アッツ島戰記 The Battle in Attu:

米合衆國領土の一部であるアッツ島占領は 当初 ミッドウエー作戰と連動して計画され、その攻略部隊として昭和十七年四月二十八日 北海支隊の戰闘序列が発令された。

北海支隊 支隊長 穂積松年少佐(士候三十七期)
   独立歩兵三百一大隊(301ibs)(旭川第七師團歩兵第二十六聯隊より抽出)
   独立工兵第三百一中隊(301ecs)(旭川第七師團工兵第七聯隊より抽出)
   総兵力 約一千名
五月五日大陸命第六二八號により 支隊は第五艦隊(司令長官 細萱戊子郎海軍中將)第一水雷戰隊(司令官 大森仙太郎海軍少將)の指揮下に編入される。

因みにこの時ミッドウエー攻略部隊(MI作戰)として同時に発令され第二艦隊(司令長官 近藤信竹海軍中將)の指揮下に編入されたのが 後にガダルカナルで玉碎する一木支隊である。

一木支隊 支隊長 一木清直大佐(士候二十八期)
   旭川歩兵第二十八聯隊(第七師團)
   旭川工兵第七聯隊第一中隊(第七師團)
   独立速射砲第一中隊(京都第十六師團より抽出)

MI作戰の陽動支作戰であったAL作戰は MI作戰中止により曲折はあったが結局遂行されて 北海支隊は六月八日 アッツ島を無血占領する。
時を同じくして舞鶴鎭守府第三特別陸戰隊(隊長 向井一二三海軍少佐 以下五百五十名)はキスカ島を攻略占領。

アッツ島占領後 北海支隊は第五艦隊麾下を解かれ 北部軍(軍司令官 樋口季一郎中將)へ復帰する。
当初 北海支隊はアッツ島に駐屯越冬の予定で陣地、兵舎を構築 糧秣燃料も備蓄したが大本營の方針変更で十七年九月にキスカ島へ移駐、再び第五艦隊の麾下に入る。
アッツ撤収の際、米軍に鹵獲利用されるとの理由で陣地、兵舎を破壊、蓄積した糧秣、燃料(といっても木炭、すなわち炭が主体であったらしいが)も焼却破棄したと謂う。米國に対する認識が伺われるし 此の時点では永久撤退の予定であったらしい。
また 40人ゐた現住アリュート族もこの時キスカ経由長田丸で内地(小樽)へ移住させられてゐる。
ところが大本營の再度の方針変更で十月二十日 大陸命第七○六號により 再占領命令が出る。  十月二十四日には大陸命第七○八號により「北海支隊ノ戰闘序列ヲ解キ北海守備隊ノ戰闘序列ヲ命ス」。

北海守備隊 司令官 峯木十一郎少將(司令部 鳴神(キスカ)島)
北海守備第一地區隊(鳴神島) 省略

北海守備第二地區隊 隊長 山崎保代大佐(士候第二十五期)(18.02.16発令)

北千島要塞歩兵隊 隊長 米川 浩中佐(士候第三十一期)
  北海守備第二地區隊砲兵大隊 大隊長 波々伯部利雄大尉(18.04.18着任)
    第六要塞山砲兵隊 隊長 遠藤 平少尉
  北海守備第二地區隊高射砲大隊 大隊長 青戸慎士少佐(士候46)(18.04.18着任)
    獨立野戰高射砲第二十四中隊 中隊長 外山利助中尉(東京61Bisより抽出)
    獨立高射砲第三十五中隊  中隊長 左右田信男大尉
    獨立工兵第三百二中隊 中隊長 小野金造大尉(弘前57Dより抽出)
  北千島要塞歩兵隊衛生斑 班長 山田文男軍醫中尉

北海守備隊野戰病院 院長 大浦直二郎軍醫大尉(弘前47D131iより抽出)

獨立歩兵第三百三大隊 大隊長 渡邊十九二少佐(士候36)(弘前47D105iより抽出)
  獨立野戰高射砲第三十三中隊 中隊長 小山 亨中尉(士候54)(姫路54Dより抽出)

この改編で北海支隊は独立歩兵第三百一大隊としてキスカ島に残留する事になる。

第二地區隊(アッツ島守備隊)は北千島要塞歩兵隊を中核とした寄せ集め部隊で十月三十日無血再占領。 当初 独立歩兵第三百三大隊と独立野戰高射砲第三十三中隊は飛行場建設予定地の隣接セミチ島へ派遣の予定であったが アッツ島に飛行場建設適地が見つかり、アッツ島に合流する事になった。 順次兵力を増強して最終的に総員約二千六百に増強される。

アッツ島守備隊には野砲は一門もなく、十一年式七十五粍高射砲と八八式七糎野戰高射砲合計16門、九八式二十粍高射機関砲10門(東浦、西浦、熱田湾に分散配置)の他にはいずれも旧式の九二式七十粍歩兵砲と四一式七十五粍山砲、八九式重擲弾筒(口径五糎)のみ。

アッツ島守備隊長 山崎保代大佐は明治二十四年十月十七日山梨縣四日市場保壽院住職玄洞師の次男として誕生。名古屋幼年学校、中央幼年学校を経て士候第二十五期。 第四十二師團仙台歩兵第百三十聯隊長からの転出である。 補任の昭和十八年二月十六日は大東亜戰争の転換点となったガダルカナル島からの最終撤収の一週間後である。
既にアッツ、キスカ周辺の制空、制海権は完全に米軍の手中にあり 数度亘る海上からの渡航は阻止され、潜水艦で着任出来たのは四月十八日、奇しくも山本五十六聯合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で邀撃されたその日である。  

その間三月二十七日に「アッツ島沖海戰」が生起、制海権奪還の千載一遇の好機を逸してしまう。

「時これ 五月十二日 ・・・  ・・・ 突如と襲う敵二萬 ・・・」と歌にあるが戰機は充分過ぎるほど熟してゐたわけである。
攻める米軍はキンケード海軍中將(Admiral Thomas Cassin Kinkaid)を総指揮官に、上陸軍はロックウエル海軍少將(Rear Admiral Rockwell)を指揮官として 米歩兵第七師團一萬二千。

歩兵第七師團 師團長 ブラウン陸軍少將(Major General Albert E. Brown, 7th Infantry Division)
   歩兵第十七聯隊 聯隊長 アール大佐(Colonel Edward P. Earle, 17th infantry regiment)
    戰死後 後任聯隊長 ジンマーマン大佐(Colonel Wayne C. Zimmerman)
   歩兵第三十二聯隊 聯隊長 カリン大佐(Hawaiian origin 32nd infantry regiment) 
   歩兵第四聯隊第一大隊 大隊長 ライリー少佐(Major John D. O'Reilly, T-battalion 4th infantry regiment)
   砲兵第三十一大隊 十五糎加濃
   砲兵第四十九大隊 十糎榴彈砲(49th FA Battalion, 105mm Howitzer)
   砲兵第五十七大隊 
   工兵第十三大隊(13th Engineers Battalion)
   補給第七大隊 

師團は もともと北アフリカ戰線投入を想定してネバダ砂漠で熱地機動訓練を受けてゐたが、機械化装備の使えない狭小峻険な北海の戰線に投入される事となる。 しかし山岳戰闘に圧倒的威力を発揮する十榴(105mmHowitzer)を多数備え、速射砲(75mmInfantryGun)、迫撃砲(81mm&60mmMortar)の重装備と豊富な弾薬の攻撃軍に対し、守備隊は貧弱な大隊砲と聯隊砲で善戰。 上陸六日目、戰線膠着にいらだったキンケード海軍中將は 第七師團長をランドラム少將(Major General Eugene M. Landrum)に更迭すると謂う事態にたちいたる。  しかし所詮 圧倒的物量のまえにはなすすべもなく、勇戰敢闘二旬、五月三十日未明 最後の突撃を敢行して、玉碎する。

戰歿陸軍將兵  2,527柱
生還         26名
戰歿海軍將兵  111柱
(第五十一根拠地隊熱田分遣隊)
(第五艦隊派遣參謀 江本弘海軍中佐)
生還          1名

攻撃軍の損害は戰死 549名、戰傷 1,148名。 戰死者の中には歩兵第十七聯隊長アール大佐も含まれてゐます。
その他 1,200名が凍傷(完全装備の米陸軍が五月にですよ) 614名が病気、318名が戰闘不能で 損害率25%は太平洋戰争で硫黄島につぐ二番目の高率。

制空権、制海権なき島嶼での戰闘に勝機のないことはガダルカナルの失敗で十分承知の筈であるが、大本營はいかなる戰略的意図で北海の二島を確保しようとしたのか、明確でない。 米國領土の一部を占領下に置くという精神的屈辱を味あわせるという効果はあったにせよ払った犠牲はあまりにも大きく、見合うのもではない。 結局キスカ島はアッツ失陥と同時に撤退作戰に入り、最後の米國領土グアム島を奪還されるのは さらに一年後のことになるのだが。

2003/02/21 記

主要引用出典:
  戰史叢書「北東方面陸軍作戰」<1>アッツ島の玉碎  防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十三年
  米歩兵第七師團公式ウエッブ・サイト

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