GUAM REMINISCENCE

大宮島再攷

大宮島といっても どこの島だか いまや 知る人もすくない。

六十二年前、日米が争奪に死闘を繰り広げたマリアナの孤島。 いまや多くの日本の老若男女が 避寒に、ショッピングに、レジャーにと訪れる楽園、 グアム島の戰跡探訪 「須磨歴史探訪」 (SUMAY HISTORICAL TRAIL TOUR) への ご案内。

Route-1 (Marine Corps Drive) を南に下って 先ず最初に案内されたのが、雨ざらしの兵器展示場。 うろ覚えの記憶で 塲所がさだかではないのだが 慥か Route-5 辺りだと思う。 ともかく ナンジャモンジャ博物館。  

九五式輕戰車「ハ號」 裝甲わずか 12 m/m で Browning 0.50 calibre M/G 徹甲弾を防御出来なかった。
武装は 九八式三十七粍戰車砲一門、九七式車載重機二挺。 

Model 95 (1935) light tank, 7.4 tons weight, driven by 120 PS air-cooled diesel engine. One 37 m/m Cannon and two 7.7 m/m M/G.

「一式機動速射砲」 口徑四十七粍 對戰車砲。
ノモンハンでの戰訓に鑑み、支那戰線で鹵獲した 獨逸製 47 m/m anti-tank gun を模倣して
設計したものだが、砲弾の素材技術が伴はず 正面裝甲 2.5 inches の M-4 Sherman 戰車に対しては 苦戰したと謂はれる。
保存状態の良いものを 島内のあちこちで見ることが出來る。 記録によると 全部で 33 門が配備されてゐたと謂う。

Model 1 (1941) 47 m/m calibre anti-tank gun.

四一式七十五粍山砲。 (聯隊砲) 車輪は solid-wheel の筈ですが。

Model 41 (1908) 17.3-calibre 75 m/m mountain gun.

 

改造三八式野砲

Modified Model 38 (1905) field gun, 31-calibre 75 m/m.

次に案内されたのが Adelup (見晴岬)からRoute 6 (Halsey Drive) を上った右手の掩蓋濠。
現在の地名は「Mangan Quarry」とあるが 当時 日本側が呼稱してゐた「マンガン山」ではなくて、
私の推測では ここが 「本田臺」 だと思う。 現塲の説明では 戰前からあった採石場だとある。

 

上の二葉の左側の入り口から入ると 内部がコの字型になってゐて、下の六葉の寫眞が その内部を示す。

二番目、三番目の寫眞は 負傷兵治療用の診察台だと。

構造は戰前の儘だが、戰後 米海軍設営隊の手で改変されたとある。
(The structure existed during the war, but was modified after the war by Navy Seabees.)

第二十九師團長 高品 たけし陸軍中將は 七月二十六日 ここに師團司令部を進出させ 小畑英良ひでよし第三十一軍々司令官(士候二十三期、陸大三十一期恩賜、航空科、駐英、戰死後 任 陸軍大將)と共に総攻撃の指揮を執る。 二十七日 一九○○ 指揮下部隊に対し 北方山中への転進、持久の師團命令を下達、自らは 二十八日払暁、敵戰車群の重囲下を脱出して折田(Ordot)へ向けて転進中、一四○○、本田臺南東二粁の的野高地(Mt. Macajna)中腹で 機関銃弾を胸に受けて壮烈な戰死を遂げる。

高品中將は 千葉縣出身、士候第二十五期、陸大第三十四期、歩兵科で大佐時代、武漢三鎭攻略戰に 高品支隊(名古屋第十五師團麾下の 歩兵第六十聯隊(京都)基幹)を率いて 漢陽に一番乗り。 獨立混成第十七旅團長等を経て 昭和十八年十月 第二十九師團(名古屋 滿洲遼陽)長。

豪放磊落な性格で サイパンの帰趨が既に決した六月十七日の時点で、師團司令部で少佐の副官にヤシ葉の扇でゆるやかな風を送らせながら、「敵が上陸したら関東軍精鋭がひとたまりもなく撃滅してみせるよ!」と 軽い笑みを浮かべながら低い声で自信ありげに言い放ったと 海軍報道班員が記録にとどめてゐる。

ご令息 高品武彦陸軍大尉(終戰時)は士候第五十四期恩賜。 後に 陸將に昇進、 第十四代陸上幕僚長、 統合幕僚會議々長を勤める。

Lt. General Takeshi Takashina's Command Post from July 26 through 28, 1944. He was the Commander of the 29th Infantry Division of the Imperial Japanese Army. He was killed by American machine gun fire when leaving the post on July 28 at 2:00pm.

Route 6 (Spruance Dr.) を先に進むと Asan Bay Overlook と呼ばれるところへ来ます。 ここが日本側が「マンガン山」と呼んでゐた塲所だと思います。
上の三葉の寫眞は左から 海軍部隊が守備する「表半島」(Orote Peninsula)、まん中に見えるのがピティ(Piti)発電所と「羊島」(Cabras Island)、右にかすんで見えるのが「浅間岬」(Asan Point)から「見晴岬」(Adelup Point)までのリーフです。
ピティ発電所は れいの有名なエンロンと東棉の合弁だったのですが 煙が出てゐるところをみると、どうやら 今でも稼働してゐるようです。

マンガン山へは 七月二十三日の総攻撃下令により 重松 潔陸軍少將(士候二十六期、戰死後 任 陸軍中將)指揮の 獨立混成第四十八旅團が進出、布陣。 二十六日 米軍戰車数十両に包囲され、重松旅團長は「不肖、重要正面守備ニ任ジタガ、今ヤ全部下ヲ失ヒ、戰勢挽回ノ道ナシ、誠ニ慚愧ざんきニ堪ヘヌ。 少数部下トトモニ マンガン山ヲ死守ス、師團長以下生存者ノ武運長久ヲ祈ル。」との師團長あて報告を伝令に託し、戰死を遂げた。

 

次なる塲所が定番の昭和灣(Agat Bay) の「番庄崎」(Ga'an Point)。 ここは 末長常太郎陸軍大佐指揮の 歩兵第三十八聯隊(奈良ー滿洲遼陽りょうよう)が守備してゐた塲所です。 歩三十八と謂うよりは あの有名な 横井庄一伍長の聯隊だと云ったほうが分かり易い。

上の二葉の寫眞は 「たん二十センチ砲」 と 「九六式二十五ミリ聯裝機銃」

短二十は 帝國海軍独自設計で呉海軍工廠製。 砲弾重量が 110 キログラムもあり これを手動装填するのは容易ではなかったであろう。
計画では佐世保海軍工廠の担当で 24 門が据付けられる事になってゐたが、七月二日の時点で、見晴岬 (Adelup Point)、昭和灣 (Agat Bay) のものは据付けを完了してをり、岡岬 (Oca Point) のものは八分通り完成と記録されてゐる。
後にガン・ビーチの名前の由来になった 富田灣 (Tumon Bay) のものと併せ、いづれも 天然洞窟の中に隠蔽して据付けられてゐた。

この頃、米巡洋艦群は 頻繁に接近してきて盛んに 丘上の陸軍陣地にたいして砲撃を加へてゐたが、海軍第五十四警備隊司令 杉本 豊大佐(兵科第四十六期)は 砲台の所在を知られる事を虞れ反撃発砲を慎重に控へさせてゐた。

七月二日午後八時過ぎ、「敵艦ハ前方千米ニ接近、静止状態ニ入ル」と謂う 昭和灣砲台長から 明石 (Agana) の警備隊司令部への電話連絡にも沈黙を守ってゐたが、度重なる砲台長からの発砲許可懇請に、「ヨシ」と一喝、副長 鏑木清胤かぶらき きよたね大尉(東京神田生れ。 曉星中學校(アテネ・フランセ)から 兵科第六十八期)の 「砲台長ニ命令! 撃チ方うチかた はじメ!」 目をつり上げての大声に、 「了解!」 と砲台長の喜びあふれる声が受話器から洩れた。 と謂う なまなましい遣り取りを 側で聞いていた海軍報道班員が書き残してゐる。
しかし 自信に満ちあふれた若い砲台長からの意見具申にも拘らず 一発も命中しなかったと謂う。

テニヤンのペペノゴル砲台には 特務士官の砲台長以下 練達の下士官兵を配し、日清・日露戰争の遺物である「安式 (Sir W.G. Armstrong Whitworth & Co., U.K.)十五糎砲」(塘徑 六吋≒152.4 m/m)で 戰艦コロラドBB-45、驅逐艦ノルマン・スコットDD-690 に対し 発射 26 発 全弾を命中させたのとは大違いである。

九六式二十五粍聯裝高角機銃は フランス・ホッチキス社の設計で、横須賀海軍工廠造兵部で製造したもの。
記録によると 飛行塲周辺に 12 基が据付けを完了してゐたと謂う。
杉本司令の戰訓報告で 「對空戰闘ノミナラズ 徹甲弾ハ舟艇ニ對シテモ 短二十ヨリ 威力ヲ発揮シタ」 とある。

Route 2を北上して Route 2a 経由  いよいよ待望の 米海軍基地へ入ります。

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