『ルーズベルト大統領は日本の眞珠灣攻撃を事前に知ってゐたか?』

1. 「ル大統領は 開戰時期の切迫してゐる事は知ってゐたが 眞珠灣が攻撃されるとは思ってもみなかった。」 と謂ふのが大方の歴史學者の見方であり私も同意見です。

大統領周辺の情報は 産經新聞取材班編 「ルーズベルト秘録」 の中で 日本を對米戰爭に決定的に追い込んだ 「禁じ手」 である「石油、航空燃料ならびに潤滑油の禁輸」發動に蘇聯の魔手がはたらいてゐたと謂う最新情報を驅使して 詳しく檢證されてをります。

米國内の反戰世論に氣を配りながら 何とか歐洲戰線に參戰したいルーズベルトだが 度重なる挑發をヒットラーに躰よくかわされて、歴史學者に 「裏口からの歐洲への參戰」 と呼ばれる日本への挑發、それも 「最初の一發を日本に撃たせる」 仕掛けに お人好し日本が まんまと嵌ったと謂ふ構圖が 具に檢證されてをります。

ワシントンの大使館と外務本省との連絡は 海軍が開發して外務省に貸與した 「九七式歐文印字機」 と謂ふ機械暗號が使はれてをり これは 日米交渉が始まるかなり以前から破られて 「マジック情報」 と呼ばれて情報が筒抜けであった事は今や周知の事實です。

外務省山本熊一亞米利加局長が起草し大本營政府連絡會議で審議された十四部からなる 「最後通牒」 は加瀬俊一北米課長が翻譯した英文をそのまま打電してゐるので その内の十三部は米國東部標準時間十二月六日(土)昼にはワシントンの米陸軍通信諜報部 (S.I.S. the US Army Signal Intelligence Service) によって解讀が完了し Alwin D. Kramer海軍少佐の急使で 海軍作戰部長、海軍長官、大統領と 夕刻までには 順次 回覽を終はってゐる。

「regrets that the Japanese goverment cannot but consider that it is impossible to reach an agreement through further negotiations.」 で終はる 第十四部と 「最後通牒手交時間ヲEST13:00」 と指示する電報は ワシントン時間七日(日)早朝には解讀を終はってゐる。

東部標準時間午後一時 (EST071300、JST080300) と指定したのはHawaii時間七日07:30AM 即ち 眞珠灣攻撃開始三十分前と謂ふ事になるわけである。

因みに この日本語案文を受け取った海軍省軍務局では 柴 勝男中佐(兵50)が 「これは交渉打切り表明で はっきり武力行動に出る旨述べてゐない。」 として 「帝國ハ必要ト認ムル行動ノ自由ヲ留保ス」 と書き加へて 岡 敬純軍務局長から東郷重徳外相に進言したが 外相は變更 の必要はないとして受け入れなかった。

ハーグ條約第三條は 「自衞戰爭には適用されない」 と謂う解釋と、ドイツ軍ポーランド進入に際しフランスはただ「ポーランドニ對スル義務ヲ遂行スル。」 とのみ通告して對獨戰を開始した故知に倣った解釋だと謂はれてゐる。

また 当初最後通牒手交時刻はワシントン時間十二月七日午後零時半(EST071230)となってゐたものを五日になって伊藤整一軍令部次長が 參謀本部第一部長田中新一少將と共に外務省を訪ね 三十分の繰り下げを申し入れてゐる。

しかし これが後に極東國際軍事裁判A級法廷で 山本熊一局長が 「海軍は当初 無通告攻撃を企圖してゐた。」 との爆彈證言を行い、東郷重徳被告がこれを肯定したため法廷が大紛糾し、嶋田繁太郎被告が特に發言を求めて 東郷被告をこっぽどく糾彈する一幕に發展する。

2. それに先立ちOP-20-GZ(ONC海軍通信部)では 「新高山登レ一二○八」 を傍受してゐる。 これは 十二月一日の御前會議での「開戰廟議決定」を承けて 予め準備された軍令部総長から聨合艦隊司令長官宛の封書命令書が 開封指定時刻 021500(十二月二日午後三時)に開封されて 021730 に發令。 東京通信隊船橋電信所から 東通第一放送(ヒツ)三つの短波と 依佐美送信所から第四放送(ヨツ)の超長波で 「海軍暗號書D 一般亂數表第七號」 (D-ラ七)を使って暗號化され送信されたものの内 短波4175 kcsで發信されたものをシアトル郊外Bainbridge島の傍受アンテナが捉へ OP-20-G宛 直通回線で轉電されたものである。

3. この「新高山登レ一二○八」と 最後通牒手交時刻に関する情報がtimelyに米太平洋艦隊司令部にもたらされてゐたら眞珠灣の悲劇は避けられた と謂ふのが太平洋艦隊司令長官Husband E. Kimmel大將の主張でありワシントン (ONI海軍諜報部)と太平洋艦隊 (HYPO)の根深い感情的對立の構圖が現代の戰史學者の間にも そのまま 受け継がれてゐる。

それが 『ルーズベルトは眞珠灣攻撃を事前に知りながら 故意にそれを隠した。』 と 大統領のnegligence、cover-upとして彈劾するのが少数派 (revisionists)の主張である。

國際法上は 「宣戰布告」 前の攻撃は大いに問題であるが 實際には 早くも日本時間の六日午後 印度支那半島南端を西針中の南遣艦隊は 觸攝中の英軍哨戒偵察機に對空砲撃を加へ 更には旗艦「鳥海」に座乘の司令長官小澤治三郎中將は 無線封止を破って JST061500 作戰緊急信を發し南部佛印に展開中の麾下第二十二航空戰隊に撃墜を命じてゐる。

菅原道大中將率いる 陸軍第三飛行集團の九七式戰鬪機はJST071015 上陸部隊輸送船團に接近中の英軍哨戒飛行艇を撃墜。 上海ではJST080015共同租界に武力進駐開始、馬來亞半島KotaBaruではJST080140に南遣艦隊が上陸支援砲撃開始してゐる。

これらの情報に米國は元より 直接攻撃を受けた英軍が素早く反應しなかったと謂ふ事は 矢張り 臨戰緊迫感が缺如してゐたと謂ふ事であらう。

眞珠灣でも 空爆開始一時間前に 哨戒驅逐艦Wardが灣口で 特殊潛航艇を攻撃撃沈してゐるのである。


英國に對しては 全くの無通告攻撃であり、『大詔煥發』即ち 正式の宣戰布告が日本時間十二月八日午前十一時四十分であった事は事實である。 しかし米合衆國に對しては「通商交渉」継續中と謂ふ事もあり 事前に 交渉打切の最後通牒を出す手筈になってゐた。

ワシントンの日本大使館の不手際で 最後通告手交が遅れた事は事實であるが、これをもって 『騙し討ち』 と謂はれる謂はれはない。 あまつさへ 極東國際軍事裁判A級法廷で 山本熊一證人 竝に 外務大臣 東郷重徳被告の勘違いで 「統帥部は無通告攻撃を意圖してゐた。」 との證言が飛び出したり 直接の責任者である在ワシントン日本大使館の関係者が不問に付される等 未だに 「Remember Pearl Harbour」 を聞かされる度に日本國民は やり切れない思いをさせられてゐる。

ところで「DAY OF DECIET, The Truth about FDR and Pearl Harbor」が日本でも「『真珠湾の真実』ルーズベルト欺瞞の日々」のタイトルで出版され『「真珠湾の真実」をまだ信じない人たちへ』の宣伝文句で評判をよんでいるが その「まだ信じない人」の一人として 以下 信じない理由を説明旁々 同書を檢證してみます。

( 2001/11/15改 )

本稿をご覧になられた方からご指摘があり 調べてみましたところ 下記のような事實が判明しました。 山本熊一さん 東郷茂徳さんには 私の無知で寔に申し譯なく思ってをります。 嶋田さんは 海軍大臣で 統帥部と外務省のこの經緯をご存知なかったものだと思います。

參謀本部戰争指導斑日誌 十二月四日

外相對米最後通牒提出ヲ提議シ來ル 軍令部不同意 當部亦然リ 外相戰争終末捕捉ノタメ外交打切リヲ正式表明スルノ要アルヲ強調ス 両総長己ムナク右ヲ容レ武力發動直前ニ外交打切ノ申入レヲナスニ決ス
其案文ハ外相ニ一任シ在米大使宛打電ノ時機ハ陸海部局長ニ於テ決定スルコトニ決ス


山本局長、東郷外相の主張通りであり 私の不勉強でした。 お詫びして訂正致します。

 
 
(2003/07/04 追記)

主用參考ならびに引用文獻;
防衞廳防衞研修所戰史室 戰史叢書10「ハワイ作戰」
防衞廳防衞研修所戰史室 戰史叢書24「比島マレー方面海軍進攻作戰」
防衞廳防衞研修所戰史室 戰史叢書80「大本營海軍部・聨合艦隊2」
兒島 襄 「開戰前夜」 集英社 一九七三年 初版
産經新聞取材班 「ルーズベルト秘録」扶桑社 2001年
"AND I WAS THERE" Edwin T. Layton (Rear Admiral USN retired)First Quill Edition 1985
"AT DAWN WE SLEPT" Grodon W. Prange, McGraw-Hill 1982
"DAY OF DECEIT" Robert B. Stinnett, First Touchstone Edition 2001
小林正樹監督作品「東京裁判」 講談社制作 1983 

(平成二十三年十二月八日 七十回目の大詔奉戴日を期し 復刻掲載)



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