Haben Sie einmal die "Lili Marleen" gehört ?

Herr Akira Suzuki starb neulich. Er hatte ein Dokumentar Buch uber die Lili Marleen, im Jahr 1975, geschrieben.
Der beruhmte Reporter des TBS Fernsehen wurde 1929 in Tokio geboren, und hatte an der St. Paul Universitat von Tokio studiert.
Dieser Artikel in japanisch fragt; "Haben Sie einmal die Lili Marleen gehört ?" 

あなたは「リリー・マルレーン」を聴いたことがありますか?
 
ルポルタージュ作家の鈴木 明さんが亡くなられた。 昭和四(1929)年東京生まれで立教大學卒。  名著「南京大虐殺のまぼろし」(昭和四十八年 文藝春秋社刊)「新 南京大虐殺のまぼろし」(一九九九年 飛鳥新社刊)は拙文にも たびたび引用させていただいたが、もう一つの名著「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」をあらためて読ませて貰った。
 
「リリー・マルレーン」には四つのキーワードがある。
作詞者のハンス・ライプ、作曲家のノルベルト・シュルツェ、歌手のラアレ・アンデルセン、そして この唄を聯合國側にひろめたマレーネ・デートリッヒ。
鈴木さんは1974(昭和四十九)年春、自ら車を運転して歐洲を驅け巡り その軌跡を克明にルポしてをられる。 ベルリンの壁崩壊以前、共産黨独裁時代の東ベルリン、民族紛争とは無縁のチトー (Josep Broz Tito)時代のユーゴースラビヤ聯邦共和國のルポルタージュは わずか三十年前の事ながら今や忘れ去られた東西冷戰時代の貴重な記録でもある。 ユーゴーでは「山崎さんという日本人留學生」の名前が出てくるが山崎さんとは誰あらう あのゾルゲ事件のブランコ・ド・ヴーケリッチ山崎淑子夫妻の令息 山崎 洋氏にちがいない。 フランス・アヴァス通信社の敏腕記者ヴーケリッチはクロアチア軍人貴族の家系でソルボンヌの出身。 令息洋氏は慶應義塾を卒業の後 父の母国ベオグラードに留学されたと聞く。 民族紛争の嵐吹き荒れた動乱の時代をどう過ごし、既に耳順を過ぎてどうしてをられるであらうか? 東京女子大出身のご母堂は横浜にご健在だと仄聞するが。
 
佛蘭西語、露西亞語、伊太利亞語、ラテン語、エストニア語、デンマーク語、ハンガリー語、ヘブライ語等々 世界四十八ヶ国語に訳されて歌はれたと謂はれる詩の源題は「若き歩哨の歌」("das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht")で 作詞者ハンス・ライプ(Hans Leip)は1893年ハンブルグ生まれ。 第一次世界大戰にドイツ軍兵士として従軍。 1915年ロシア戰線に配属前に、雑貨屋の娘で恋人であったLiliと、歩哨にたった夜 夜霧に消へた友人の恋人であるMarlenの面影をダブらせて作詞したものだと謂はれてゐる。
原詩の綴りは Lili Marlen。 それがいつのまにか Lili Marleenと唄はれるようになり, Lily Marlene(佛), Lilli Marlen(伊)と他国語綴りあり、更にはマレーネ・デートリッヒは自分の名前に肖ってLili Marlèneと綴ってゐる。 ライプは1983年にスイスで歿してゐる。
 
1911年北ドイツ・ブラウンシュヴァイヒ(Braunschweig)の名門に生まれた作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)は1937年に出版されたライプの詩集の中の「若き歩哨の歌」に注目して翌1938年に「灯火の下の娘」(ラテルネの歌)("des Mädchens unter der Laterne")の曲名で作曲。
1974(昭和四十九)年5月21日 鈴木明はベルリン郊外の深い緑に囲まれた瀟洒な邸宅にシュルツェ氏を訪ねてゐる。 シュルツェ家の祖父は明治初年ベルツ博士一行と共に來日して獨逸醫學を日本に伝授した一人だと謂はれ シュルツェ氏自身 日本の古い勲章や家具、食器にかこまれて育った 日本と縁の深い人だとある。
氏は戰後ナチスへの協力を糾弾されてレニ・リーフェンシュタール等と同様に裁判にかけられたと謂う。 戰中、戰後 世界中で歌はれたこの曲の著作権料は莫大なもので、1960年までの総額六億円は敵国財産管理局に凍結されて 聯合軍老兵の為の厚生施設に使はれたとある。 2002(平成十四)年10月17日歿。
ちなみにシュルツェ氏の令息はベルリンでTV関係の仕事をしてをり一時間のドキュメンタリー番組「リリー・マルレーン」を制作したと謂う。 鈴木明は令息にも逢い この番組も見せて貰ってゐる。 地下に埋もれた「リリー・マルレーン」を余すところなく発掘出来たのは その番組に負うところが大きいのではなからうか。
 
リリー・マルレーンを語るに欠かせぬヒロインはラアレ・アンデルセン(Lale Andersen本名Lieselotte Helene Berta-Eulalia Bunnenberg)です。
鈴木明はフランクフルト日航支店の近くのレコード店で見たジャケットの記述から1913年生まれだと誤解して「航海士の娘として生まれ、十七才で結婚し十九才の時には三児の母であった」としてゐるが、実際には1905(明治三十八)年3月23日北海に面した港町ブレーマーハーヘン(Lehe/Bremerhaven)で漁師の娘として生まれてゐる。 1939年2月に最初にこのレコードが吹き込まれた時は既に三十三才。 その時の曲名は「ともしびの下のおとめ」(または「ラテルネの歌」)(des Mädchens unter der Laterne)であった筈です。
昭和十四年の発売から わづか七百枚しか売れづ在庫の山を築ゐて全く見捨てられてゐたこのレコードが昭和十六年八月十八日二十一時五十五分ドイツ軍占領下のベオグラード放送局からロンメル將軍麾下の北アフリカ・ドイツ機甲軍團將兵向けに放送されるや、たちまち熱狂歓喜の嵐が燎原の火のごとく北アフリカに燃へ拡がり 東部戰線へ、さらには対峙する英第八軍團へ、米軍へ、ソ連軍へと燃へ拡がって行ったのです。 毎晩二十一時五十五分ベオグラード放送の定番となった その雄壮なメロディーが 敵味方の兵士の士氣を鼓舞し 甘い詩が遠い故郷のおのが恋人の面影とだぶらせたためではないでしょうか。 尤も英軍、米軍、ソ連軍兵士には歌詞の意味は理解出来なかった筈ですが。 「ラテルネの歌」が いつのまにか「リリー・マルレーン」と呼び慣はされるようになった理由でせう。 そして 朝鮮戰争、印度支那戰争、ベトナム戰争にまで唄いつがれたと謂はれてゐます。
 
しかし ナチス宣伝相ジョセフ・ゲッペルス(Josef Göebbels, der Nazi-Propagandachef)は 退嬰的なこの詩がお氣に召さず天才的な直感力で不吉な前途(unheilvollen Charakters)を予感してレコードの販売禁止と発売元のエレクトローラ社に原盤の廃棄命令を出しました。 しかし一旦燃へ盛った火を消す事はできずラアレ・アンデルセンの人気はますます昂まるばかり。 昭和十七年の夏、得意の絶頂から一転不幸の奈落へ突き落とされます。 イタリアを演奏旅行中にゲシュタポに逮捕されたのです。 スイス在住のユダヤ人の二番目の夫の元への亡命を謀ったとの嫌疑です。 私はこれはラアレを抹殺するためにゲシュタポ長官ハインリッヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler, Kommandostellen der Geheime Staatspolizei) が仕組んだ罠だと思ってゐます。 数奇な運命と謂うか処刑を覚悟したラアレの命を救ったのはBBCの対独宣伝放送でした。 以後ラアレは故郷に近い北海に浮かぶ孤島ランゲオング島(Langeoog)でひっそりと戰禍の過ぎ去るのを俟ちます。
聯合國軍側では勿論ドイツ語の歌詞は判らず 思ひ想ひの歌詞で唄はれその数は五十種を超へていた謂はれてゐますが、それに目つけたロンドンのピーター・モリス音樂出版社のジミー・フィリップス(Jimmy J. Phillips)が昭和十九年にトミー・コナー(Tommie Connor)に作詞させて四年間で六十五万部の楽譜を売りさばいたと謂はれてゐます。 鈴木明はロンドン郊外のケントにトミー・コナーを訪ねてインタビューしてゐる。「どういう主旨で、この詞を翻訳したのですか?」と謂う質問に、彼は手でさえぎり、「Not Translate !!」と答へてゐます。 しかし 僕にはハンス・ライプのドイツ語の源詞とコナーの英語にどれほどの「隔たり」があるのか、やはりこれは翻訳だと謂うべきだと思います。 ただ面白い事にコナーは一番、二番の歌詞を「Lilli Marlene」と綴り 三番、四番を「Lilly Marlene」と綴ってゐる事です。
 
カナダ軍の將校に北海の孤島ランゲオング島から救出されたラアレには 再び脚光を浴びる日々が巡って來る。 戰後まもなくロンドンでコナーに逢い、シカゴを起点にしてアメリカ、カナダへの演奏旅行、TV出演の旅へたつ。 どういう経緯か ゲッペルスに廃棄を命ぜられた筈の1939年録音の原盤も遺ってゐて復刻版が出されてをり インターネット上でも聴く事が出来ます。 音質は「擦り切れたレコード」そのものですが 三十三歳とはとても思へぬ 若々しい少女の声で精一杯唄ってゐます。 この歌詞は はっきりと「Lili Marlen」と発音されてゐます。 戰後の録音は何種類か出されたようですが、珍しいのは 一番を英語、二番をフランス語、三番をドイツ語で唄ったもので、英語の歌詞はコナーのものではなくて、デートリッヒが翻訳したものを使ってゐることです。 そして1939年録音のものより若干テンポが遅くなり それに併せてドイツ語の歌詞も「Lili Marleen」に変化したようです。
日本では「リリー・マルレーン」の片仮名綴りが定着してゐますが、むしろ「リリー・マーリン」の方がラアレの発音に近い。
1972(昭和四十七)年8月29日自伝(「空にはいろんな色がある」 原題 Leben mit einem Lied)のキャンペーン・ツアーの途中ウイーンで魅入られるように逝ってしまう。 波乱万丈の享年は六十七才。 その亡骸は孤独な時代を過ごしたランゲオング島に眠ってゐる。
 
鈴木明の本にはリリー・マルレーンに関する事の他に シュタウフェンベルグ大佐や ヨーロッパと大東亞戰争の根本的な違いについても書かれてゐます。
 
ヒットラー総統暗殺を企てたシュタウフェンベルグ陸軍大佐(Claus Schenk Graf von Stauffenberg (15.11.1907 - 20.7.1944))はバイエルンの伝統あるカトリック騎士軍團の名門伯爵家(Graf)の出自で処刑された時 若干三十六歳で陸軍大佐。 戰後のドイツでも憂國の志士として尊敬を集めてゐるとあります。 シュタウフェンベルグ大佐についてもっと書きたいんですがここでは紙数がありません。
 
鈴木明によると この大戰でのドイツ國防軍の戰死公報の出された正式戰死者數は 百六十五萬。 行方不明ならびに捕虜として消息不明者を含めるとドイツ人として命を落とした人の數は 少なく見積もっても六百五十萬人、このうち空襲による死者は約五十萬人だと。
一方、ソ連では 二千五百萬人の血が流されたと謂はれてゐます。
 
昭和十二年から終戰までの間 日本が軍事行動で失った総兵員數が二百十二萬、このうち中國大陸での戰死者が四十五萬五千人、戰後シベリヤに抑留された六十萬の内 死者、行方不明者數が 約六萬だと謂はれてゐますので やはり東洋と西洋では「戰争そのものの手段、方法、本質の違い」があった様に感じます。 
 
偖て 最後にマレーネ・デートリッヒ (Marlene Dietrich) の事を書かねばなりません。
本名は Maria Magdalena von Losch Dietrich。 1901(明治三十四)年12月27日ベルリンに生まれ、1992(平成四)年5月6日 パリに死す。
名前からお判りの通り プロイセンの由緒正しい軍人貴族の家系で 実の父親を幼くして亡くし 二番目の父親も第一次世界大戰末期に戰死したと謂はれてゐます。
明治三十四年生まれと謂うことは ケネディー大統領が「お時間ありますか?」とホワイトハウスの寝室に誘った時は御年六十才だったと謂う計算になります。
1930(昭和五)年にはもう渡米して聖林(Hollywoods)で活躍を始めてゐますから、謂はれるようにナチスを嫌ってアメリカへ亡命したのとはわけがちがいます。 たしかにヒットラーの度重なる鄭重な懇請を峻拒して帰国しなかったのは事実であり、ましてや大戰中OSS (The Office of Strategic Service)の手先となって対独謀略作戰に手を貸したことが戰争経験のある年配のドイツの人達には許し難いところがあるようで、未だに(三十年前のことですが)「フィー」(Pfui!) と呼ばれて軽蔑されてゐるそうです。
鈴木明は「リリー・マルレーン」を「支那の夜」に対比させています。 さしずめ李香蘭(山口淑子)が蒋介石に降って國民政府軍の対日謀略宣伝に手を貸したと謂う図式でしょうか?
鈴木明は日本で二度までデートリッヒを聴いてゐます。 最初は1970(昭和四十五)年9月8日大阪万博会場で そして二度目は1974(昭和四十九)年12月。 最初の來日の契約條件に「ドンペリを準備する事」と謂う條項があり、主催者側は「ドンペリ」の何たるかが解らず、兎も角 当時 大阪では手に入らず、関係者が上京して東京中を探し回り 開店したばかりの「銀座マキシム」でやっと二本だけ手に入れたエピソードが書かれてゐる。 何度も場数を踏んで舞台度胸満点の筈のデートリッヒも舞台に上がる直前、「ドンペリ」をグイーと一杯やるんだそうです。 今ならどこのデパートでも売ってゐる「Cuve'e Dom Pe'rignon」も当時の日本では入手困難だったと謂う昔話です。
 
大戰中のデートリッヒはいつも米軍の軍服姿で 北アフリカ戰線を皮切りに、シシリー、イタリヤ、アラスカ、フランス、オランダ、グリーンランド、アイスランド、英国と 文字通り前線を驅け巡って聯合軍將兵を慰問して回ってゐます。
唄はドイツ語の原詩であったり、自分で得意の英語に訳したものであったりですが、なんといっても敵國の歌を敵性語で唄う事を許すというのですから、鈴木明が謂う斯く 東洋と西洋、いやキリスト教徒と異教徒とでは戰争の本質が異なると謂う事でしょうか?
ドイツ語の歌は なんとも艶容で 伴奏がラアレ同様軍隊行進曲調でありながら まるで異った唄にしてしまってゐます。 ラアレよりも更にスロー・テンポで「リーリー・マーリーン」と唄ってゐます。  私には「リリー・マルレーン」には違和感が残り ラアレの「リリー・マーリン」の方がピッタリ來ます。 (2003/09/12完))
 
追伸;
レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)が亡くなった。(九月八日)
朝日新聞の三段死亡記事に比し 産經新聞は五段署名記事を掲載してゐる。
ヴェネチア國際映画祭グランプリに輝く名画「民族の祭典」の女流名監督は 戰後戰犯として四年間服役。 写真家に転身し 水中写真撮影の為七十一才でダイビング免許を取得。
昨年モルディブ沖に潜って撮影した「Impressionen unter Wasser」は現在日本で公開中。 1902(明治三十五)年ベルリン生まれ、享年 百一歳。なんともすさましいDeutsch-heit Fräuleinの生きざまである。 ご冥福をお祈り申し上げます。
 
主要参考ならびに引用出典;
 
「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」鈴木 明 1975年 文藝春秋社
リリー・マーリン公式ホーム・ページ The Official Lili Marleen Page

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