私の書評 「山下奉文」 昭和の悲劇
福田和也  文藝春秋社  2004年12月 初刷り
 
慶應義塾文學部教授である福田和也は 時々 新聞の文藝評論欄で名前をみかける程度で、私にとって 比較的 馴染みの薄い存在である。
本書はもともと月刊誌「諸君!」に掲載されたものを、自筆の「あとがき」にある通り「單行本化にあたって、少なからず加筆、修正をほどこした。」と謂う割には 事實関係に 誤記、誤認が多々みられる。
週刊誌、月刊誌に毎週、毎月、数本の聯載ものを書くこの売れっ子の評論家は、テクスト・クリティサイズを省略して 記憶モードで筆を進めるものらしい。
加へて、私が手にしたものは、「第二刷」ながら 明らかな誤記、誤植が多数 そのままになってゐる。
 
明らかな間違と思はれる一例をあげるなら、「大正十年、スイスの保養地バーデンで落ちあった、永田鐵山、小畑敏四郎、東條英機ら三人は、・・・」(P-42)とあるのは「バーデン・バーデンの誓い」の取り違へだと思はれる。
たしかに瑞西スイスのチューリッヒの近くにバーデン(Baden)と謂う地名の保養地はあるが、「永田鐵山ながたてつざん小畑敏四郎おばたとししろう岡村寧次おかむらやすじ、士候十六期の三人の少佐が大正十(1921)年十月二十七日盟約を交はしたのは ライン川を挟んだ獨佛國境ストラスブールの對岸に近い獨逸の温泉保養地バーデン・バーデン(Baden Baden)での事」であって、スイスのバーデンではない。
badenと謂うのは獨逸語でbath/spaの事で「バーデン・バーデンの盟約」に関する正しい知識が定着してゐれば、態々 調べ直すまでもない事なのだが。
 
そこに 士候十七期の東條英機が同席してゐたかどうかについては、太田尚樹氏によると士候十八期の山下奉文ともゆきも同じ時期、同じ宿をとって日夜語り合った事になってゐる。
獨逸の戰後處理に関する國際會議が開かれた折りに在歐武官が一堂に會した時の事で、後に十五期の河本大作こうもとだいさく(兵庫)と十六期の板垣征四郎いたがきせいしろう(岩手)が密約に加わったとの説もあるが、思想信條を異にする東條英機が加わってゐたとの説は全くの『新説』であり、『珍説』『奇説』を この文學部教授は弄する。
ゐずれにしてもこの時 盟約を交わしたのは士候十六期の三少佐である。
 
ついでに もう一つ 福田和也自身の過剰脚色だと思はれる部分を指摘すると;
昭和二十年六月 比島戰線キャンガンを追はれてバクダンに落ち延びる道中、鐵兵團の將兵に出くわした時の描寫で、もともと兒島 のぼるが「史説 山下奉文」を書くにあたって 山下大將の副官、樺澤寅吉大尉に直接取材した記述からの孫引きだと思はれる部分。(P-168)
二、三頭の軍馬をつれた約二十人の將兵」 が 「水牛を連れた、四人連れ」 に變り、「樺澤副官が急造した雑木の杖」 が 「ゴルフクラブから作った杖」のままだったり、「大將の怒聲がとぶとみるや、杖が相手の首筋にうちすえられ、バシッと音をたてて二つに折れた。」 相手が將校から下士官に變ってゐたりで、こうなると、脚色としての許容範囲を超へて「引用文献の改竄かいざん」だと謂へる。
 
 
福田和也は前作「乃木希典のぎまれすけ」を書いた後、「山下奉文について書かなければなるまい、と思うようになった。」と告白してゐるが、その着想は飛鳥井雅道が乃木希典について書いた文章から得たものだと記述してゐる。
一。 英雄
二。 組織
三。 粛清
四。 敗北
と四章からなる記述は、文藝評論家らしく 司馬遼太郎、松本清張、山本七平、草柳大藏、等々 ふんだんに引用されてゐる。

壓巻は なんと言っても「保田與重郎の山下觀」であろう。
保田與重郎には全く馴染みなく、引用文献「竝育竝行へゐゐくへゐこうの理」も承知しないが、引用文から判断するとストイックな人柄が彷彿される。 名指しはしてゐないようだが、里村欣三や横濱事件の被疑者の一人、酒井寅吉、はては 井伏鱒二までも「無恥な御用作家的文章」 「御用作家風精神の持ち主」だと切り捨ててゐるらしいから凄い。
しかし結局 出發點の 乃木に對するステッセル、山下對パーシバル、乃木の殉死に對する山下の刑死と謂う 激しいコントラストに就いては引用文を紹介するだけで 福田和也自身の見方に就いて なにも描ききれてゐない。
 
結局 雑誌に掲載するために 慌てて書いた文藝評論家の「山下奉文傳」と決めつけては いささか言葉が過ぎようか?
 
 
福田和也  「山下奉文 昭和の悲劇」  文藝春秋社 2005年 1月初版第二刷引用
 
(2005/04/15 初出)

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