米海軍アプラ基地

APRA HARBOR NAVAL RESERVATION

いよいよ帝國海軍が占領時代 「須磨」 (Sumay)と呼んでゐた「表半島」 (Orote Peninsula) の米海軍基地です。 

9-11以降 警備厳重で 立ち入りは厳重に制限されてゐます。
沖縄の海兵隊 8,000 人は家族と共に この基地内に移動が予定されてゐます。 

ご存知 「甲標的」 ですが、「軍艦旗」 も 「51」 と謂う番号も まったく意味はありません。 つい先日までは 軍艦旗の旭日の中に 「302」 と謂う数字が書いてありました。

なんとも哀れな姿ですが、右の寫眞、英文説明に 「十四年式 (1925) 一○五粍高射砲」 とあります。 左の寫眞も同じ形状です。 まん中は「九六式二十五粍聯裝高角機銃」です。

英文の説明によると 「アプラ港に沈む東海丸から引き揚げられた備砲 (Bow Gun)」 とあります。

海軍徴用船であった 大阪商船貨客船「東海丸」沈没については 諸説あるようですが 昭和十八 (1943)年八月二十七日、米潜水艦 Bowfish の港外からの雷撃によるものというのが米國側の定説です。

 

靴をぬがされ、尻尾を斬られた ちょっと 哀れな姿の「一式機動速射砲」です。

 

こちらは 「短二十糎砲」 と 保存状態良好な 「一式機動速射砲」
四十七粍速射砲の保存状態が良いのは 以前 T. Stell Newman Visitor Center に屋内展示されてゐたものだからだと思われる。

九四式三十七粍速射砲が見当たらないのは これが M-4 Sherman 戰車に無力であることを ソロモン緒戰での体験で承知して 最新鋭の「一式四十七粍機動速射砲」を マリアナに優先的に配備したためでしょう。

PAN AMERICAN CLIPPER LANDING SITE

Pan American Airways Inc. leased the former Marine aviation squadron base for their China Clipper Service. Weekly flight between San Francisco and Shanghai, China began in October 1935. Each clipper plane held about 50 passengers who flew first to Pearl Harbor, Hawaii and then on to Midway, Wake, Guam and Manila. Overnight stays were at Pan American owned hotels constructed at each of these locations. The entire trip took five days. The Clippers put Guam on the map bringing rapid mail and cargo service as well as visiting businessmen, politicians, celebrities and reporters to the island. Clipper service ended with the Japanese bombing of Pan Am Headquarters in December 1941.

 

ここが有名な 「チャイナ・クリッパー」 の泊地です。  開戰直前、日米交渉行詰まり打開のため 急遽 派遣された 來栖三郎大使が使った事で有名ですが、帝國海軍では軍令部第三部が グアム や ミッドウエーの事を空から調べるために 機会ある毎に この便を使ってゐました。 下の四葉の寫眞は 語研留学生が機上から撮影した 当時の貴重な影像です。

現在は使われてゐない滑走路。

Abandoned 1,650 yards runway. Once base of Zero fighters of the 263rd and Betty's of the 755th air squadrons of IJN.

ここは往時 豹第二六三海軍航空隊(零式艦上戰闘機隊)(司令 玉井浅一中佐(兵科第五十二期)、 飛行隊長 重松康弘大尉(兵科第六十六期)) ならびに 第七五五海軍航空隊(一式陸上攻撃機隊)(司令 楠本幾登中佐(兵科第五十二期)、 飛行隊長 巌谷二三男少佐(飛行學生第二十七期)) が駐屯してゐた 須磨第一飛行塲。

当時の地図で調べると、1,650 Yards (1,500 M) の滑走路が N-105° 即ち 3-30' の方向に一本だけ延びてゐる。
現在の グアム國際空港は4,000米級一本が N-65°即ち 2-27′であり、進入は常に南から、離陸は北に向かってをり、風向は北々西だと推測出來る。
なれば N-105°の滑走路、就中 中攻のような大型機には 離着陸が非常に難しかったのではなかろうか?
戰後 これに 40°で T 字に交はる N-65°800 Yards が追加されてゐる。

上の寫眞一番目が東西の西側、二番目が東側、三番目 マイクロバスが撮っているのが N-65°方向。
孰にしても 現在は使はれてゐません。 沖縄の海兵隊が来ると ヘリ基地として使うのではなかろうか?

  

昼食を饗された食堂の前に鎮座した錨。 「十屯イー三」と読める。

 

ダディー・ビーチ (Dadi Beach)、 ネジェ島 (Neye Is.) の対岸東側。 この辺りは 飛行機をなくした 楠本司令以下が 航空魚雷を地雷に改造して埋め立て、7.7 m/m 200 挺、20 m/m 54 挺で武装して立て籠もった塲所です。

 

 

 

濠の中で バランスをくずして転び、手を擦りむきました。

附近の浜辺に自生する 「濱晝顔はまひるがお

 

珊瑚礁で擦りむいた傷は意外に深く、出血が止まりませんでしたが、ガイドさんが アロエに似た薬効があると話してゐたのを思い出し、手折って白い樹液を塗ってみました。 驚いた事に、出血は ピタリと止まり、その後の傷の治癒も迅速でした。 ここで散った英霊のご加護であったのかも知れません。 感謝、合掌。

「スマイ ヒストリカル トレイルツアー」はこれでお終いです。 アサン海岸を左手にみながら、ホテルまで送ってもらいました。

ところで この「太平洋戰争國立歴史公園」には 米軍の魚雷と爆弾が展示してあるのですが、「太平洋戰争50周年記念寫眞集」として出版された 風雅書房発行の「残像」なる写真集に これが「九四式酸素魚雷」 と 「二百五十キロ爆弾」 だとして 間違って掲載されてゐます。

  

重量 3,981 lbs. (1,806 kgs) 米國海軍の艦船用 MARK XIV Model 4 魚雷です。

九四式酸素魚雷と謂うのは、試製の航空魚雷で800 kgs 級。 九三式なら 61 cm 艦船用で2,800 kgs 級。

  

重量 1,700 lbs. (773 kgs) 米軍の MARK 80 Model 0 陸用爆弾です。
大きさからしても 「二十五番」 である筈がありません。

あの本は ピティ山の「三年式五十口徑十四糎砲」が 「アガニャ山十五センチ榴彈砲」 であったり
「短二十糎」 が 「陸軍十榴」 であったりと
その他にも間違った記述が多々あり 文字通り間違だらけの、 読者に対し罪作りな本です。

  

これは 基地内の Marianas Military Museum の前に展示された GM Fisher-Body 製の 3-inch 對空砲 ですが 「残像」には「高角砲」として掲載されてゐる。 砲架に鋳出され、砲身にも その旨刻印されてゐるのだが、筆者の NM氏は 英語を全く解さないらしい。

アサン國立公園にあった 「T. Stell Newman Visitor Center」 は 先年の颱風で閉鎖となってをります。

"The Sumay Historical Trail Tour" is operated daily by Kloppenburg Enterprises, Inc.

(2006/05/20 初掲)

主要参考ならびに引用出典;

戰史叢書「中部太平洋陸軍作戰」<1> 防衛廳防衛研修所戰史室
戰史叢書「マリアナ沖海戰」 防衛廳防衛研修所戰史室
「あ號作戰」 海軍報道班員 堀川 潭 圖書出版 1978年10月
陸軍機械化兵器 兵頭二十八・宗像和広 銀河出版 1995
図解日本陸軍歩兵 中西立太・田中正人 並木書房 2006年5月
陸海軍將官人事総覧 芙蓉書房
The RECAPTURE of GUAM, Major O. R. Lodge, USMC 1954

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