13.9.15 この日 一年二ヶ月に亘り 歩兵第四十七聨隊の指揮を執ってきた 長谷川正憲大佐に替わって 新聨隊長に 岩崎民雄大佐が發令される。
岩崎大佐は 長州山口の出身で士候27期、陸大34期。 東京帝國大学法學部政治學科を卒業した生粹の參謀將校。 今回は 朝鮮軍參謀として 張鼓峰事件の後處理を終はってからの着任。 後 中將に昇進して 終戰時は 善通寺第111師團長。 戰後は 民間の石油關係の會社につとめて東京で安穏の生活を送る。

丁度この日 今村支隊は 47iを後備警衛任務に残し 13iを率いて廣濟から田家鎭攻略に向かう。 田家鎭は 古來「天下鎖鑰之地」と呼ばれて 十重二十重の鐵條網とベトン製 トーチカ 陣地群に守られて 長江對岸の永久砲臺群と共に 漢口への門戸を守る難攻不落の要地として知られる。
自信に滿ち溢れる今村勝次少將は 田家鎭攻略に要する日數を 約一週間と見込み 糧秣弾薬もその分だけ用意して出發した。 編成も 山地戰に適するよう 車輛は駄馬に 野砲は山砲に變更。 支隊に付属して同行する第一野戰病院には「田家鎭ハ二日間位デ陷チル予定」にて「豫想傷者ハ百名位」と聯絡し 野戰病院では 醫薬品を馬七頭、糧秣を十二頭に積んで出發した。 しかし これが 大誤算である事は 直ぐに思ひ知らされる。 田家鎭を目前にして 中國軍精鋭の 頑強かつ巧妙な抵抗にあい大苦戰。 事態を憂慮した稲葉師團長は 牛島旅團長に命じて 45i 第一大隊、23i 第二大隊を救援に派出。 醫薬品は雲の晴れ間に からうじて空中投下するが 糧食は既に盡き弾薬は枯渇して 石を投げ 敵の投げた手榴彈を投げ返しての防戰で 救援隊が前線に到着した日の夕刻の 收容傷者数は「千五百人ヲ突破シタ。」と記録する。
丁度その頃 臺灣獨立混成旅團が 長江対岸、富池口、半壁山附近にまで進出して制壓。 東側に呉第四特別陸戰隊が 西側に呉第五特別陸戰隊(土師喜太郎少佐司令 兵51)が上陸して田家鎭を四方から攻め 包囲される事を懼れた 中國軍は 長江堤防を決壊させて撤退する。
13.09.29 11:30 今村旅團長を先頭にして 呉第四特別陸戰隊司令 續木禎弍中佐(兵46)と共に 軍旗と軍艦旗を並べて 水浸しの田家鎭に入城する。

第二軍では 10Dは岡田支隊が 13.09.21 には羅山を占領。 3Dも固始西方の光州に到着しはじめている。
13Dは 富金山を抜いたものの 大別山系の峻險に阻まれ相變はらず停滯氣味である。 それでも 16Dが戰線に到着。 商城から南下して 麻城に向かはんとしている。

長江南岸では 9D 臺混Bが 陽新を攻めあぐねている。 27Dは徳安西方に進出したが 101Dは 徳安の手前で停頓している。 悲惨なのは 106Dで その中間の雷鳴鼓劉なる寒村に包囲されて孤立。
マラリヤ、赤痢、飢餓の三重苦で 補給は パラシュウト による空中投下のみと謂う日々が續いているが 天候不良が多く 補給は 途絶へがちである。 師團司令部を眞ん中に 四つの聨隊を四囲に布陣させているが 下痢の糞便と、彼我の戰死體縦横、軍馬の屍體累々、死臭に覆われて 異臭は 空中補給に飛んでくる輸送機の パイロット にまで臭覚されたと謂う。
第十一軍には兵力に余裕なく あわや見殺しかと思はれたが 27Dを 106Dを 支援させる如く旋回させ、中支那派遣軍が 直轄の 17Dから 歩兵團長 鈴木春松少將指揮の支隊を編成(岡山54i基幹)これに救出命令を發し 絶滅寸前を救ひだされる。

戰線膠着に苛立つ十一軍司令部は 派遣軍の意向を體し 盛んに督促電を發し 13.10.11 には 岡村軍司令官自身が 參謀 池谷半二郎中佐を伴って廣濟の師團司令部を訪ね 稲葉師團長に 直接 派遣軍の意向を伝へて激励するが 愼重な稲葉師團長は 3,000 名の補充兵の到着を俟って動かない。 6D自身廣濟にあって間断ない敵の攻撃を受けながら コレラ、マラリヤ患者の續發で 動きのとれないのが實状である。

第二軍戰線では 3Dの 前線到着で進展あり。 3Dを信陽の北、岡田支隊を信陽、33Bを信陽の南に向かはせ 重砲と戰車の援護で 13.10.12 には附近一帶を占領。 更には 騎兵第10聨隊に 信陽の南南西 平靖関の突破を指示。 京漢線の遮断である。

2,825人の補充兵が到着した 6Dが 13.10.18行動を開始する。 13iを後備警戒任務に廣濟に残し 45i 47i 野戰砲兵第6聨隊を牛島 滿少將の指揮下に入れ 廣濟から北西にのびる街道を、23iと獨立山砲兵第二聨隊を 聨隊長 佐野虎太大佐が率いて その南側を並進する。

長江南岸では 黄石、大治を抜き 派遣軍直轄の15Dから 60i(名古屋)基幹の 高品支隊(高品 彪大佐指揮)と海軍陸戰隊も加はって 鄂城攻防戰が始まっている。

13.10.22 早朝「第二軍南正面ノ敵ハ退却ヲ開始シ・・・」偵察機からの報告が届く。 全軍の攻勢前進開始である。
こうなると 6Dの進撃速度は迅い。 稀水を抜き 巴河を渡河して 上巴河市を抜き 13.10.23 には 早くも淋山河に達する。 敗殘兵を 追い越しての猛進撃である。

ここで 47iの「行軍軍紀にかんする注意」が示達される。 「隊列ヲ整ヘ 銃ハ 嚴格ニ擔ヒ ・・・」 東京帝國大學法學部政治學科出身の インテリ 聨隊長 岩崎民雄大佐の「國際都市漢口で皇軍の武威を發揮せよ。」 の意であり「漢口近し。」の勵聲である。 しかし「明日は漢口入城」の 47i將兵の期待は、目前の黄陂で見事裏切られる。
13.10.26 早朝、苦戰の第二軍13D救援のため「黄陂ヨリ北上シテ河口鎭ヘ進撃セヨ。」の非情な軍命令が届く。
13.10.27 武昌へは臺灣獨立混成旅團が一番乗りし、漢口へは 第六師團(熊本)(師團長 谷 壽夫中將)歩兵第三十六旅團(旅團長 牛島 満少將)歩兵第二十三聨隊(都城)(聯隊長 岡本鎭臣大佐)第三大隊が 大隊長 松崎貞利少佐を先頭に 不動の姿勢で堵列して迎へるイタリヤ海軍陸戰隊の前を 堂々の入城行進。 漢陽も 高品支隊の手により陷落。 それ以前 軍艦「八重山」に將旗を翻した 近藤英次郎少將指揮の 海軍遡航部隊が 漢口港に進出して 日本租界を制壓する。
はるか後方に 取り殘されていた 101Dが かねてから攻めあぐねていた 徳安を占領したとの朗報がもたらされる。

武漢三鎭は陷ちた。 しかし 今回も「敵主力を捕捉撃滅」の作戰目的は達せられずにである。 作戰成功に 多大の貢献のあった 歩兵第四十七聨隊には 後日、改めて 威風堂々の入城行進の榮譽が與へられる。

翌二十七日、廣濟から第一線に随行して漢口に到着した 從軍作家の 林 芙美子は記す;
「・・・日本の母と妻よ、兄よ、妹よ、恋人よ、今あなた達の人は騎虎の勢いで漢口へ大進軍してきた。 漢口の晩秋はなかなか美しい。 街を日の丸や軍艦旗が行く。 私は街を歩きながら、私一人が日本の女を代表してきたような、そんな うずうずした誇りを感じた・・・」

この戰闘で何人の人命が失はれたであらうか。 お互いに 恨みも 憎しみもない彼我の人々の 命がである。  兵士は皆、漢口が墜ちれば 戰争は終はって 家族の待つ故郷へ歸れると 信じてゐた 市井の人々である。
事実、13.10.23 漢口陷落目前の新洲での 23i佐野虎太聨隊長の描寫を引用すると ・・・ 廣濟を出發していらいの強行軍のうえに、殆どの將兵はマラリヤ、脚氣にかかっており、落後する者が多かった。 敗殘中國兵を「苦力」にして、背嚢、重火器をかつがせ、牛馬を引かせて歩くのだが、 その中國兵も餓えと疲勞で弱っている。 新洲を攻略しても、後續部隊はぼつりぼつりと到着し、なかなか集結は完了しなかった。 到着した兵は、とにかく食事だというので、飯盒炊さん用 焚き火を始める。 すると、同行した「苦力」捕虜だけでなく、城の内外に残留した敗兵たちまでが、あつまってきた。 「疲勞混亂時ナルニヨリ、タダ炊飯ニ専念スルノミニテ、日支兵ノ區分等ニ注意スル者ナク、露營火ノ下、米飯ヲ炊クハ日本兵、ソバ粉ヲ練ルハ支那兵・・・・」 ・・・ 「彼我混交」の追撃の過程で、しばしば相互に敵意を抛棄する様子を想起して ・・・「此ノ間ニ於ケル彼我將兵ノ間ニハ、アル一種ノ親シミト同情ヲ生起スルモノナルヲ視テ、人間性ニ特殊ノ心理ノ存在スルヲ發見ス」と。

もう一つの救いは どの師團でも 捕虜の釋放が 記録されている事である。 南京戰では「捕虜ハ モトヨリセヌ方針・・・」と謂ふ師團もあり 出來てしまった捕虜は「適宜處分」と謂ふ上級司令部「命令」もあったが、今回も「捕虜はせぬ方針」には變りなくても「出來てしまった捕虜は 武装解除して解放」が どの師團、どの部隊にも徹底していたものと思はれる。 畑 俊六、岡村寧次 両軍司令官の強い意志表明であらうか。

レクイエム

畑 俊六はた しゅんろくは その後 侍從武官長、陸軍大臣、支那派遣軍總司令官、教育總監等を歴任。 昭和19年6月 元帥府に列せられ 終戰時 第二總軍司令官。
戰後、極東國際軍事裁判A級法廷に訴追され 終身禁固刑。 昭和29年に釋放されて 昭和37年5月10日 天壽を全う。 享年84歳。

岡村寧次おかむらやすじは その後 大將に昇進し 終戰時 支那派遣軍總司令官。 南京の國民政府軍軍事法廷に訴追されたが 無罪判決で 昭和24年2月に復員。 永らく 日本郷友聨盟會長として活躍。 昭和41年9月2日逝去。

本間雅晴ほんま まさはるは その後 臺灣軍軍司令官を歴任。 大東亞戰争には 第十四軍軍司令官として 比島攻略作戰を指揮。 作戰遅延の責任をとらされて 昭和17年8月 豫備役編入。戰後 バターン死の行進の罪科でマニラの米軍事法廷にて死刑宣告。昭和21年4月3日 マニラ郊外 ロス バニヨスにて銃殺刑。 絞首刑ではなくて軍人らしく銃殺刑となったのは法廷の本間へのせめてもの同情の顕れであったろうか。
女流作家 角田房子は 未亡人の富士子とともに ロンドンにまで取材旅行に出かけ 鋭い女の目で つぶさに 本間の生涯を取材。 心からの尊敬と 本間への萬感の想いを込めて 鎭魂の長編を執筆。 (「いっさい夢にござ候。 本間雅晴中將傳」 初出 昭和47年9月 中央公論社)

牛島 満うしじま みつるは その後 中將に昇進し 陸軍士官學校長等を歴任。 昭和20年6月23日第三十二軍軍司令官として 參謀長 長 勇中將等と共に 沖繩 摩文仁の丘にて自決。任 陸軍大將。 享年56歳。

岡田 資おかだ たすくは その後 中將に昇進し 戰車學校長、相模造兵廠長、戰車第二師團長等 一貫して戰車畑を歩み 終戰時 第十三方面軍軍司令官。 戰後 米軍飛行士處刑の責任を問はれて 横濱米軍事法廷に訴追され、 昭和24年9月17日 絞首刑。
熱烈な日蓮宗の信者であった岡田の 横浜米軍事法廷における 法廷闘争を【法戰】 となずけた 大岡昇平が 感動的な人間ドラマを執筆している。 (大岡昇平 「ながい旅」新潮社 昭和57年5月初出)

高品 彪たかしなたけしは 獨立混成第十七旅團長等を歴任、中將に昇進して 第二十九師團長としてグワム島で玉碎。 孤立無援の孤島で豪放磊落、悠揚迫らざる人柄はグワム島戰記に語られてゐる。

續木禎弍つづきていじは その後 第八十五警備隊司令としてニューギニヤに轉戰、終戰直前の20.08.07豊川大空襲に 豊川海軍工廠総務部長として空爆により戰死。 任 海軍少將。

土師喜太郎はじきたろうは 高松宮宣仁親王附武官を歴任後、「陸奥」砲術長として18.06.08柱島での爆沈で艦と共に殉職。 任 海軍大佐。

ー 結 ー

主要參考ならびに引用文獻;
「日中戰爭」VOL3 兒島 襄  文藝春秋社
「北岸部隊」 林 芙美子  文泉堂出版
「郷土部隊奮戰史」 平松鷹史  大分合同新聞社
「いっさい夢にござ候」本間雅晴中將伝 角田房子  中央公論社
「ながい旅」 大岡昇平  新潮社

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