佐藤 優 著 「日米開戰の眞實」 を讀んで。

大川周明著 『米英東亞侵略史』 を讀み解く

外務省のラスプーチンと呼ばれる異能の外交官 佐藤 まさる氏が 「國家の罠」(2005 新潮社)、「國家の自縛」(2005 産經新聞社)、「國家の崩壊」(2006 にんげん出版)、「自壊する帝國」(2006 新潮社)、「日米開戰の眞實」(小學館)と このところ 立て続けに著作を上梓されてゐる。

私が 佐藤さんの著作の一つに興味を持ったのは たまたま最近 大川 周明おうかわ しゅうめい法學博士の著書「米英東亞侵略史」を読んだことが切っ掛けである。 私の世代にとって、「大川周明」 と謂えば 昭和二十一年五月 極東國際軍事裁判 A 級法廷開廷の初日 東條英機陸軍大將の禿頭を平手でピシャリと叩いた奇行が広く知られてをり その後 起訴免除になったものの、謂うなれば 世間から抹殺されたも同然で、その実像について知らされる機会は ほとんどなかった。

   

昭和十七年一月二十八日第一刷貳萬部 第一書房 發兌 定價一圓二十銭
当時 初版 20,000 部といへば 現代では 200,000 部に相当しようか?

該書は その「序」にある通り、大東亞戰争開戰七日目の 昭和十六年十二月十四日から二十五日の間、「米國東亞侵略史」 「英國東亞侵略史」 と 二部構成で NHK から ラヂヲ放送されたものの口述原稿を基にしたもので、私が手に入れたものは 昭和十七年三月三十日発行の 第三刷 である。

本書の目的とするところは、日本の 對米、對英宣戰布告が 日本にとって いかにむにまれぬものであったかを 歴史の事実を 多々列挙、例証し、日本にとっての大東亞戰争開戰の正当性を 一般民衆に分かり易く解説したものである。

六十五年を経た今日、これを読んで 全く違和感なく、一般大衆への語りかけであるだけに 平易にして分かり易い文章は、戰後世代、所謂 マッカーサー史観教育を受けた世代にとって、まさしく 「目からうろこ」 の落ちる感を深くする。

戰後の一時期 一世を風靡した 林 房雄の「大東亞戰争肯定論」は あたかも大川周明氏の思想信條とは無関係であるかのように装って、「浪人」 「無法者」 「アウトロー」と決めつけて 北一輝の名前とともに只一カ所(P-216)に登場するが、私は 転向右翼 林 房雄の原点は 論客大川周明論の剽窃ひょうせつにありと見抜いてゐる。
その証拠に「続・大東亞戰争肯定論」では わざわざ一章をもうけ(第十二章 「昭和動乱」の思想的背景 ー 大川周明と北一輝) 「・・・『大川周明全集』全七巻は菊版約六千頁に及び、しかも一篇の瓦礫駄文をふくまず、大正昭和の佐藤信淵さとう・しんゑん (のぶひろ、經濟學者 1769-1850)ともいうべき博識、その日本とアジアへの情熱と憂憤は敗戰後の現在といえどもなお読者の胸をうち、 ・・・」 と絶賛した上で 「ありのままを言えば、昭和初年の左翼学生であった私は、大川周明の著書と思想活動については殆ど全く知るところがなかった。 当時、有名な 『二千六百年史』 をさえ完読しなかった。 私は第五高等学校及び東京帝大のマルクス主義団体「新人会」の会員であったので、大川周明の思想を汲む 「七生社」員と対立激論し、校庭で小乱闘を演じただけであった。 その自称インタナショナリスト学生が、今六十歳を越えた老書生として、『大川周明全集』 と 『北一輝著作集』 を読み、その光輝と残照の激しさに驚嘆する ー これもまた「日本知識階級史」の一面であろう。」 (続 P-136)と そのへんが節操なき転向右翼の面目躍如たる変節ぶりで 最高の賛辞を呈してゐる。

大川周明氏は 1886 (明治十九)年 山形縣酒田市生まれ。 山形縣立荘内中学校、 (熊本)第五高等学校から 1911(明治四十四)年 東京帝國大學文科大學哲學科卒業(印度哲學専攻)。 ヘンリー・コットン卿の「新インド」 (Sir Henry Cotton, New India or India in Transition) に出会い 亞細亞への覚醒を受ける。 1918 (大正七)年 満鉄(南滿洲鐵道(株))入社、東亞經濟調査局勤務。 1920 (大正九)年 拓殖大學教授。 1926 (大正十五)年 「特許植民會社制度研究」で 法學博士。 「五・一五事件」反亂罪幇助で禁固五年、1937 (昭和十二)年 出獄。 本邦初の「古 蘭」(コーラン)全訳を含め著作多数をものした論客である。 ちなみに「特許植民會社」とは 大英帝國女王陛下の特別許可を得た植民會社である「東印度會社」、独立以前の 北米各植民會社を始め、和蘭オランダ女王特許の「東印度會社」 「西印度會社」、普魯西プロイセン皇帝の「東阿弗利加會社」「ノイ・ギネア會社」(NeuGinea = New Guinea)等のことで、各社を起源、歴史的背景、特質を比較的に論じたものである。

 「コーラン」 (「コラーン」の方が原語の発音に近いか?)の亞拉毘亞アラビヤ語原典からの全訳は 井筒ゐづつ俊彦慶應義塾大學名誉教授(1914 - 1993)を鼻祖びそとするが それにさかのぼること八年、1950 (昭和二十五)年に、中國語、英語、獨逸語、佛蘭西語からの重訳を上梓してゐる。(岩崎書店 1950) また 大川周明氏は 公私、物心両面にわたり 井筒俊彦教授の後援者でもあったと謂う。 1957 (昭和三十二)年 神奈川縣愛甲郡愛川町中津の自宅で逝去。 享年七十一歳。   

大川周明博士自身も専門のヒンディー (Hindi) 語は勿論のこと 独学による亞剌比亞語を含め 多言語に通暁してゐたと謂はれるが、慶應義塾大學文學部英文學科出身の語學の天才井筒俊彦教授は羅甸ラテン希臘ギリシャ魯西亞ロシヤ語はもとより 希伯來ヘブライ語にも精通し、亞拉毘亞アラビヤ語は一週間で習得して翻譯作業にとりかかったと謂はれてゐる。 

井筒教授は 有名な化粧品会社の御曹司で、当初 理財科豫科に入學したが、西脇順三郎教授に憧れて文學部英文學科に進んだと謂われてゐる。
予科では 池田彌三郎、加藤守雄両氏と机を並べ、池田・加藤両氏は 文学部国文学科へ転科してをられる。
予科三年の期末試験が終わった日、銀座で祝杯挙げるべく 三人揃って数寄屋橋の上から簿記の教科書とノートを川へ投げ込んだと謂う話を 釋迢空しゃくちょうくう (折口信夫しのぶ)の研究者として著名な碩学 加藤守雄氏が書き残してゐる。
別の説によると、井筒さんは理財科で必須の數學がからっきし駄目で、試験の度ごとに級友が付きっきりで時間ぎりぎりまで教えるのだが、「それ、今 教えたところが二番にでている、三番の問題は さっき教えたやつだ!」と言っても もうからっきし駄目で いつも落第。 あきらめて数学の必要ない文学部へ換わったのだとの説をなす人もゐる。 ところが後に 塾大學言語文化研究所教授として 解析学だか統計学が必要になった時、「俺にだって やりゃー出來るんだ!」と すましてゐたと謂う。 見れば参考書の副題が「馬にでも解る統計学」だったとか。 これは いまから 52 年前、大学受験を前にして高校生の時に読んだ本の記憶である。 

偖て、佐藤さんの著作であるが、その「あとがき」で 自著「國家の罠」の一節を引用しながら、自身の初公判で突然 大川周明氏の極東國際軍事裁判初日の場面を思い出し、そして大川氏の様に 「これは茶番だ!」 (It's a comedy !) と大きな声で叫ぶパフォーマンスの出来なかった自分自身の胆力のなさを情けなく思うと告白してゐる。

そして自分自身の立場を仮借してか 「60年前、東京裁判で大川周明が免訴にならず、法廷でアメリカ、イギリスの國際ルール無視、アジアに対する植民地主義が道義性をもたないことを実証的なデータに基づいて主張したならば、それは大いに説得力をもったであろう。 ・・・(中略)・・・ 聡明なアメリカ人が大川の危険性に気づき、精神障害を理由にその機会を奪ったのが真実と筆者は認識している。 それだから地下から大川周明の言説をもう一度地上に引き出してこなくてはならないのだ。」 (本文P-294 - P-295) と 本書執筆の動機を述べてゐる。

佐藤さんは 外務省切っての情報分析官と謂はれるだけあって、その洞察力の鋭さと博識ぶりは端倪すべからざるものあり、該書を単に読み解いて解説するに留まらず、関連する文献を渉猟して 突っ込んだ自己の分析と持論を開陳してゐる。
512日、一年五ヶ月の東京拘置所での独房生活中に 220 冊を読破、書き留めた思索ノートは 62 冊に及んだと謂う。 同志社大學大學院神學研究科を卒へ 現職在職中に すでに二冊の訳書をものしてをられるので 語學にも堪能な方にちがいない。

通常 引用文献は巻末に列挙するものだが、佐藤さんは 几帳面に引用の都度、そのページ數を明記して 出典を明らかにしてゐる。
ちょっと整理してみると;

「大川周明 ー ある復古革新主義者の思想」 大塚健洋 中公新書 1995年
「酒田市立光丘文庫所蔵大川周明旧蔵書目録」 酒田市立図書館 1994年
「安楽の門」 「大川周明全集 第一巻」 岩崎書店 1961年
「東京裁判」 スミルノーフ/ザイツェフ 大月書店 1980年
「大川周明のアジア研究」 竹内 好 「近代日本思想大系21 大川周明集」 筑摩書房 1975年
『古 蘭』 岩崎書店 1950年
「新しい歴史教科書」 扶桑社 2005年
「國際條約集 1999年版」 有斐閣
「レーニン選集 第一巻」 モスクワ・プログレス出版所 1980年
「謀略 現代に生きる明石工作とゾルゲ事件」 時事通信社 1964年

「日本解体 真相箱に見るアメリカGHQの洗脳工作」 保坂正康 扶桑社文庫 2004年
『謀略決戰』 大東研究所編 山海堂出版部 1943年
「オレンジ計画 ー アメリカの対日侵攻50年戰略」 エドワード・ミラー/沢田博訳 新潮社 1994年
「近代文学の終り」 柄谷行人 インスクリプト 2005年
『復興亜細亜の諸問題』 大川周明 中公文庫 1993年
「民族とナショナリズム」 アーネスト・ゲルナー 岩波書店 2000 年
「ソロヴィヨフ著作集」 御子柴道夫訳 刀水書房 1982 年
「労農帝國主義の極東進出」 高畠素之 人文會出版部 1927 年
「世界史の哲学」 高山岩男 岩波書店 1942 年
『廣松 渉著作集 第十四巻』 岩波書店 1997 年

「歴史的現實」 田辺 元 岩波書店 1940 年
「国家と外交」 田中均/田原総一郎 講談社 2005 年
「蓑田胸喜全集 第一巻、第六巻」 柏書房 2004 年
『日本二千六百年史』 大川周明 第一書房 1939 年
「大川周明全集 第六巻、第七巻」 岩崎書店 1950 年
「國防哲學」 蓑田胸喜 原理日本社 1936 年
「國家の品格」 藤原正彦 新潮新書 2005 年
「大川周明」 松本健一 岩波現代文庫 2004 年
「幻滅の資本主義」 伊藤 誠 大月書店 2006 年
『神皇正統記』 北畠親房 社会教育會 1936 年
『國體の本義』 文部省 1937 年

いやもうこれくらいにしておきましょう。 これだけの文献を読破して 該書の内容と結びつけるには これに倍、いや三倍する関係文書をひもとく必要があったでありましょう。 その中から抽出された部分のみを引用して解説を加えてゐる。

内容的には 「地政学」 とか 「普遍主義」 だとか 馴染みの薄い専門用語を驅使して、「ケインズの公平分配」だとか 「ハイエク傾斜分配」だとか、高邁な論理がちりばめてあり、難解な部分 多々あり。 しかし 鋭い洞察と分析力をもって 内容の濃い「読ませる」ものになってゐる。
二、三 引用してみよう;

東京裁判訴追と大川周明氏の対応
「そもそも東京裁判で大川が A 級戰犯容疑者として起訴されたのは、ナチス・ドイツの戰争犯罪を裁いたニュルンベルグ裁判で、ナチズムの理論家アルフレッド・ローゼンベルグ博士が逮捕、起訴され、絞首刑になったことを踏まえ、日本でもファシズムあるいは人種主義理論の思想家を引っ張り出さなくてはバランスがよくないという必要に迫られたからとの憶測を、筆者はどうしても捨て去ることができない。 本書に収録した 『米英東亞侵略史』 が太平洋戰争中の 1944 年 9 月に英訳されていたことも恐らくマイナスに作用したのであろう。 ・・・ (後略)」 (P-88) (History of Anglo-American Aggression in East Asia 東京外國語學校教授 小川芳男訳 同校講師 P.B. Clarke 監修 大東出版(株)) 

そして米軍病院での、男女十数名の軍醫の精神鑑定場面なぞを描写しながら、鑑定結果を抜粹してゐる。
「全尋問の間、囚人は英語を自由に操った。 質問者との会話を楽しんでいるようだった。 英語の語彙力がすばらしい。 巧みに自己表現をし、しばしば叙述的な直喩や隠喩を用いる。 発音はよくない。」
「知性は平均よりはるかに高い。」
「口頭での回答は簡潔で、筋が通っており、しかも理性的である。」
「・・・ われわれは、この囚人が本人に対し提起されている裁判の本質を理解する能力を有していると考える。 彼は善悪の判別ができる。 彼は自己を擁護する弁論における合理的手続をとるために必要な知的能力と判断力を持っている。 (筆者による英文和訳)」 

にもかかわらず、1948年末 「不起訴」 (一旦 起訴されてゐるのだから、正確には「起訴免除」、「訴訟除外」または「公訴棄却」と謂うべきだと思うが。) となったのは、前述の通り 「大川の危険性」 に気づいたからだと分析してゐる。

これを 大川氏の側から觀察すると
「大川が 「いたずら心で法廷を喜劇の場にする」 というのは言い過ぎかもしれない。 大川はこの法廷が姿形を変えただけの戰塲に過ぎないと認識していたので、そこで知的戰闘を行いたかったのである。 そのためには法廷を厳粛な審判の場ではなく、喜劇劇場にした方が、日本人観客にとって、そこで展開される言説がより腹に入ると考えたのであろう。 ・・・ (中略) ・・・  暴力 (佐藤さんは「公権力」といいたかったのかも。) を背景に真相の究明を装うような法廷を根源的に批判するためには、法理論に基づいた反論よりも、法廷を悲喜劇の劇場にする方が効果がある。 大川は 初公判で法廷を悲喜劇劇場にすることに成功した。」 (P-97/98) と結論つけている。

米國の自由主義、民主主義、機会均等、門戸開放、主権尊重、領土保全の欺瞞と正体

佐藤さんの解説は 難解な専門用語を驅使し、学術的論理をもちいての解説で 私如き浅学には咀嚼そしゃくが難しい部分が多々あるが、以下 自分なりに解釋してみます。

亞米利加合衆國建國の理念は、大英帝國植民地の桎梏しっこくからの脱出、解放であって、自由主義、反植民地主義である。

 このジョージ・ワシントン (George Washington) の理念は 営々、脈々と引き継がれ、我が國に開國を促したペリー提督 (Commodore Mathew Calbraith Perry) にまで受継がれてゐる。

 「ペリーは世界航海の課程でヨーロッパ、特にイギリスの植民地政策を見聞し、その際に覚えた憤りを報告書に綴った。 大川はそうしたペリーの植民地主義批判への共感を隠さない。」 (中略) 「アメリカはイギリスやロシヤのような乱暴な態度で開國を強要せず、礼儀を守り、対等の國家として開國を説得した。 他方、アメリカはオランダのような卑屈な態度で、日本人におもねることもしなかった。 必要なれば武力に訴える腹ももっていた。 要するに『対話と圧力』でアメリカは日本に開國を迫ったのである。」 (P-120)

「さてアメリカは、アジア諸國の自由と独立を尊重し、植民地主義に反対するという初心から離れてしまったのであろうか。 大川の理解では、19世紀の末にアメリカの外交政策が本質的に変化したのである。」  「一言でいうと、アメリカが孤立主義を捨て、露骨に帝國主義政策を追求することになったため、結果としてイギリス同様に白人による白人以外の人種の支配を目指すような國家に『堕落』してしまったのである。」 (P-122)

「大川はアメリカによる帝國主義的侵略の呼び水になったのが、日清戰争における日本の勝利と考えている。」 (P-123)

少し このあたりの米合衆國の動きを 時系列的に考察してみましょう。

1893 (明治26年) 布哇ハワイ革命。 米國の画策で カメハメハ (Kamehameha) 王朝を倒し 翌年 共和制に移行。
1894 日清戰争勃発、 翌年四月 日本の勝利により 下関條約締結。 直ちに 露佛獨三國干渉により 遼東半島還付。
1897 ハワイ併合。

1898 米西戰争の結果、比律賓フィリピン、グアム、プエルト・リコを領有。
    軍事占領下、プラット條項 (enmienda de Platt) を條件に キューバの独立を認める。
    カリブ海の覇権 (hegemonies) を確立。

1899 (明治32年) 中國に於ける 領土保全、門戸開放、機会均等を宣言。
1902 中國人移民禁止法施行。

1903 パナマ運河地帯永久租借、保護國とする。
1904 日露戰争勃発。
1905 ドミニカを保護領とする。

1906 キューバ内乱に 警察権を公言して米軍出動。
1912 メキシコに内政干渉。 ニカラグアを軍事占領。
1913 (大正2年) 加洲排日土地法施行。
1915 ハイチ 米保護領に。
1916 米 メキシコと衝突 出兵。

1919 巴里媾和会議で日本が提案した 『人種差別撤廃條項』 を否決。
1921 ワシントン軍縮会議。 四カ國條約締結により 『日英同盟』 廃棄。
1922 (大正11年) 九カ國條約締結。
1924 排日移民法成立。 

こうみて來ると、米合衆國の帝國主義 (imperialism)、覇権主義 (hegemonism)、領土的野心 (territorial ambition) の芽生えは 1889 (明治22)年の 第一回汎米会議 (The First International Conference of American States 現 OAS: Organization of American States) (通稱Pan American conference) あたりであることが判る。

民主主義の名の下に陰謀をめぐらして 立憲君主であるリリウオカラニ (Queen Lili'uokalani) 女王を玉座から引きずり降ろし 名目だけの共和制に移行した上で 『準洲』 として併呑。  味をしめて 米艦メーン號 (USS Maine) 爆沈を口実に 老衰大國スペインに言いがかりを付けて戰を挑み、フィリピン、グアム、プエルト・リコを強奪領有。 キューバの独立を認めたとはいえ 軍事占領下でプラット條項 (The Platt Amendment, 1903) を強引に押しつけて 実質支配下に置く。

 関東軍が柳條湖の鐵道線路に爆薬を仕掛けたのは もしかして 石原莞爾中佐が戰艦メーン號の故智に見倣ったのかも知れません。

パナマ、ドミニカ、ニカラグア、ハイチの保護領化は警察権行使名目での支配権確立。 メキシコには度々内政干渉し 意のままにならぬと出兵。

まさに 「砲艦外交」 (Gunboat Diplomacy) 「棍棒外交」 (Big Stick Policy) の極致である。 平和に対する罪、人道に反する罪なぞとのたまうて よくもまあ大日本帝國を断罪出来たものです。 しかも この文脈は 営々と引き継がれ、レーガン(Donald Reagan)政権による グラナダ侵攻、ニカラグア侵攻、ブッシュ父(George H. W. Bush)政権による パナマ侵攻、ノリエガ(Manuel Antonio Noriega)大統領逮捕は 記憶に新しい事で、ゐづれも 國聯決議も宣戰布告もなしの國際法と 司法管轄権を無視した、無法侵略、違法逮捕であることは明白です。 

しかもたちの悪ことには 中國に関しては 「領土保全、門戸開放、機会均等」 と 正論を掲げる。

「アメリカが提唱した中國の門戸開放とは、植民地の分配に自分も参加させよというものである。 中國の領土保全は、仮に中國が列強に分割されることになれば、アメリカの取り分が少なくなるから、領土保全の方が都合の良い利権構造を維持できるという計算からの意思表明に過ぎない。 お人好しの日本人は、このようなアメリカの内側からの変質に長い間気づかなかったのである。」 (P-123) そして おおまじめに 「九カ國條約」に調印し、(自動消滅の形で)「日英同盟」を廃棄したのです。

目障りな閔妃暗殺で李王朝を傀儡化させ朝鮮を併呑、言いなりにならない張作霖を爆殺、柳條湖鐵道線路を爆破して言いがかりをつけ戰火拡大、宣統帝を擁立して傀儡滿洲國建國、いずれも米國がやってきたやり方を お手本にしたと考えると分かり易い。 博識の智者大川周明博士が 「こんな奴らに裁かれる所以なし。」と考へたのは 当然の帰結でしょうし、裁く側にしてみると へたに論客を法廷に引っ張り出して 古傷をさわられたくなかったと謂うことでしょう。

巴里ベルサイユ媾和会議で日本代表が提案した 「人種差別撤廃條項」 を司会のウイルソン(Thomas Woodrow Wilson)米大統領が否決する場面の映像が残されてゐます。 植民地主義の大英帝國、白濠主義の濠洲が猛反対する事は あらかじめ予測されてゐたが、民主主義を標榜する米國が巧妙にこれを否決するとは日本代表も さぞや驚いた事でしょう。 「米國の民主主義」とは 『自分の信奉する民主主義の価値基準の押しつけ』 であることに性善説信奉者である日本人もこの時点で 米國の偽善と欺瞞に気づいた筈です。

さすがに 「人種差別」 は J.F. ケネディ (John Fitzgerald Kennedy) 大統領提案の「公民権法」 (Civil Rights Act, 1964) で禁止となったが、「男女平等法案」 (The Equal Rights Amendment, 1923) は 1923(大正12) 年から聯邦議会で延々議論され 1972(昭和47) 年に 「憲法修正第二十七條」として やっと議会は通過したものの(憲法修正には 上下両院の三分の二以上の賛成票が必要) 國民投票 (referendum) で否決されて(聯邦議会で可決後七年以内に四分の三以上の洲の批准が必要)、最終的に 1982 年、レーガン政権下で廃案となり 今日に至ってゐる。

戰後いち早く 日本に 「男女同権」 を押しつけた軍國日本の救世主 『亞米利加合衆國』 が いまだに憲法上男女平等 (equality of rights under the law on account of sex) が保証されてゐないと聞かされても 「ベアテの贈り物」 (Mrs. Beate Sirota Gordon) なんて言って浮かれている日本人の誰一人 それを信じる人はゐますまい。  これが二重基準 (double standards) を巧みに使い分ける民主主義の の國の現実なのです。

大英帝國の源点と その末裔

「イギリスが帝國をもつことを可能にしたのが資本主義だ。 これを自由主義と言い換えてもいい。」  「競争に最も強い國家は、自由貿易を唱える。 イギリスは、主観的には自由で平等なルールを國際社会に適用すべきという公正な主張を行っているが、客観的に見るならば『駆け足で一位になった者がすべてをとる』という平等な『ゲームのルール』は、いちばん足が速い者以外にとっては、いつも負けが約束されているに過ぎない。  ・・・   現在アメリカが唱える新自由主義も、基本的には 19 世紀にイギリスが提唱した自由主義を繰り返しているに過ぎない。」 (P-219)

「人間や國家の本質を性悪説ととらえても、それを克服するという方向で思惟を進めるのならば大きな問題は生じない。 問題は性悪説の上に開き直って、力をもつ國家や民族が行動する場合だ。 それはイギリスの帝國主義政策に端的に表れている。」 (P-278)

「かっての敵を徹底的に潰すことはせずに、懐柔し、将来の戰争で自國の先兵として使うというのはイギリスのお家芸だったが、第二次世界大戰後はアメリカにも引き継がれた。 日本のイラクへの自衛隊派兵も、突き放して見るならば、この構造だ。」 (P-279)

佐藤さんによると、 9/11 以降の世界には 大雑把に整理すると;

「唯一の超大国にして政治、經濟、軍事の全ての面で、いかなる國家に対しても影響を及ぼすことのできるアメリカ帝國」

「ユダヤ、キリスト教の一神教原理、ギリシャ古典哲学、ローマ法の伝統という中世ヨーロッパを形成した『コルプス・クリスチャヌム』(キリスト教世界)を世俗的な形で復活させた欧州連合 (EU) という帝國」

「單一カリフ帝國の形成を夢想するアル・カイーダに代表される潜在的イスラーム帝國」

さらに 「自己の基準を周辺世界に押しつける帝國に発展しうる中華帝國」

といった 從來の國民國家の「ゲームのルール」に収まらない新しい帝國が出現しつつあると謂う。 (P-213)
このうち ロシヤは「ローマ法」の原理に欠けるので EU との共通意識をもてないし、「コルプス・クリスチャヌム」に相当する共通意識は東アジアには見あたらないと謂う。  (P-256)

これを 宗教を切り口にして分類するなれば;
「原罪説をとるユダヤ・キリスト教は主に性悪説で構成されている。 原罪という考え方をもたないイスラームは、無記とみる。 神道の人間観も無記である。 佛教については一言ではいえない。」 と謂う。 『無記』 とは 「人間の本質は善でもない悪でもない、佛教用語で言うところの無記、すなわち白いキャンバスのようなもので、その上にどのような絵でも描くことができるという第三の考え方」である。 (P-260-261)

結局 性善説を信奉する「善意の國」日本が 性悪説の英米に追いつめられて 最後に採った手段が勝てる可能性のない大東亞戰争であり、現代に目を転じて性悪説の権化である独立國家共同体 (CIS; Commonwealth of Independent States) や 中華帝國、 南北朝鮮王朝に対し いまだに性善説を外交手段、手法とする日本に 佐藤さんは 外交の専門家として、地下から 大川周明氏を引き出すことにより警鐘をならすことが目的であったと 浅学は解釋した次第です。

(2006/09/03 完結 初掲)

注  記;
米國のハワイ王朝乗っ取りの経緯 ならびに 外交における「性善説」 (駐米大使 珍田捨己ちんだすてみ伯爵の外交)については 今週の『週刊新潮』「変見自在 連載 #214」 に 帝京大学 高山正之教授が「珍田外交」として詳細に語ってをられます。

追  記;
今 米合衆國議会でも大問題になってゐる、かの悪名高きグアンタナモ海軍基地 (U.S. Naval Station, Guantanamo Bay, Cuba) こそが プラット修正條項第七條 (The Platt Amendment, 1903) (Z ・・・lands necessary for coaling or naval stations at certain specific points ・・・ ) によるものなのです。 五十年来 犬猿の仲であるアメリカが キューバ國内に海軍基地を持ち、そこでテロリストと呼ばれる連中を拘束して拷問を加える、しかも「テロとの戰いには それが必要なんだ」と大統領が公言する 民主主義の國 アメリカ。
勿論 キューバは度々アメリカに抗議はしてゐるものの、丁度ロシヤが日本の北方四島を不法・無法占拠しているのと同様 聴く耳もたず。
なにをやっても、なんでも許される世界で唯一の超大國 「選民」の國、アメリカ合衆國萬歳。 (2006/09/18 追記)  

主要参考ならびに引用出典;

「米英東亞侵略史」 大川周明 第一書房 昭和十七年三月三十日 初版第三刷
「日米開戰の真実」 佐藤 優 (株)小学館 2006年8月20日 初版第4刷 (7月1日 初版初刷り)
「アメリカの歴史」 ー「新大陸」の近代から激動の現代へー 紀平英作 放送大学教材 2000 年
物 語 「アメリカの歴史」 超大國の行方 猿谷 要 中公新書 中央公論社 1991 年
「大川周明」 大塚健洋 中公新書 中央公論社 1995 年
「大東亜戰争肯定論」 林 房雄 番町書房 昭和三十九年八月五日初版
「続・大東亜戰争肯定論」 林 房雄 番町書房 昭和四十年六月一日初版
「わが師 折口信夫」 加藤守雄 文藝春秋社 昭和四十二年
「珍田外交」 変見自在 高山正之 週刊新潮 #33 九月七日号
フリー百科事典「ウイキペディア」 Wikipedia



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