私觀「武漢三鎭攻略戰史」

作戰發動の背景
昭和十二年七月七日 廬溝橋での衝突で始まった 支那事變は日本軍も ずるずると大軍を逐次投入しながら大苦戰の聯續でからうじて上海を解放。 しかしながら 日本側の一方的媾和條件の擴大で南京陥落時の絶好の媾和の機會を逸したばかりでなく「爾今 蔣介石ヲ對手あいてトセズ。」聲明で近衞内閣は自ら和平への窓口を閉ざしてしまう。
また 臺兒莊、徐洲作戰と「敵主力捕捉撃滅」の作戰目的を達成出來ないまま 蔣介石(クサカンムリに將)の巧妙な 「大敵則退、小敵則戰」 戰法に引っかかって 局地的に大苦戰大損害を被りながら持久消耗戰に引きずり込まれてしまう。
この時 日本の常備兵力二十四個師團に 事變勃發後 臨時編成、特設師團等を加へて十個師團を緊急動員、 全三十四個師團中 内地には僅か GD と11Dの二個師團を殘すのみで對ソ 九個師團を除き實に 二十三個師團を 北支、中支に張り付けにされて 國力の限界をとっくに超へてしまっている。
しかしながら 徐州で取り逃がしてしまった敵主力に 手痛い一撃を加へずんば和平の糸口は掴めぬと武漢三鎭攻略作戰發動に踏み切ってしまう。

兵力の集結と展開
作戰を擔任するのは 十四個師團と一個旅團の兵力を有する中支那派遣軍で 攻撃部隊は 6D, 9D、27D、101D、106Dと 臺灣獨立混成旅團からなる 第十一軍、3D、10D、13D、16Dからなる 第二軍の 合計九個師團と一個旅團からなる。6Dは 潛山に集結 ここから長江北岸に沿って 北から漢口へ攻め入る。
9D、27D、101D、106D 臺混B は湖口に集結 ここから長江南岸に沿って進撃南から武昌を攻める。3D、10D、13D、16D は廬州に集結の上 3D 10Dは 六安から大別山系北側を西進、信陽から京漢線沿いに南下 北から漢口に攻め入る。
13D 16Dは大別山系を霍山、商城をへて麻城から南下し東北から漢口に攻め入る。攻める軍勢は三十萬。
迎へ撃つは 長江北側を擔任する 第五戰區軍 四十八箇師、南側を擔任する 第九戰區軍五十八箇師 総勢 百二十萬。 千古堅城不抜の地に 獨逸軍事顧問團(團長 Alexander von Falkenhausen陸軍中將)指導により 鐵條網と トーチカ で嚴重に防備された堅陣に四分の一の兵力で攻め込もうと謂う作戰である。


Ernst Alexander Alfred Herrman von Falkenhausen, General der Infanterie

上海、臺兒莊、徐洲で大苦戰を演じた原因の一つに 獨逸軍事顧問團の巧妙な作戰指導がありこれに手を燒いた日本軍は強硬な外交交渉で やっと「退去、しからずんば國籍剥奪財産沒收」 と謂うHitler總統の嚴命で 開戰時 四十六名ゐた顧問團は あくまで殘留を宣言した七名を除き 七月初旬 退去させる事に成功する。 兵器供給についても新規の契約には應じないとの獨逸側の確約をとりつけたもののこの時既に 米英の借款で大量の歐洲の最新輕火器が供給契約を終っており 武漢戰に於いても有名なチェッコ輕機關銃と 機動自在の迫撃砲、それから 豊富に配備された獨逸製高性能手榴彈に さんざん惱まされる事になる。

作戰發動
長江遡航作戰を担当する 支那方面艦隊第三艦隊は「我ガ海軍ハ、六月十一日ヨリ漢口ヘノ進攻作戰ヲ開始スル。」旨關係各國へ事前通告。 河用砲艦「安宅」を旗艦とする第十一戰隊は 6Dに協力して13.06.13 安慶を攻略してこれを占領。 6Dは 引き続き潛山へ進出する。
13.06.15 御前會議にて 漢口作戰の實施が 正式に決定される。 陸海軍は そろって作戰準備を下令。
13.07.04 戰鬪序列發令。 攻略作戰發令。 この時 集結を完了していたのは 潛山の6D、 湖口の106D と 臺混Bのみで 第二軍は 廬州への集結行動を開始するところである。

106Dは 13.06.02 に編成をおえたばかりの 留守6Dの豫備後備兵を緊急召集した特設師團で各聨隊は 13.05.23 軍旗拜受。 このうち 147iは 聨隊補充地は 都城であるが47iの豫備後備兵を中心に編成されており 現在では大分の郷土聨隊として遇されている。
臺混Bの臺1i と 臺2i が後に 昭和十五年度編成で47iと 3個聨隊編成の精鋭で鳴らした勇猛 海第四十八師團を構成する事になる。
101Dは警備駐屯地の上海を發航 湖口へ向けて遡江中にコレラ患者が發生しUターンして上海へ。 この101Dも 悲劇の師團である。 上海で大苦戰の 12.09.03留守1Dの豫備後備兵を緊急召集して編成された特設師團で 当初上海占領後の警備任務で動員されながら12.09.25 上海に着くと 最激戰地の ウースン クリーク に投入され 就中 東京下町の妻子ある豫備後備兵を中心に緊急召集して編成された101i(本郷聨隊區)は初代聨隊長加納治雄大佐が 12.10.11 早くも戰死。 二代目聨隊長 飯塚國五郎大佐も この武漢攻略戰に13.09.03徳安附近で戰死する事になる。

27Dは 13.07.15 南京で編成をおえたばかりの新設師團で 師團長には同日付けで中將に昇進した本間雅晴が參謀本部第二部長から親補。 英國駐在、陸軍省、參謀本部と軍政軍令畑の永い知將 本間にとって初陣となる。
27Dは 昭和十三年度から導入がはじまり その後の師團編成の魁となった 3個聨隊編成の初めての師團であり旅團編成を癈し 歩兵3個聨隊で歩兵團を構成、山砲2個大隊と 最新の九六式十五サンチ機動榴彈砲1個大隊を付属させた山岳戰鬪にも適した期待の新鋭師團である。 しかも 支駐1i 2iの兵員は 本郷聨隊區、麻布聨隊區を中心にした東京の旧制中學卒業以上の學歴を持つ者が多く 大學卒業者もかなりいた事から 從軍記者からは「インテリ部隊」と呼ばれ知性派將軍 本間雅晴が率いるに相應しい師團である。 27D先遣隊が繙陽湖畔大板橋に上陸するのは13.08.30 になる。

第二軍の場合 13Dは廬州南方に集結を終はろうとしていた。
13Dは建前は現役師團であるが 12.09.09 動員下令、12.09.16 各聨隊 軍旗拜受。
仙台留守2Dの豫備後備兵を緊急召集して12.09.19に編成完了した師團で 加えて上海南京の激戰で 兵の三分の二は 補充兵で入れ替はっている。
10Dは 8B 33Bが それぞれ拓城と永城に駐屯 そこから 徒歩で宿縣に向かい宿縣から蚌埠までは津浦線で鐵道輸送を豫定していたが蚌埠から先は鐵橋が爆破されており廬州までの 100 Km の道のりを 重裝備を担いでの炎天下の徒歩行軍となる。 16Dも開封から同じ道をたどって廬州へ向かう事となる。
当初 武漢作戰は蘭封、開封を まっすぐに西進し 京漢線を一気に南下して漢口を制圧する予定で徐州作戰は いわばそのための 前哨戰であったが 徐州作戰の末期に 蘭封近辺で中國軍は黄河堤防を爆破決壞させて撤退したため開封、拓城、永城、宿縣一帶は水浸しとなり 10D 16Dは 泥濘の中 背丈に余る一面の高梁畑を横切って 重裝備を担いでの炎天下の徒歩行軍、中隊は しばしば道を見失いそこをゲリラに襲われると謂う辛酸をなめる。 昼間の炎天下の行軍で汗みどろになり夜は寒冷膚を刺す中 着替へもなしに露営する事になる。 いかに現役師團とは謂へ兵は完全に体力を消耗し尽し 加へて 黄河の氾濫は マラリヤ、コレラ、赤痢を附近一帶に蔓延させ集結地廬州へ着いた時は そのまま倒れ込み 殆どの兵が起きあがる事も出來なかったと謂う。 それまでして作戰を急いだのは一日の遅れは それだけ敵の防備を強化させる との判斷による。3Dは まだ 駐屯地 南京附近にあって 輸送の順番待ちで 到着は大幅に遅れる。

戰闘經過
攻略作戰發令直前の 13.07.12 早朝 ソ鮮國境張鼓峰で蘇聯兵が蠢動を始める。
所謂 張鼓峰事件の勃發である。 朝鮮軍二個師團の内 20Dは 當時 北支にあり朝鮮には19D 一個師團のみである。 若しこの時 張鼓峰事件が 一年後の ノモンハン事件の規模に發展していたら武漢三鎭攻略作戰は 豫定通りの推進が出來なかったかもしれない。 大本営は大陸令を發して はやる19Dの獨断行動を押さへ込む。

作戰行動を開始したのは第十一軍である。 13.07.23 01:00 臺混Bは 九江に通じる姑塘に上陸、106Dが これに續く。 13.07.25 には 第十一戰隊 軍艦「堅田」「二見」「雉」が九江埠頭に突入、驅逐艦「雁」「鳩」「鷺」も接岸して陸戰隊を揚陸。 陸戰隊が 市内を突きって飛行場を制壓する間に 臺混Bは 一時間で市内を完全占領。ところが、瑞昌への進撃準備中に臺混Bをコレラが奇襲する。 いかに現役旅團とはゆえ 疫病には克てず 宿營地を城外にうつし暫し戰力の回復につとめる事になる。

一方 長江北岸では 13.07.24 6Dが 47iを先鋒に潛山を出發して大湖を攻略。 一旦後退した第五戰區第四兵團第三十一軍は反撃に轉じて 大湖北方で 大激戰を展開。 急に敵が撤退したため宿松をへて 13.08.01 黄梅を占領。 潛山病、後にこれは マラリヤと判明するが、で體力を損耗した6Dは 宿松、黄梅で暫し戰力の回復につとめる。

13.08.03 第十一軍は 九江に軍司令部を進出させるが、臺混Bはコレラ禍で動きがとれず、101D、9D、27Dは進出が大幅におくれ焦りは極點に達する。

特設師團である 106Dは 湖口進出にあたり炎天下の長途の行軍に疲勞しきった兵にコレラ禍がさらに追い打ちをかける事になる。 が 度重なる督促電に ついに 九江南西に位置する大天山、馬鞍山、金家山 の三高地攻略を決意する。 此の附近 峻険な山峽で機動力が使へず野砲を分解して 一門を 150 人の兵が擔いで運搬、三日がかりで 8門の砲を据へ付けたと謂う。 しかし守る中國軍の防備は堅く、疲勞しきった兵は 支援射撃に膚接しての突撃命令に立ち上がる事すら出來ずいたずらに指揮官の損耗を重ねる事になる。 113i(福岡)聨隊長 田中聖道大佐戰死。 145i(鹿児島)聨隊長 市川洋造中佐が負傷したのをはじめ 小隊長、中隊長は殆ど全員、大隊長も半數以上が 戰死または重傷と謂う状況で 軍司令部は 13.08.10「106Dノ攻撃力ハ 既ニ 破断界ニ達シタ。」と判断する事になる。
温厚篤實な軍司令官 岡村寧次中將(士候 16 期 首席、陸大 25 期、歩兵科)は先輩師團長 松浦淳六郎中將(士候 15 期、陸大 24 期、歩兵科、豫備役召集、福岡縣出身)に對し懇篤な慰勞電を發する。

13.08.16 9Dの先頭部隊が 九江に到着し、瑞昌への進撃準備を始める。
13.08.21 101Dも 星子を攻略。 しかし 前面の山地に立てこもる中國軍を攻めあぐねて戰況は膠着してしまっている。軍司令部としては 特設師團である 101D 106Dには 單獨で敵陣を突破する能力はないと判断している。いまや 長江南岸の戰局打開の希望は 精鋭なる現役師團の9Dに懸かっている。

第二軍では 13.08.22 10D が 六安、13.08.23 13Dが 霍山へ向けて進撃を開始する。飛行偵察により中國軍が 進撃路を破壊している事が判明したため 3D 16Dの集結を待たず急遽の進發である。水田の中の一本道は ズタズタに切断されており 兵は泥田の中を歩く事が出來ても砲車、トラックを通過させるためには道路を修理しながらの進撃である。
無風の中 炎暑は相變はらずで 毎日必ず一回の雷雨に、修理したばかりの道路はぬかるみ前進速度は遅く 渇病患者續出で 隊列は亂れ 酷烈の進撃であったと記録される。 それでも 13.08.28 10Dは 六安を 攻略して これを占領。

13.08.26 27Dが長江上に船團をくんで南京を發航。 師團長の本間は 第一陣に乘船。この日、空は鉛色に曇って、濕気を含んだ暑気が、大小無数の輸送船にすし詰めになった將兵を押し包んだ。 五十萬の兵をつぎ込んでもなを點でしか制壓出來ない 中原の両岸から敵は盛んに撃ちかけてきて 先頭を進む護衞の海軍砲艦が轟音と共に上がる泥色の巨大な水煙の中で これに應戰しながら進む。
遡航するにしたがい、焦熱はますます烈しくなる。 兵は風を求めて甲板に出ることも出來るが 船艙につながれた軍馬は次々に暑気に薙屠された。 死馬は荒縄で縛られて起重機で吊り上げられて、兵がその縄を切ると、重く鈍い音をたてて江上に落ち、たちまち濁流に呑み込まれてゆく。 船による遡航も 炎天下の行軍に劣らずの 苦行である。
13.08.30 本間は 繙揚湖畔の大板橋に上陸し ここと九江の間に兵力を集結する。

同じ日、 黄梅で攻撃準備を整えていた 6Dが 20Km 南西々の 廣濟に向けて進撃を開始する。
黄梅ー廣濟ー田家鎭の線は 古來不抜と謂はれる難攻の山峽で この地形複雑で狭い地に敵は九箇師 八萬の大軍を配し 黄梅ー廣濟 20Km の間に 三段の防衞線を敷いて待ち構へている。6Dは 右に牛島支隊(36B旅團長 牛島 満少將指揮の 23i 45i)左に今村支隊(11B旅團長今村勝次少將指揮の 47i)を配置、 13iを 師團豫備として 右後方の守備にあてながら前進した。左右両側から俯瞰される谷間をトーチカ を一つ一つ落としながらの前進であり騎兵科出身の稲葉師團長の勇猛果敢な指揮ぶりである。
13.09.04 早朝、まだ明けやらぬ朝霧の中を 23iが五峯山を攻撃。 五峯山は高野山の様に 寺院と僧坊が散在する霊山であるが この一帶を 九重の立射散兵壕でとりまき 12の迫撃砲陣地とトーチカ は なんと 450 以上を数へたと謂う。
47iは 獨立山砲兵第二聨隊が 全火力を集中して援護する中 大符山に 膚接突撃を反復して敢行。中國が 國費と勞力と技術を結集して構築した堅陣である。 その間、45iが13iを後備にして廣濟城に向かって進撃。 まさに 6D全聨隊の聯携による全力攻撃である。精鋭を集めた中國軍の抵抗も烈しく 夜通し 攻撃と反撃の繰り返しであったと謂う。
翌日、13.09.05 23iは 爆撃機の支援を得て 五峯山後方の最高峰を占領。 47iも巧妙に配置されたトーチカ 群の火網に手こずりながらも 徐々に 大符山を制壓。
45iは右翼稜線を廣濟城を望見しながら進撃。 17:00 歩兵第四十五聨隊長 若松平治大佐が軍旗と共に廣濟城に入城。 しかし 有力な敵が 附近に蝟集しており兵站線確保のため暫くの間 大隊單位の兵力を廣濟ー黄梅間 数ケ所に配備する必要があったと謂う。

北方戰線では この日 10D岡田支隊が 固始を占領したものの 13Dの悪戰苦苦闘が續いている。
13Dは 建前は現役師團であるが 實體は特設師團に近く 戰闘可能人員 40 名以上の中隊は皆無と謂う状態がつづいてゐる。兵力減少の原因は 戰闘による死傷よりも壓倒的に熱病、コレラ、マラリヤ、赤痢と渇病である。食糧難が 患者の回復を遅らせ兵の弱體化に一層の寄與をしている。 師團に豫備兵力は皆無で補充兵も 當分望めず 頼みの16Dは 戰線到着が 大幅に遅れている。 そこで非常手段として「体温三十九度ヲ以テ平熱トス。」と謂ふ第十三師團司令部規定を發して 前代未聞の 患者の前線への 前送に踏み切る。

昭和13年9月10日 12:00 47i聨隊本部は 軍旗中隊と共に廣濟城内に移動。 附近一帶は聯日聯夜 小戰闘が繰り返され 迫撃砲彈が飛び交ひ、頻繁に優勢な 敵砲兵の洗禮も受け露營地でも 狙撃兵を警戒して 立って歩く事すらままならなかったと謂う。

霍山北西 葉家集の前面 富金山を攻めあぐねていた 13Dの 総攻撃の日である。 野砲二個大隊、迫撃砲三個大隊、重機關銃一個大隊が一齊に火を噴き 爆撃機 20 機も攻撃に參加。 砲爆煙は 山容改まるの観を呈するも岩石とコンクリートで嚴重に防備された敵陣突破は 二晝夜に亘る苦闘の後になる。

ー 後編に續く ー

inserted by FC2 system