利根機 ラハイナ泊地先行偵察情報
0315 淵田機 「攻撃突撃準備隊形制レ」
0319 淵田機 「全軍突撃セヨ」(トトト・・・)
0322 淵田機 「我レ奇襲ニ成功セリ」(トラ・トラ・トラ)

淵田隊長が「攻撃突撃準備隊形制(つく)レ」を令したのは雲の切れ間からオワフ島北端カフク岬の海岸線を確認した時であり、一分後、カフク岬上空で信号拳銃で「奇襲隊形展開」を下令。 「ト連送」がワイアルア上空、「トラ・トラ・トラ」がバーバース岬上空から眞珠灣内の動静を確認した時である。
翔鶴飛行隊長 高橋赫一少佐がフォード島ホイラー飛行場に250kg第一彈を投下したのが○三二五。
その一分後 戰艦繋留列に向かって低空飛行中の赤城飛行隊長 村田重治少佐が「テ」を令して九一式改浅海魚雷を発射。  ○三二五は布哇時間十二月七日午前七時五十五分である。 攻撃開始が予定より五分早まった事になる。

ところでこの有名な「トラ・トラ・トラ」電は 淵田機からのト連送を受信した赤城がホノルル放送の動静等から奇襲成功間違なしと判断して○三二○ 2670KCで東京通信隊宛発信し、淵田機からの○三二二を転電する形で○三三○にも発信されてゐる。 即ち「トラ・トラ・トラ」電は合計三本発信された事になる。 また微弱電波(九六式空三號無線電信機 150 watts)であった筈の淵田機発信電は「トトト・・・」も「トラ・トラ・トラ0322」もいずれも瀬戸内海柱島の聯合艦隊旗艦長門で直接受信されている。 恐らく霞ヶ関の海軍省構内にあった東京通信隊の受信専用アンテナか、呉市焼山の呉通信隊のアンテナに有線で接続してゐたものではないかと推測するが今となっては確認の術はない。

主要参考ならびに引用出典
「海軍作戰通信史」 石黒 進 編  警察豫備隊 昭和二十八年 電氣通信大學歴史資料館蔵
「戰藻録」 宇垣 纏 原書房 昭和四十三年
戰史叢書「ハワイ作戰」 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十二年
「新高山登レ一二○八」 宮内寒彌 六興出版 昭和五十年
"AND I WAS THERE" RADM. Edwin T. Layton, William Morrow 1985
"AT DAWN WE SLEPT" Gordon W. Prange, McGraw-Hill 1981
横濱舊軍無線通信資料館 

(2003/06/27 掲載)



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