鎌倉市内の霊園に眠る お爺ちゃんの墓所
(2014/12/13 六白先勝 撮影)

横志十六のお爺ちゃんは 平成二十五(2013)年十一月十三日(水)(五黄友引) 天壽を全うされました。
享年八十七歳。 衷心 御冥福をお祈り申し上げます。 合掌

横志十六のお爺ちゃんとマリアナ海軍航空隊司令 亀井凱夫かめいよしお海軍少將の事。

鎌倉市立岩瀬中學校生徒の作文集が鎌倉驛地下道に展示されてゐた。 その中で お爺ちゃんから聞いた話という K 君の作文は お爺ちゃんが乘っていた飛行機として描かれた繪の出來榮の素晴らしさとともに ひときわ注目を引いた。
一目して Y-20 「銀河」陸上爆撃機であることが判る。

さっそくお爺ちゃんの所属部隊を問い合わせたところ、「横志十六」(昭和十六年度 横須賀鎭守府海兵團志願水兵)のお爺ちゃんと聯絡がとれ お話を伺ひ自作の寫眞集も拝見させて頂く事が出來た。

寫眞集には戰前戰中の貴重な第一次資料が多數含まれてをり お爺ちゃんの大切な寶物である。

大正十五年二月生まれのお爺ちゃんは 昭和十六年五月一日 満十五歳で横須賀海兵團入團、三ヶ月の新兵教練を了え 海軍四等水兵として久里濱の海軍通信學校第五十八期練習生教程を終了。 大湊海軍通信隊関根分遣隊で敵信傍受方位測定に從事。 昭和十七年ソロモンへ出撃する 空母「翔鶴」に便乘してサイパンの第五特別根據地隊第五十五警備隊に轉属着任。 翌年 大宮島 (Guam) の第五十四警備隊へ。

 八月には 精鋭を選りすぐって新編成された第一航空艦隊第六十一航空戰隊の最新鋭 Y-20 「銀河」鵬部隊 第五二一海軍航空隊に選抜配属となり、艦攻の神様 村田重治少佐と同期(海軍兵學校第五十八期)で「艦爆の神様」と呼ばれ、米國海軍少將でありハーバード大學歴史學教授でもあった著名な戰史家サムエル・エリオット・モリソン博士をして「日本海軍が戰果を擧げたとき そこにはたいてい江草がゐた。」と言わしめた 好漢 江草隆繁少佐飛行隊長のもとで 香取、木更津、霞ヶ浦と猛訓練を重ね 昭和十九年晩春 風雲急を告げる大宮島富岡 (Tiyan) 第二飛行場に展開。

 しかし 軍令部ならびに聯合艦隊司令部の敵情誤判断からパラオ・ペリリュー方面へ移動して機材を漸次損耗し、マリアナ決戰には寡を以て佳く衆敵にあたるも 勇戰奮闘むなしく泪を呑む。
お爺ちゃんは敵上陸前には司令部通信隊とともに又木山 (Mataguac) へ移動、亀井大佐の司令傳令を命ぜられる。


中島飛行機 中川良一技師(後 日産自動車技術統括専務取締役)設計開発になる「譽11」 (NK9B) 發動機二基搭載の Y-20 「銀河」 P1Y1 は 海軍航空技術廠 山名正夫技師(後 東大航空工學科教授)設計の最新鋭機で 水平爆撃なら八十番(800 kgs)、雷撃は勿論 五十番ないしは二十五番二發なら急降下爆撃も可能であったという。

鵬第五二一海軍航空隊司令 亀井凱夫海軍大佐は 明治二十九年三月二十一日 東京生まれ。
 陸軍軍醫総監 鴎外森林太郎家が 代々典醫をつとめた石見國津和野藩四萬三千石亀井家の出自で 東京高等師範學校付属小學校中學校から 海軍兵學校第四十六期。
 大正十二年秋、吉良俊一大尉(兵40 後 第三航空艦隊司令長官、中將)に續き、前年末竣工の世界初の正規空母鳳翔に10式艦上戰闘機で離着艦に成功し 馬場篤麿中尉と共に「着艦三羽鴉」と呼ばれた一人。

 生粹の航空屋で 空母「龍鳳」艦長から 昭和十九年三月十六日 鵬部隊司令となる。 七月十日 マリアナ海軍航空隊司令を拝命。
 ひとつき後の八月十一日 副官とともに 拳銃自決。  任 海軍少將。

お爺ちゃんは司令自決の前日 敵中突破して北方山中に布陣する整備兵部隊への「司令傳令」の任務を見事達成。 司令より その功抜群として二階級特進とともに司令の「佩刀」を授かる。

 司令の見事な自決を見届けた上で 命令により 陸軍部隊に合流。 翌年三月 北岸の白浜海岸 (Tarague) で右肩から首への貫通銃創、右肘貫通、右腿盲管、臀部盲管二發、その他 迫撃砲彈片多數を躰内に残して人事不省のまま収容される。 ハワイ フォード島ホノウリウリ地獄谷捕虜収容所で銃彈の摘出手術を受け、サンフランシスコ、キャンプ・マクドーネル (Cal)、マッコイ (Wi)、ハンツビル (Al) と収容所を轉々。 テキサス州ケネディーでは酒巻少尉とも同じ収容所で過ごして 昭和二十一年二月 浦賀に復員。 海軍通信學校同期二十一名中十四名戰死。(合掌)

司令から授かった佩刀は没収されたが (恐らく 亀井家に代々傳はる古刀ではなかったか?)軍刀造りの「柄緒」(つかを)(冑金(かぶとかね)につける絹織の飾り)を後生大事に胴に縛り付けて持ち歸り 今も大切に保管されてゐる。


戰後は 都市對抗野球で有名な川崎市のKT社の社長専属運轉手として定年まで勤め上げ 現在は 六人の外孫に恵まれて 鎌倉市郊外に悠々自適されてをられる。

復員當時 復員援護局の海軍関係者に 記憶にある限りの詳細を記録に留めてもらったが 戰後書かれた戰史、戰記では 亀井司令と副官の見事な最後について語られてゐないのが 現場に居合わせた唯一人の生き證人として心残りにしてをられる。  (2002/04/15記) (2002/04/27改) (2002/07/31再訂)    

追記-1  お爺ちゃんの大切な寶物の中に 海軍通信學校在学中の昭和十六年十二月五日 明治神宮で撮影された寫眞がある。 引率の教官からは「通信學校練習生である事は 外部の者には極秘で 尋ねられたら「艦隊から來た」とだけ應へろ!」と嚴命されていたと謂う。  もう一つの寶物は「横須賀海兵團」と金文字で書かれたペネントである。

この經緯は 阿川弘之氏の名著 「軍艦長門の生涯」 (昭和五十年新潮社初版)第三十八章に 詳しく記述されてゐる。
防諜上の理由で この時 水兵帽のペネントから 所属海兵團、艦船名が消えたわけである。 私の記憶のなかにあるものは「大日本帝國海軍」であり「横須賀海兵團」のそれは 貴重な歴史の證言資料である。
 

追記-2  北米の収容所を轉々とする間、空母「赤城」の機関長であった方にも行き遇ったと謂う。 (2002/04/29)

追記-3  亀井凱夫少將ご長男の手記 「鵬翼南に飛ぶ」 を御恵贈いただき、數奇な運命をたどって米海兵隊員より返還された少將の寫眞の事等 興味深く かつ 胸を熱くしながら拝讀させていただきました。 亀井家のご厚意 有り難く厚く御禮申し上げます。 (2002/08/01)

第五二一海軍航空隊 寫眞集 へ。

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