私説 「南京事件」 考證
 
事件の背景と經緯

昭和十二(1937)年七月七日 北京郊外永定河畔蘆溝橋付近で夜間演習中の支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊(中隊長 清水節郎陸軍大尉)に數發の銃弾が撃ち込まれる。
この時の第三大隊長が 後のガダルカナル一木支隊長 一木清直大佐、歩兵第一聯隊長が インパールの軍司令官 牟田口廉也中將(士候第二十二期)、旅團長がビルマ方面軍々司令官 河辺正三大將(士候第十九期 陸大第二十七期恩賜)である事が 後の帝國陸軍の運命を示唆し象徴してゐる。
清水大尉は豐臺の大隊本部に騎馬傳令を走らせ あくまで愼重冷静な一木少佐は軍用電話で北京の聯隊本部の牟田口大佐に指示を仰ぐ。

 牟田口聯隊長は 「軍人が敵に撃ち込まれてどうしましょうかと指示を俟つ奴があるか」 と怒鳴りつけ「第三大隊の現場急行と反撃」を命じたと謂う。
 
因みに天津に本據を置く支那駐屯軍の駐兵権は 1900(明治三十三)年の義和團の亂 議定書に基づき 日本が往時の聯合國各國と共に獲得、保持したもので當時の総兵力は 7,000。

 もともと派遣軍であったものを前年常備軍に改變、二・二六事件發端の一因となった第一師團海外派遣の一環で 帝國陸軍最精鋭の歩兵第一聯隊を中核として北京(當時 北平)郊外 豐臺に駐屯してゐたもの。
 
陸軍中央にも現地にも 積極擴大派と あくまで現地解決不擴大派とがあり 擴大派の急先鋒は陸軍省軍務局軍事課長 田中新一大佐、參謀本部第一部第三課長 武藤 章大佐であり、不擴大派は陸軍省軍務局軍務課長 柴山兼四郎大佐(支那通の良識穏健派)、參謀本部第一部長 石原莞爾少將(戰略的見地からの不擴大派)である。
 
關東軍(軍司令官植田謙吉大將、參謀長東條英機中將)は八日には早くも二個旅團基幹兵力の出動準備を軍中央に打電、決意を傳へるため參謀副長今村 均少將を天津の支那駐屯軍軍司令部へ派遣する。

 同じ關東軍軍司令部の辻 正信大尉は獨断で蘆溝橋へ驅けつけ 「徹底的に擴大して下さい。 關東軍が後押しします!」 と牟田口聯隊長を煽りたてる。

支那側にも軟硬種々の意見のあったであらう事は想像に難くない。
 
ともかく北京駐在の特務機関長 松井太久郎大佐(*)、大使館付武官補佐官 今井武夫少佐(**)等の必死の奔走で 一旦現地停戰交渉は成ったものの 朝日新聞等が率先して囃したて 日本國内は「暴支膺懲ぼうしようちょう」(暴戻ぼうれい支那膺懲)(けしからぬ支那をこらしめる)の大合唱。 

確固たる信念も定見もない近衛内閣は陸軍の横車と世論に迎合して 七月十一日には無節操にも五個師團の華北への派兵を聲明、七月末までに 北京、天津地區を占領 更に 増援兵力の到着を俟って南下作戰を開始、八月三十一日には寺内壽一大將を軍司令官に北支那方面軍を編成し 泥沼への第一歩を踏み出す。
 
二・二六事件鎭壓に絶大な力を發揮し 宇垣一成組閣を意のままに流産させてしまった石原莞爾が一旦消極姿勢を示すと途端に力を失い失脚する様は 後に武藤 章が軍務局長として絶對権力を揮いながら大東亞戰争開戰に躊躇すると 途端に力を失い更迭された經緯と照らし 一脈の通じるものを感じ取る。

 直上の上官であった石原更迭人事に主役をかった武藤は その經緯について戰後回想録の中で 「石原少將の意見は現實の必要から破れた」 とのみ簡潔に書き遺してゐる。 ともかく石原が關東軍參謀副長として新京へ去ったのちは軍中央の不驅大の聲は沈静化してしまう。
 
北支那方面軍の作戰は豫定以上の速度で進展し 當初參謀本部が追撃制令線と豫定してゐた保定の線では兵馬の勢いは止まらず 石家荘、さらには山西省へと戰線は驅大の一途をたどる。

 

一方、上海では八月九日上海特別陸戰隊第一中隊長 大山勇夫海軍中尉射殺事件が發生し一氣に緊張が昂まる。 魔都上海の名に違はず 華北東北が亂れると必ず上海に飛び火するのは 滿洲事變に呼應して第一次上海事變が勃發したのに同じ。
 
蘆溝橋の一發は戰後四十年 その眞相は全く不明であったが 文化大革命で非業の最期を遂げた 劉少奇國家主席の名誉回復のため その功績として中國共産黨が公表したもので 初めてコミンテルンの指示を受けた劉少奇一派の仕業である事が判明したが 大山中尉射殺事件については その眞相はいまだに明らかではない。
 
大河内傳七海軍少將(兵科第三十七期)揮下の上海特別陸戰隊(横須賀鎭守府第一特別陸戰隊基幹)は急遽 呉鎭守府より第二特別陸戰隊の増援を受けるが 総勢4,000名では三萬におよぶ居留民保護の任は到底おぼつかなくなる。 一方 陸戰隊の増援は國民政府側を刺激して 翁照垣率いる最精鋭六個師團を上海周辺に配置、包囲體勢を敷いて一觸即發の状態となる。
 
北支派兵にあくまでも反對を表明してゐた海軍も この事態に米内光政海軍大臣が八月十二日夜 急遽 近衛首相、杉山陸相に事態を説明、翌十三日午前九時からの臨時閣議で「自衛権の發動としての海軍の武力行使」は正式に閣議の諒解事項として政府に認められる。
 
息詰まる緊張の中で對峙してゐた日中両軍の間で戰端が開かれたのは十三日夕刻で、十四日朝には中國軍機の空爆があり 午後二時半 長谷川 清第三艦隊司令長官(兵科第三十一期)は<自衛権發動>の聲明を發表。
十五日、第一聯合航空隊(司令官 戸塚道太郎少將 兵科第三十八期)の木更津海軍航空隊(竹中龍造大佐司令 兵科第三十九期)は大村飛行塲から、鹿屋海軍航空隊(石井藝江大佐司令 兵科第三十九期)は臺北松山飛行塲から 臺風による悪天候の中それぞれ九六式陸上攻撃機による人類戰史上初の渡洋爆撃を敢行。 ここに戰火は一擧に中支に擴大する。
國民政府軍の公式戰史は日中戰争の始まりを 此の時点と認識してゐる。

この事態に八月十五日、第三(名古屋)、第十一(善通寺)師團をもって上海派遣軍の戰闘序列が發令される。
松井石根軍司令官に與へられた作戰任務は 「海軍ト協力シテ上海付近ノ敵ヲ掃滅シ上海並其北方地區ノ要線ヲ占領シ帝國臣民ヲ保護スヘシ」 であった。

 
上海における戰闘經過

八月二十三日 先遣隊は海軍艦艇で呉淞、川沙鎭に上陸、海軍陸戰隊救援に向かったが 國民政府軍は 蔣介石直属の最精鋭部隊である第十九路軍を中心にした六十萬で、歐米の最新式輕火器で武装、クリークとトーチカを縦横に利用して堅固な防衛線を敷き頑強に抵抗、大苦戰に陥る。

 國民政府軍の精鋭、勇猛ぶりは戰況視察に訪れた強氣一點張りの陸軍省軍務局 田中新一軍事課長をも舌を巻かせたほどであったと謂う。
 
九月十一日、第九(金澤)、第十三(仙臺)、第百一(東京)の三個師團を追加動員して上海戰線に投入。 各師團は高級將校を含めて定員の半数以上を損耗すると謂う大苦戰を演じながら それでも戰線は膠着して動かず。

 さらに、參謀本部作戰課長の武藤自身が華北に飛び 北支戰線から第六(熊本)、第十六(京都)の二個師團を抽出、武藤自身も上海派遣軍參謀副長として命課替へ。
 
十月二十日、第六(熊本)、第十八(久留米)、第百十四(宇都宮)師團をもって第十軍を編成。
古來 用兵の下の下とされる「兵力の逐次投入」の典型である。 民族意識に目覺めた國民政府軍の戰力を 軍閥の雑軍並に過小評價したためであらう。
 
十一月二日、第九師團が蘇州河渡河に成功、平衡が崩れる。
十一月五日 「日軍百萬杭洲灣上陸」 のアドバルーンを掲げて柳川平助中將麾下 第十軍が杭洲灣に上陸。

 包囲されることを懼れて一氣に戰線が崩壊、國民政府軍の壊亂、大壊走が始まる。
 
無傷の第十軍は敗軍を追って 野に放たれた猟犬のごとき追撃大暴走を始める。
十一月七日、第十軍を統括するため 中支那方面軍が編成される。
 
十一月十三日、第十六師團 白茆江に上陸。
無傷で且つ 北支戰線で戰闘經驗のある第十六師團は 退却の國民政府軍を追って、第十軍隷下で杭洲灣から上陸した第六師團との間に南京城一番乘りを目指して東と西に平行して大暴走を始める。

 退却の國民政府軍は、支那軍隊の常で 一木一草残さずの清野焦土作戰を展開、攻める第五、第十六師團は 長期間大苦戰を強いられてゐた中支那方面軍の彈薬糧秣の補給體勢が間に合はず 食うに糧なく、寝に家なく、文字通り 飲まず、食わず、眠らず 南京までの350 KMを驅け足の追撃戰であったと謂う。
 
急進撃の師團には捕虜の収容能力なぞもとよりなく 山川草木皆敵とばかり この時から手當たり次第の蛮行をかさねていたらしい。
 
第十軍軍司令官柳川平助は二・二六事件で豫備役に編入され現役に復歸したばかりの陸軍中將で皇道派の最右翼。

 上海派遣軍軍司令官朝香宮鳩彦王中將は飾りに過ぎず。

松井軍司令官は宇垣内閣産婆役の一人であり、憲兵司令官として その流産に直接手を下した中島今朝吾第十六師團長とは その時から お互い信頼も尊敬も失った仲で、強烈な個性の持ち主であった柳川、中島両中將を扱いかねて、松井軍司令官の両人に對する統制力は 最初からなかったと謂へる。

結局、追認につぐ追認の形で 大本營を南京戰へと巻き込んでしまう。
 
十二月一日、大本營が南京攻略を下令した時の戰闘序列は次の通り;
  
中支那方面軍 軍司令官 松井石根大將 士候第九期 陸大第十八期首席
參謀長 塚田 攻少將 士候第十九期
參謀副長 武藤 章大佐 士候第二十五期 陸大第三十二期恩賜
參謀副長 西原一策大佐 士候第二十五期 陸大第三十四期恩賜
情報參謀 長  勇中佐 士候第二十八期
作戰參謀 公平匡武中佐 士候第三十一期
その他派遣參謀兼務參謀総勢十数名
直轄部隊 第三飛行團
上海派遣軍
第十軍

上海派遣軍
軍司令官 朝香宮鳩彦中將 士候第二十期
參謀長 飯沼 守少將 士候第二十一期
第三師團 名古屋 師團長 藤田 進中將
參謀長 田尻利雄大佐
第九師團 金澤 師團長 吉住良輔中將
參謀長 中川 廣大佐
歩兵第六旅團 旅團長 秋山義兌少將
歩兵第七聯隊 金澤 聯隊長 伊佐一男大佐
歩兵第三十五聯隊 越中富山 聯隊長 富士井末吉大佐
歩兵第十八旅團
旅團長 井出宣時少將
  歩兵第十九聯隊 敦賀 聯隊長 人見秀三大佐
歩兵第三十六聯隊
鯖江 聯隊長 脇坂次郎大佐
第十一師團
善通寺 師團長 山室宗武中將
參謀長 片村四八大佐
第十三師團 仙台 師團長 荻洲立兵中將
參謀長 畑勇三郎大佐
歩兵第百三旅團
旅團長 山田栴二陸軍少將
歩兵第百四聯隊
仙台 聯隊長 田代元俊大佐
歩兵第六十五聯隊
会津若松 聯隊長 両角業作大佐
歩兵第二十六旅團
旅團長 沼田徳重少將
歩兵第百十六聯隊
越後新発田 聯隊長 添田孚大佐
歩兵第五十八聯隊
越後高田 聯隊長 倉林公任大佐
第十六師團
京都 師團長 中島今朝吾中將 士候第十五期 砲兵科
參謀長 中澤三夫大佐
歩兵第十九旅團 旅團長 草場辰巳少將 士候第二十期
歩兵第九聯隊
京都 聯隊長 片桐護郎大佐
歩兵第二十聯隊
福知山 聯隊長 大野宣明大佐
歩兵第三十旅團
旅團長 佐々木到一少將
歩兵第三十三聯隊
聯隊長 野田謙吾大佐
歩兵第三十八聯隊
奈良 聯隊長 助川静二大佐
第百一師團 東京 師團長 伊東政喜中將
參謀長 西山福太郎大佐
野戰重砲兵
第五旅團
旅團長 内山英太郎少將

第十軍
軍司令官 柳川平助中將 士候第十二期 陸大期恩賜
參謀長 田辺盛武少將 士候第二十二期
第六師團
熊本 師團長 谷 壽夫中將 士候第十五期  陸大恩賜
參謀長
下野一霍大佐
歩兵第十一旅團
旅團長 阪井徳太郎少將
歩兵第十三聯隊
熊本 聯隊長 岡本保之大佐
歩兵第四十七聯隊 大分 聯隊長 長谷川正憲大佐
歩兵第三十六旅團
旅團長 牛島 満少將 士候第二十期
歩兵第二十三聯隊
都城 聯隊長 岡本鎭臣大佐
歩兵第四十五聯隊
鹿児島 聯隊長 竹下義晴大佐
第十八師團
久留米 師團長 牛島貞雄中將
參謀長
小藤 恵大佐
第百十四師團
宇都宮 師團長 末松茂治中將
參謀長
磯田三郎大佐
國崎支隊
歩兵第九旅團
旅團長 國崎 登少將
野戰重砲兵
第六旅團
野戰重砲兵
第十三聯隊
野戰重砲兵
第十四聯隊

作戰發起當初の二個師團から 實に十個師團、各付属部隊を入れて三十五万を超える大軍團に膨れあがってゐる。

(*)  松井太久郎陸軍中將  士候第二十二期。 第五師團長として浙江省寧波に駐屯中、蔣介石家代々の陵墓が荒れてゐるのをみて、占領地で敵將の墓が荒れたまま放置されるのは 日本軍の恥であるとして これを整備させたと謂う。

  大東亞戰争開戰に、山下奉文第二十五軍隷下で 精兵 廣島鯉第五師團二萬五千を率いてシンガポール攻略戰の指揮を執る。

 後に、第十三軍軍司令官として 隷下三十五萬を統して上海にあり。 終戰にあたり蔣介石は 對峙正面の顧祝同將軍に替えて 日本陸軍士官學校出身の 湯恩伯將軍を最高責任者として輸送機で派遣。

 湯將軍は日本軍による直接警護を熱望、松井これに應へて 幹部候補生のみによる二個分隊を特別編成、最新の九六式輕機関銃、鐵帽、軍服、軍靴から下着まで全員に新品を支給、湯將軍の上海凱旋入城行進に 着劍實包装備での直接警護にあたらせたと謂う。

その後、英軍からの戰犯容疑者としての再三の身柄引き渡し要求、極東国際軍事裁判法廷への出頭要請にも蔣介石は言を左右にして應ぜず。 戰犯裁判終結まで上海に身柄を抑留、その間、腹心の龍佐良少將等を再三留守宅に派遣して中將の近況を報告させて 留守家族を慰問したと謂う。  

(**)  今井武夫陸軍少將  士候第三十期。 後に支那派遣軍総參謀副長として國民政府軍と聯絡をとりつつ 昭和二十年七月九日には ひそかに日本軍の前線を飛び越えて 河南省周家口で敵將第十五集團軍司令官 何柱國上將と會見、和平について話し合う。

 八月二十一日には湖南省止江に飛び 何應欽將軍からの停戰命令受領の軍使をつとめる。

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