追憶の 邊見じゅん(本名 清水眞弓)

平成二十三(2011)年九月二十一日 入寂

辺見じゅん 「男たちの大和」
 
まだ この本を讀んでゐない人達のために。
映畫だけでは 全貌が判りません。 是非 「原作」をお讀み下さい。
 
世の中には とても信じられない事がある。
映畫「男たちの大和/YAMATO」を視て、先ず思ったことは、原作者 ”辺見じゅん”とは 鈴木京香扮する 内田眞紀子まきこさんのペンネーム、即ち 中村獅童ふんする 内田 守海軍二等兵曹の養女の著作小説であり、あれは完全な造 り 話フィクションか さもなくば映畫用の脚 色シナリオだと思ってゐた。
 
辺見じゅんさんの「男たちの大和」上、下を讀んで あれが實話であることを知り、さらには 昭和二十年四月七日「軍艦大和」に三千三百三十三人目の乘艦者名簿外の乘員がゐた事を知って驚愕した。
 
内田 貢海軍二等兵曹は 出撃時 乘艦者名簿に記載されてゐない員数外の乘組員であり、その養女 牧 子まきこさんは 養父のたっての遺言に因り、三回忌の一月後の平成十六年四月七日 「軍艦大和」の六十回忌に 鹿兒島縣枕崎からヘリコプターをチャーターして沈没地點に亡き養父の遺志を實行すべく散骨をしたと謂う。
 
内田 みつぐ氏は三重縣四日市の出身、昭和十六年の徴募兵で 當時二十二歳だと謂うから 享年は八十三歳でしょうか。 戰後 海外旅行の折り、銃彈の破片だらけの身體が中正機塲の金属探知器に反應したと謂う文字通り 満身創痍のおからだで 戰歿三千余柱の御 霊みたまのご加護があったとはいへ、天壽をまっとうされたことも 驚きの一つです。 現役時代 身長五尺九寸四分 (180 cm)、體重二十一貫三百三十匁 (80 kgs)  講道館柔道五段だと謂うから 當然 徴兵檢査甲種合格でしょう。 陸軍がなぜ 二年間も徴兵猶豫したのか不思議なくらいです。
まれにみる恵まれた體格とともに 希有強靱な意志の持ち主だからこそ、過酷な戰塲を生き抜き、戰後の混亂混迷の世の中を十一人もの養子女を育てあげることが出來たのでしょう。 頭も切れ、部下の人望もあり、上司の信頼が厚ければこそ、水兵長で異例の「甲板と役割の両方」を委されたのでしょう。 當然 「呑む、打つ、買う」の三拍子揃った「伊達丈夫」だと思いきや、酒は飲めず、博打にも縁がないと謂うから これまた 別の驚きです。 辺見じゅんさんの令弟カドカワ・ハルキ氏は自身のweb-site「青柿山房」の中で「主人公は戰後ヤクザとなった下士官」と表現してをられますが、これはハルキ氏の敬愛を込めた精一杯の賛辞であり、三等水兵のときからの根っからの「ヤクザ」です。

阿川弘之氏は讀賣巨人軍のオーナーであった品川主計氏の言葉を引用して 或る海軍將官の「あれは海軍のヤクザみたいな男」と謂う山本五十六評を紹介してゐるが、山本五十六 が 内田 貢に めをかけたのは ヤクザの大親分が内田 水兵のなかに共感、共鳴するものを見出したからであろう。
劇場映畫という限られた空間の中では、一水兵が山本五十六聯合艦隊司令長官から短劍(と 茶掛)を拝領する經緯は判りずらい。 辺見さんは その辺も 分り易く輕快に筆をすすめてゐます。
牧子さんが 「F家から貰われて来た、垢だらけの眞っ黒い顔した」、そして風呂に入れたら「えらい色の白い子」になった貰い子かどうかはわかりませんが、養父の生きざまを目 側まそばで見よう見まねで見習って育った「賢い」聡明な そして鈴木京香のように美しい方に相違ない。 内田さん一家のお話だけでも 一編の物語です。
とにかく「原作」を讀んで下さい。 そのかわり、滂沱の涙を流すことなくしては讀めない事も あらかじめ 承知しておいて下さい。
 
昭和五十八(1983)年に上梓された「男たちの大和」は 作者の辺見じゅんさんが三年余をかけて二六九名(「慟哭の海」 P-117)の生還者の消息を訊ねて 一一七名の方から證言を得て書き上げたものだと謂う。 兵科士官の生還者は 豫備學生出身者を含めても十指にすぎず、證言者の大部分は 所謂いわゆる 下士官兵である。 だから 話の内容も 勢い 内田 貢二等兵曹はじめ 三笠逸男上等兵曹 や 丸野正八二等主計兵曹(映畫では 反町隆史演ずる 森脇庄八)等、下士官兵の目線での實話が中心となってゐる。


高角砲分隊師範徴兵の坪井平次水兵長(終戰時 一曹)の同郷の大崎光泰工員から聞いたと謂う 三聯裝主砲齋射の仕組み (公式には「九八式發射遅延装置」と謂うらしい)の話なんかも 今となっては他に語る事の出來る人のいない 貴重な證言である。 この主砲の膅徑が實寸 460 m/m だったのか、帝國海軍の慣例通稱通り 18 inches (≒ 457.2 m/m) だったのか興味あるところ。 恐らく圖面は遺っていまいが、種々資料を勘案斟酌すると 實寸 460 m/m だったようだ。 條約問題が再燃しても既存實績で 460 m/m 砲で押し通すつもりであったのであろうか。

戰艦主砲としての三聯裝は「軍艦 大和」が最初であるが、巡洋艦の主砲としては、歐米の六吋砲 (≒ 152.4 m/m) を凌駕するために條約期限ぎりぎりに續々誕生した「最上もがみ」型に搭載された「六十口徑三年式三聯裝十五糎五砲」(塘徑 155 m/m)があり「三聯裝砲」特有の問題点は解決濟みであったと思はれる。
條約失効後 最上型を 一等巡洋艦に昇格させるため「聯裝五十口徑二十糎砲」(塘徑 8 inches≒ 203.2 m/m)に換装され、奇しくも この「六十口徑三年式十五糎五砲」がそのまま「軍艦 大和」の副砲として搭載されてゐる。 もともと「二等巡洋艦」の主砲塔として設計されてゐたので、仰角は「 55°」、對空射撃も可能であったわけである。

英Barrow-in-Furness造船所建造の「軍艦金剛」に副砲として搭載されてゐた 英Vickers, Ltd.製「五十口徑 毘 式びしき單裝六吋砲」(膅徑 6 inches≒ 152.4 m/m)は 砲彈重量 100 lbs (45 kgs)。 人力装填のため日本人の體力では手に負へないので これを 12.4 m/m scale-downして 十四糎砲とした「五十口徑三年式單裝十四糎砲」(人力装填)が 戰艦 長門、陸奥の副砲、二等巡洋艦 天龍、球磨 等の主砲として採用されてゐた。(砲弾重量 38 kgs.) 

「六十口徑三年式十五糎五砲」は、 「安式」のすっかり模倣である「五十口徑四一式十五糎砲」の膅長を六十口徑として膅徑を5.0 m/m bore-upし 三聯裝自動装填とすることにより 最大射程が 21,000 から 27,400米、 砲彈重量 45 から 56 kgsと いずれも 20%性能 up してゐる。

映畫のなかで 訓練中に高角砲彈を取り落とす塲面があったが、「軍艦 大和」の高角砲は「四十口徑八九式 (1929) 聯裝十二糎七砲」(膅徑 5 inches = 127 m/m)で 装彈重量 32 kgs。 十五、六歳の少年兵には重すぎる重量である。

世界最大の「四十五口徑三聯裝四十六糎砲」(機密秘匿のため部内正式呼稱は「九四式四十糎砲」)は 「計算圖表學」の泰斗で、當時の艦政本部第一部長 谷村豊太郎海軍造兵少將(昭和十二年十二月一日 中將進級)の設計になるもので、谷村中將の事は阿川弘之氏が その著書の中で「海軍省將官食堂で、次官の山本に、火のついたマッチの軸を、十銭白銅貨の穴に火を消さずにうまく通せるかどうかという賭をいどんで・・」山本五十六海軍次官をひどく悔しがらせたエピソードを紹介してゐる。

コンピューターのなかった時代、膨大な計算を ヘンミ計算尺 と タイガー計算器の手作業でやるのは並大抵なことではなかったであろう。

因みに 谷村豊太郎工學博士は後に 我が母校 藤原工業大學 (Fujiwara Institute of Technology)(慶應義塾大學藤原記念工學部、現慶應義塾大學理工學部) の初代工學部長を勤められ、學長は小泉信三慶應義塾塾長が兼務されてゐたことを知る人もいまやすくなひ。

學部長就任は 當時の 東京帝國大學総長、男爵、海軍造船中將 平賀 譲工學博士の推輓によるものであろうか。
谷村中將は 現役時代 東京帝國大學工學部造兵科教授も兼務されてゐる。 

「三年式」(1914)以前の 「四一式」 (1908)は 「安式あんしき」 (Sir W.G. Armstrong Whitworth & Co.) の そっくり模倣であるから、この「九四式」(1934)が 主力艦の主砲として初めての 我が國獨自設計と謂う事になる。 
 

(寫眞をクリックしていただくと 寫眞の説明がご覧になれます。)

下士官兵の目線での證言が 無数の横糸になってゐるのだが、劇場映畫の限られた空間の中では語られてゐない「軍艦大和」誕生の經緯から、伊藤整一第二艦隊司令長官の事、ご令息 あきら海軍中尉の事、Raymond A. Spruance 米第五艦隊司令長官との若き日の交友の事、慶應義塾出身の日系二世 中谷邦夫兵科豫備中尉の事、沖縄への特攻出撃の經緯についても詳細に語られている。
そこの部分は「戰藻録」はじめ、吉田 満、兒島 襄、阿川弘之、吉村 昭 等、軍艦大和に係わる総ての資料が余すところなく引用されてゐる。
加へて、聖 書バイブルとも謂うべき「戰艦大和ノ最期」のなかの「艦長有賀幸作大佐御最期」の記述を覆すような 運用科の 高橋 ひろむ一等兵曹、艦長傳令の 長坂 きたる二等兵曹、塚本高夫二等兵曹の證言を引き出してゐる。

  山本祐二第二艦隊先任参謀、川崎勝巳高射長の最期についても 貴重な證言である。
兵科第五十一期恩賜短剣の山本祐二大佐(任 海軍少將)については 二人の御令息宛の遺書を あらかじめ 岳父豊田貞次郎(兵科三十三期、海大十七期 首席、海軍大將)に託してゐたといわれるので、覺悟の自死であろうか。 聯合艦隊作戰参謀として海軍乙事件に巻き込まれ、聯合艦隊 『Z』 作戰計畫書を敵手に委ねたという 重い十字架を背負っての日々の清算だったのであろうか?


「軍艦大和」のすべてが 1,600 枚のこの本の中に凝縮網羅されてゐる、いわば「完全決定版 軍艦大和」である。
 
 
私が引用したものは、昭和五十九年八月十日發行の「男たちの大和 上」七版と 昭和五十九年六月十五日発行の「同 下」四版であるが 重版の割には 誤記、誤植が多数そのままになってゐる。 これがハルキ文庫「決定版 男たちの大和」では誤植は 殆ど訂正されてゐる。 そもそも角川書店發行の原作は夫々「初版 第七刷」、「初版 第四刷」とすべきものの誤記であろう。
 
初版本しょはんぼん」と「決定版」では 先ず目次のサブ・タイトルがすっかり變はってゐる。
 

  初版本     決定版  
  第一章     箱  船   神  話
  第二章   待  機
  第三章   要  塞   海  戰
  第四章 特  攻   特  攻
  第五章   爆  沈
  第六章
  第七章   伝  説   鎭  魂

 
そこで「決定版」の重箱の隅を 少し意地悪く ページを追って順番につついてみると;
 
先ず碇泊中の旗艦での晝食時の軍楽隊の演奏の事だが(決定版P-84)「從兵の合図で、長官がスプーンをとると同時に、岩田軍楽隊長が指揮棒をふりはじめる。」とある。
これ 阿川弘之「山本五十六」では「・・司令長官が、長官私室のドアをあけるのとほぼ同時に、楽長の指揮棒が振り下ろされ、長官が廊下を食堂まで歩いて來る間、まず行進曲が一曲奏でられる。」となってゐる。
これは 旗艦が「軍艦 長門」時代のことではあるが、菊島隆三・小國英雄脚本の二十世紀 FOX 映畫「トラ・トラ・トラ!」の中でも、山村 聡扮する山本五十六聯合艦隊司令長官が長官私室を出ると同時に 從兵が「長官、おみへになります!」と聲をかけ すかさず指揮棒が振り下ろされる活動寫眞になってゐる。
 
旗艦になって間もなく見学にも来られた。 そのあとも、昭和十七年二月二十一日から数日間、艦上での聯合艦隊の図上演習にも参加されている。」(P-97)
 
「高松宮日記 第四巻」
昭和十七年二月十九日(木)曇
○九○○軍令部、飛行機天候曇ニテ延期。
 
二月二十日(金)晴 風
○九○○羽田發、岩國空ヨリ聯合艦隊へ。
羽田飛行塲發DC3、岩國空一二四○着。晝食、一四○○發「大和」へ。一七○○「長門」へ、宿泊。
 
二月二十一日(土)晴
「大和」圖演、見學。
二月二十二日(日)
「大和」圖演、午前中二終ハル。主砲、砲室、彈火薬庫、指揮所、發令所ヲ見ル。午後「長門デクラス。」
二月二十三日(月)曇晴
圖演研究會(午前中)。晝食、竹田様(竹田宮恒徳王)モ御來艦。
長官室ニテ會食(司令部)。午後「長門」ニテクラス。
二月二十四日(火)雨風 午後雨ヤム。
天候惡ク岩國ヨリ汽車ニテ皈京。
 
「軍艦 大和」が聯合艦隊旗艦となったのは 昭和十七年二月十二日(木)午前九時の事で二月二十日迄の間 見學に行かれたとの記述は「宮日記」には見當たらない。 
 
「高松宮日記 第四巻」が上梓されたのは一九九六(平成八)年のことであり、「初版本」は「戰藻録」を引用して書かれたものだと思はれる。廿日の項に「高松宮殿下外軍令部員來隊視察」とある。
 
当時総監部員の奥村少佐は、・・・」(初版P-84)は「決定版」では「奥宮正武少佐」に訂正されてゐる。(決定版P-101) 兵科五十八期の奥宮正武は当時 少佐で昭和十九年十一月一日に中佐に進級して終戰を迎へてゐる。
 
その時の階級で記すのが常識的であるが、「一號艦の設計計畫主任の福田啓二少佐・・・」(初版P-28)が「決定版」(P-35)では「福田啓二中將・・・」になってをり、一方 山本五十六と「蜂の巣甲鈑」の問答のくだりでは(初版P-42、決定版P-52)「福田啓二造船少將」になってゐる。
福田啓二は 昭和五年十二月一日 海軍造船大佐、昭和十一年十二月一日 海軍造船少將、昭和十五年十一月十五日 海軍造船中將に進級、昭和十七年には艦政本部第四部長兼務のまま 東京帝國大學工學部教授に就任してゐる。
この話は 艦政本部第四部基本設計主任として 二艦建造が正式決定した昭和十一年七月前後に 當時 航空本部長であった山本五十六中將と交はしたものだと思はれるので、「福田啓二海軍造船大佐」とするのが正解ではあるまいか?
十二月一日には山本五十六中將は海軍次官に就任、福田啓二は海軍造船少將に進級と同時に基本設計主任の任を解かれて 艦政本部出仕となってゐる。
 
ただ一隻生き残っていた、「飛龍」も敵艦載機の雷撃で撃沈された。」(初版P-86、決定版P-104)
軍艦「飛龍」を攻撃したのは Enterpriseを飛び立ったW. Earl Gallaher 大尉率いる24 機の艦上爆撃機 (Dauntless SBD dive bombers) で(うち10 機はYorktown所属)前部昇降機附近に 500Lbs 爆弾4 發が命中。
それでも暫く 30 Knotts を維持したと謂はれる。 結局 搭載魚雷、爆弾の誘爆で 山口多聞第二航空戰隊司令官と加來止男艦長の二人を残して 総員退去。 護衛の驅逐艦「巻雲」から二本の魚雷が發射されたが それでも沈まず。 翌朝「鳳翔」の偵察機が漂流する「飛龍」を發見、驅逐艦「谷風」に救助電が發せられたが敵機の妨害で現塲到着ならず。「飛龍」の最後を見届けた者はゐないと謂う事になってゐるが、艦底に取り残された乘員約 70 名が「巻雲」の雷撃で出來た破口から脱出、35名がカッターで漂流中のところを六月十九日に米驅逐艦に救助されてゐる。
 
「艦載機」 と謂うのは 艦船のカタパルトから射出されるフロート付の水上飛行機の総稱で、帝國海軍では 航空母艦の飛行甲板を發着する飛行機は 「艦上機」 (艦上戰闘機、艦上偵察機、艦上爆撃機、艦上攻撃機) と呼稱してゐた。
もっとも現代ではNHKまでが 「空母艦載機の岩國基地への移転問題・・・」 なぞと 新造珍語を流布させて、しかもこれが現代語として定着しつつある。 
 
内地からの演藝慰問團がトラックにやって來たのは、年が明けて昭和十八年一月に入ったころだった。」(決定版P-134)
この項 初版本では「昭和十七年十二月に入ったころだった。」(P-107)として第二章 第4項冒頭に記載されてゐたものを、一ヶ月ずらすために 決定版では年末の餅つきの話を前に入れ替へるため 版組を變へてゐる。
佐藤千夜子一行のトラック島慰問の話は 2004(平成十六)年6月に上梓された工藤美代子「海燃ゆ、山本五十六の生涯」の中で同行した花柳京輔の述懐として「これが昭和十八年四月のことなので、・・・」として「聯合艦隊旗艦 武藏」での出來事として描かれてゐる。
決定版では初版本になかった「ボートで漂流中、「雪風」が見つけて救助した。」(決定版P-134)と謂う部分が加筆されてゐる。
一行は海軍病院船「氷川丸」に便乘して歸國してをり、この時途中サイパンに寄港してカダルカナルからの最後に撤退した患者370人を降ろしたと記録されてをる。 しからばこれは昭和十八年二月二十日トラック入港、二月二十四日出航の氷川丸第十次航海の時に相違ない。 氷川丸船上で撮された寫眞の千夜子はセーター姿ながら同行の男一名女子三名は和服姿である。
一行のトラック滞在が「数日間トラックに滞在して・・・」(初版P-109、決定版P-136)と謂う記述を採るなら、聯合艦隊旗艦が「大和」から「武藏」に變更されたのが二月十一日であり、千夜子一行が「大和」に泊まったのは旗艦變更後ではなかろうか?
ちなみに「氷川丸物語」によると、千夜子一行が乗っていた輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没したのは メレヨン島(現 米領ウオレアイ)附近で 泳いでいるところを近くにゐた平安丸に救助されたとある。 平安丸とは日本郵船シアトル航路の氷川丸の姉妹船で、當時 海軍に徴用されてゐた 特設潜水母艦。

昭和十九年十一月頃シンガポールの病院から大和の重軽傷者が「病院船「第二氷川丸」で内地に向かった。」(決定版 P-326)
この「氷川丸」はNYK日本郵船とは無関係の オランダの病院船 S/S Opten Noort で 開戰直後 帝國海軍の臨検で拿捕、接収。 暫く「天應丸」の船名で海軍病院船として活躍してゐたが、昭和十九年十一月、突如「第二氷川丸」と船名變更し、更には 二本煙突に擬装されてゐる。
なにかと疑惑の残された船で 終戰直後 八月十八日 舞鶴軍港内で自爆自沈處分されてゐる。

 
初版本を讀んでいて「ワレ期待ニソムカザルベシ」(初版 下P-25)と謂う言葉遣には違和感をおぼえたが、これは『戰艦大和ノ最期バイブル』の「外洋ノ朝」に”ワレ期待ニ背カザルベシ”とあり、ここからの直接の引用であろう。
さすが決定版では「ワレ期待ニこたエントス」(決定版 下P-30)に改定されてゐる。
 
重箱の隅をつつくのはこれくらいにしときましょうか。

興味深い話も多々ある。

二十一歳の兵科士官に 他人を引きつけるような「死生觀」を語ることが出來るのであろうかと疑問を感じてゐたが、臼淵 磐少佐(兵科七十一期)の横濱一中時代の擔任が 高名な萬葉學者である 犬養 孝氏(萬葉集の最高權威者、文學博士、阪大名誉教授)であったと知って納得がいった。
吉田 満氏のご令息 望氏が自身の blog 「nozomu.net」の中で 『映畫「男たちの大和」は名作であるが盗作がある』なる一文を掲載されてゐる。
辭任した民主黨のエリート代議士の先輩筋にあたる 東京大學工學部のご出身。 秀才論客らしく「合祀問題」なぞも論じてをられるが 浅學私には エリートの論理は難解すぎて良く分からない。

主食の給與が麦三分混じりとはゆえ 一日六合。 年間に直すと「二石」。 これは江戸時代の扶持の二倍である。 目方に直すと 約300kgsだから 現代では考えられない大量である。 (現在の米飯としての日本の年間消費量は約600万トン、一人あたりの平均値は 一俵 = 60 kgs) これに加えて野菜300grm、肉180grm、魚150grmが定量であったというから、非常に豐な給養だったといえる。

最終章の「鎭魂」に 全體の四分の一の頁數を費やしてゐる。 生き残った人達の 戰後の生きるための苦闘の記録である。

「決定版 文庫本あとがき」にある 最年少十五歳の少年兵として生き残り、五十代の若さで逝った正木雄莊氏の話も涙なくしては讀めない。

正直のところ、「女」に「戰記」が書けるものかとの「惟ひ」もあり、「沖縄特攻命令發令」の經緯については 私なりの異論があったのだが、ここまで完璧なまでに精査されてゐると ここは矛を納め兜を脱ぎます。

辺見じゅんさん、氣わるうせんといて。

この本は 涙を見せたくない人の前では讀まぬこと。 一氣に讀むと息が詰まるので、時々 僕の駄洒落で生き抜きしながら讀んで下さい。
                             (2006/03/18 初稿)(2006/04/12 加筆改定)
 
主用参考ならびに引用出典;
「男たちの大和 上」 辺見 じゅん 角川書店 昭和五十九年八月十日 七版
「男たちの大和 下」 辺見 じゅん 角川書店 昭和五十九年六月十五日 四版
 
「決定版 男たちの大和」上下 辺見じゅん ハルキ文庫 2006年1月18日 第十七刷
「レクイエム・太平洋戰争」 愛しき命のかたみに 辺見じゅん 一九九四年十月二十五日 第一版第一刷
 
「高松宮日記」第四巻 中央公論社 一九九六年七月二十五日 初版發行
「戰藻録」 宇垣 纏 原 書房 昭和四十三年一月
「新版 山本五十六」 阿川弘之 新潮社 昭和四十四年十一月三十日 初版初刷
「戰艦大和」上下 兒島 襄 文藝春秋社 昭和四十八年三月一日 第一刷
「戰艦武藏」 吉村 昭 新潮社 昭和四十一年
「鎭魂戰艦大和」 吉田 満 講談社 昭和四十九年
「提督伊藤整一の生涯」 吉田 満 文藝春秋社 昭和五十二年十一月十五日 第一刷
「慟哭の海」 能村次郎 讀賣新聞社 昭和四十二年八月二十五日 第一刷
「海燃ゆ、山本五十六の生涯」 工藤美代子 講談社 2004年6月10日 第一刷
「氷川丸物語」 高橋 茂 かまくら春秋社 昭和五十三年六月 初版

「日本戰艦物語」 II 福井静夫 光人社 1992年8月
「海軍艦艇史」 I 戰艦・巡洋戰艦 福井静夫 ベストセラーズ社 1974年8月

「EAGLE AGAINST THE SUN」, The American War with Japan by Ronald H. Spector, The Free Press, N.Y., 1985
「A Battle History of THE IMPERIAL JAPANESE NAVY (1941-1945)」by Paul S. Dull, the United States Naval Institute, Annapolis, MD 1978
陸海軍將官人事総覧(海軍編)芙蓉書房 昭和61年 第6刷
「提督・スプールアンス」The Quiet Warrior by Thomas B. Buell 小城正譯 讀賣新聞社
 



inserted by FC2 system