私の書評;

『反逆の獅子』 陸軍に不戰工作を仕掛けた男・淺原健三の生涯
桐山桂一 平成十五年一月二十五日 角川書店

「淺原別莊」前の小石がゴロゴロした田舎道を 朴齒ほうば の高下駄履いて縣立別府鶴見丘高校に通學したものである。

   高い塀に囲まれた、敷地千坪はあろうかと謂う鬱蒼とした屋敷は 人が棲んでゐるやら空き家やら、外から中の容子を窺うすべもなく、所有者は 淺原健三という  「その昔、八幡製鐵所の溶鑛爐の火をした男」 だと謂うことは廣く識られてゐたが、存命やら、鬼籍やら、當時既に 傳説的、謎の存在であった。

該書によると、戰後、『聾々庵』の扁額を掲げて、土井晩翠、呉 清源を始め 文人墨客ならぬ 文人碁客引きも切らず、食料事情よからぬ時代、なかには長期滞在の食客も多かったと謂う。 また、まだ交通事情ままならぬ終戰の年の十一月に 石原莞爾が わざわざ隠棲先の山形縣鶴岡から訪ねて來たと謂う。

淺原健三は明治三十(1897)年 福岡縣鞍手郡宮田町生まれ。 父親は小さいながら筑豊の炭坑經營者であったが、日露戰爭終結の余波で破産。 學業成績抜群であったが、中學を中途退學。  大正二(1913)年 十六歳の春に家出して單身上京。 印刷工見習い、新聞配達等苦學して 十八の時に新聞社の工場勞働者として働きながら日本大學専門部に入學。 ここで 後に社會黨代議士となる辯論部の 加藤勘十と識り合う。

たまたま 同じ下宿に 後の自由民主黨副総裁 大野伴睦がゐたと謂う。
大野は明治大學の學生で、政友會院外團に所属。  思想も信條も行動様式も全く 對蹠的たいせきてき)  (左右の足の裏を合わせる) な二人の親交は終生續くことになる。

苦學しながら、その頃流行はやりの政談演説會に行き、アナルコ・サンディカリズムに傾倒し、社會問題演説會では 堺利彦、山川均、荒畑寒村に觸れ、大杉榮の門下生となる。
後に「人生劇場」を書いて有名になる作家の尾崎士郎も早稲田の學生で社會運動に拘はってをり淺原健三とも親しかったと謂う。

結局、勞働運動に専念するため、日大専門部に退學届を提出して、大正八(1919)年八月筑豊に戻り、十月 勞働組合「日本勞友會」を結成する。

翌大正九(1920)年二月五日 前代未聞、驚天動地の「八幡製鐵所の溶鑛爐の火がきえた日」 淺原健三は若漢 満二十二歳であった。  當然、騒擾罪で逮捕・拘禁されて小倉監獄に収監される。

逮捕・拘禁は あらかじめ豫測された事態であり、用意周到、準備萬端、加藤勘十に支援をたのんで 二月二十四日 第二次ストライキを決行させる。

四月 會社はを上げて、それまでの二交代制十二時間勞働から、三交代制八時間勞働を認め、賃金増額も克ち取る。
  日本の勞働運動史上 肇めてにして、劃期的な大勝利である。

判決は治安警察法違反で懲役四ヶ月。 拘置期間を含めて 結局 釋放されたのが大正九年八月三十日。

以後 「西部炭坑夫組合」 を設立して炭坑運動に専念する。

 當時 八幡、筑豊で勞働運動をやると謂う事は、特高・官憲のみならず、壯士・暴漢・ごろつき・右翼・暴力團・侠客と 世のあらゆる階層の ならず者を相手に、匕首、抜き身の白刃に立ち向かうわけで、身長一五八糎、體重五◯瓩の華奢な體軀、學者か藝術家を思はせる端正な顔立ちのどこに そのような膽力と情熱が存したのでろうか?
 しかも運動の資金面のスポンサーが賀川豊彦だったと謂うから驚く。

敵味方雙方を引きつける天性の人柄と人徳。 後年 憲兵隊を相手に 幾多の 【消される危機】 に直面しながら、いつの間にか敵方の筈の憲兵が味方となって死線を乘り越へることが出來た人間的魅力は、鬼の特捜、東京地檢特捜部の過酷な取り調べに 擔當檢事がいつの間にか味方になってくれたと謂う佐藤 優氏の體驗と一脈通じるものを感じる。

昭和三(1928)年二月、第一回普通選擧に九洲民憲黨公認候補として立候補。

大正十四(1925)年 加藤高明内閣によって公布された普通選擧法は;

有權者資格は 満25歳以上の男子、被選擧權資格は 満30歳以上の男子で、婦人參政權が認められたのは戰後の幣原喜重郎内閣になってからのことである。

因みに米合衆國では、大正十二年から延々聯邦議會で審議されてきた The Equal Rights Amendment, 1923  が基督教原理主義者の根強い反對で レーガン政權下 廢案となって、いまだに憲法上の 「男女平等」 は認められてゐない。
  ( 詳細は別拙稿 「米國の自由主義、民主々義、機會均等、門戸開放、主權尊重、領土保全の欺瞞と正體」 參照 )

淺原健三は選擧告示日 満三十歳で被選擧權資格ぎりぎりである。

無産大衆の票を爭う相手は石洲津和野藩主の血筋を引く、東京帝國大學、外務省出身の 社會民衆黨公認候補 龜井貫一郎である。 エリート外交官がなぜ社會民衆黨公認で、石洲人がなぜ筑豊で立候補したのか?

ちなみに 現 國民新黨政調會長 龜井亞紀子參議院議員は龜井貫一郎の主家筋にあたり、世が世なら 石見 四萬三千石 津和野藩のお姫様である。
 鷗外森林太郎は この津和野藩 龜井家御典醫の家系である。

淺原健三は 二位の龜井貫一郎を大きく引き離して福岡二區でトップ當選。
天性の能辯を生かして、帝國議會で舌鋒鋭く、張作霖爆殺問題で田中義一内閣を糾彈する。
文字通り 命懸けである。 現に昭和四年三月には 同志山本宣治が右翼により暗殺されてゐる。 該書には 「警察權行使ニ関スル緊急質問」 と題する山本宣治追悼の名演説の抜粹が収録されてゐる。

昭和五(1930)年二月、帝國議會解散による 第二回普通選擧實施。  官憲による彈壓と右翼・ならず者による選擧妨害にも不拘らず 得票數は減らしたものの聯續當選。

この年、 『溶鑛爐の火は消へたり』 を執筆・出版。 ベスト・セラーとなる。  時に、淺原健三 三十三歳。

印税をもとに 翌年春、長期のアメリカ視察旅行に出かける。
滿洲事變勃發を知ったのは、中古のフォードで西海岸各地を視察中の事で、日本の覇權主義に對する米國民の冷ややかな反應を肌身に感じて歸國する。

昭和七(1932)年二月、再び総選擧。 「 滿洲侵略 絶對反對 」、 「 日本軍 滿洲から即時撤兵 」 を叫んだ 淺原健三はあえなく落選。
トップ當選は 「擧國一致 國難にあたるべし」 を叫んだ龜井貫一郎。

「 賣國奴 」「 國賊 」 と罵られた淺原健三は政界を去る決意をし、以降 世間の表舞臺から姿を消す。 そして 自分の野望を實現する爲に奇想天外な着想を得る。

奇抜な着想とは淺原自身の 『 肚 』 の中から生まれたものではなくて、政友會の梟雄 森 つとむから得たものだと、該書の著者は云う。
即ち、トロイの木馬よろしく 國を動かす陸軍の中樞に食い込み、これを洗腦して自分の理想を實現しようと謂うものである。
そして なんと石原莞爾への紹介状と 軍資金としての五萬圓を授かったと。

淺原健三が 仙臺で歩兵第四聯隊長をしてゐた石原莞爾を訪ねたのは昭和八年の暮れ。
森恪は 昭和七年七月に軆調を崩して 鎌倉の海濱ホテルで静養の後 十二月に十河信二と鳩山一郎・薫子夫妻に看取られながら逝ってゐるので、紹介状は一年半以上 淺原の 手許で眠ってゐたことになる。

帝國議會で 田中義一内閣の外交方針をこっぴどく糾彈してゐた淺原は、彼がまだ日大専門部の學生であった十九歳の時に 同じ下宿の明大生で政友會院外團の大野伴睦の手引きで森恪の知遇を得てゐたと謂う。 田中内閣外務政務次官として對中強硬外交を強引に 推進し、東方會議を主宰した政界の梟 雄きゅうゆうと、帝國議會の表舞臺から姿を熄した鵂 鳥きゅうちょうは地下水脈で とっくによしみを通じてゐたと謂うことだ。
十河信二と淺原健三の出逢いはつまびらかでないが、この時 十河の紹介状も持參したと謂う。

滿洲事變を起こした張本人と、それに身を挺して命懸けで反對した男同士の出會い。
逢いに行く方も行く方なら、會う方も會う方だ。  しかも會った途端 肝膽相照らす仲になったと謂う。

  この時、石原莞爾四十四歳、淺原健三 三十六歳。

昭和十(1935)年八月一日 石原莞爾大佐は 參謀本部作戰課長に榮轉する。
該書筆者によれば、この人事 淺原が越境將軍 林銑十郎陸軍大臣に進言して實現したものだと謂う。  淺原健三は共産黨員でもなければ共産主義者でもないが、當時の呼び方で云へば所謂 『 アカ 』 であり、無冠のアカの一民間人が 陸軍の中樞人事に容喙ようかいするなぞ  とても信じ難い事ではあるが、後に 十河信二とともに林内閣組閣參謀を買って出てゐるので 早くも、陸軍大臣を 「とりこ」 にして、陸軍省に深く喰い込んでゐたことは間違いあるまい。

三十八歳の淺原健三は この年 滿洲國視察にでかける。 當然 石原の指示であろう。
滿洲には満鐵理事を退任して、興中公司社長として滿洲國協和會で活躍してゐた十河信二がゐた。 このとき舊知の十河との絆を 更に深めた筈である。

その頃、板垣征四郎も關東軍參謀副長(11.03.23 參謀長へ昇任)として新京にゐた。
甘粕正彦も滿洲國協和會を牛耳ってゐた。
また、板垣中將の指示で 關東憲兵隊司令官として新京にゐた 東條英機少將(11.12.01 中將、12.03.01 關東軍參謀長)にも面談し、會食したとある。

歸國後、 「建國大學設立意見書」 を石原莞爾に提出する。
淺原の意見書は 『(トロッキー、ガンジー、胡適、周作人の如き、)廣く世界の天才的學者、革命的指導者などを招聘し・・・』 と氣宇壯大なものであったと謂う。
石原莞爾日記 昭和十二年二月二十一日に 「甘粕ニ 淺原カラ説明」 とあり あるいは 甘粕正彦に建國大學構想を説明させたのかもしれない。
すくなくとも、淺原が嘗て師と仰いだ 大杉 榮を虐殺したと謂はれる憲兵大尉甘粕正彦と いつのまにか話が出來る間柄になってゐたことはたしかだ。

滿洲國が石原莞爾が理想とした構想から外れた方向に動いたように、昭和十三年に開學した建國大學も淺原健三が頭初理想とした建設意見書とは異なったものになったと謂う。

2.26 事件後の昭和十一年六月十九日付けで 石原莞爾は參謀本部戰爭指導課長(12.01.07 參謀本部第一部長心得、12.03.01 參謀本部第一部長)となる。
淺原健三は滿洲國協和會東京事務所を切り回して多忙を極める。

昭和十二(1937)年一月 濱田國松腹切り問答で廣田弘毅内閣は桂冠。
一月二十五日 宇垣一成陸軍大將に大命降下。   林銑十郎内閣総理大臣、板垣征四郎陸軍大臣を畫策してゐた 石原・淺原にとっては 將に青天の霹靂である。

早速 憲兵司令官中島今朝吾中將を示 嗾しそうして、陸軍の総意として つぶしに掛かかる。
一月二十九日 宇垣一成大命拝辭。  宇垣内閣流産、林銑十郎陸軍大將に大命降下。

早速 閣僚候補名簿は この時まだ三十九歳の無冠の素浪人 淺原健三の手から林に手渡される。 一瞥した林は、一言 「 これで行く !」 と。

内閣書記官長 (現在の 官房長官) からみの十河信二が組閣參謀長となって組閣に着手するが、豫定したゐた板垣陸相問題で すったもんだ。 あわや流産寸前、越境將軍が 陸軍三長官推薦の 中村孝太郎中將を陸軍大臣に受け入れて、十河・淺原は林と訣別。 
  結局 内閣書記官長 大橋八郎で二月二日組閣は完了した。 しかし すったもんだで就任した中村陸相は僅か一週間で辭任し、後任はグズげんこと 杉山 はじめ陸軍大將。

さしも難産の林内閣は 僅か四ヶ月で瓦解し、第一次近衞内閣にバトンは引き継がれる。

第一次近衞文麿内閣誕生直後の七夕の日、廬溝橋で運命の銃彈一發が轟く。  コミンテルンの指示にもとづく劉少奇一味の策動であることは 今や廣知の事實である。

大本營陸軍部・參謀本部第一部長(作戰)石原莞爾中將の 「事變不擴大方針」 は 陸軍大勢が受け入れるところとならず、中央を追われる斯く 關東軍參謀副長として古巣の滿洲に去る。 ちなみに この時 上司の參謀長は 東條英機中將である。

石原莞爾が陸軍中樞で力を失った東京は、アカの淺原健三にとって 危險極まりない。

昭和十三(1938)年五月 板垣征四郎陸軍大臣のもとで 陸軍次官として中央に還り咲いた東條英機は 東京憲兵隊に淺原の偵諜・監視を命ずる。

昭和十三年十二月十五日 治安維持法違反容疑で逮捕・檢束される。

この時 捜査の手は 十河信二をはじめ 滿洲國協和會東京事務所関係者、はては 水野成夫 や 南 喜一にまでおよんだと謂う。 世間に公表されない、したがって新聞にも報道されない 暗黒の闇の中の 所謂 「淺原事件」 である。

結局 この時も どこからか 救いの手が延びてきて、昭和十四年四月三十日 九段の東京憲兵隊地下牢から出される。

  蔭で救いの手を差し延べてくれた一人が、 どうやら、当時の東京憲兵隊特高課長で 陸軍士官學校第三十一期、東京帝國大學法學部政治學科卒の 大谷敬二郎憲兵中佐だったらしい。
  後に 東京憲兵隊長、東部憲兵司令官を歴任した大谷憲兵大佐は 戰後 聯合國軍に追われる身となった時 淺原を恃んだと謂う。

憲兵隊で散々痛めつけられた躰には療養が必要で、暫く 憲兵隊が借り切った那須の温泉旅館で静養の後、六月初めの暑い日、上海呉淞ウースン埠頭に現れる。  埠頭に出迎へたのは 大谷憲兵中佐で 手配は総て憲兵隊によるもの。 そして、上海で僞名の旅券を渡され、退去を命ぜられる。 呈の良い國外追放である。

当初は、歐洲に遊ぶ豫定にしてゐたが、九月一日 獨逸軍のポーランド侵攻開始で新加坡シンガポールから上海に舞い戻ったのが 昭和十五年一月。
  日本内地は勿論のこと、日本の占領地でも居住は罷りならぬとの憲兵隊のご意向で 臺灣、泰、比島あたりをうろうろすることになる。

この時 泰の盤 谷バンコックで 東京府會議員連を引き連れた 衆議院議員大野伴睦に邂逅し、二千圓を呉れてやってゐる。 時價で六百萬圓相當だから小遣いにしては思い切った大金だ。 そして亡命の身の淺原が羽振りの良かったからくりが該書の中に書いてある。
政友會院外團出身の大野伴睦は この時 「大政翼賛會」 の帽子を被ってゐた筈である。  淺原とは 相容れぬ仲のはずだが。

結局 再び上海に舞い戻って、昭和十六年春頃には 上海での居住を黙認される。
時に 淺原健三、後厄あとやくをへた四十四歳。

それからの活躍が凄い。  ブロードウエー・マンションに事務所をかまえて實業家に轉身、瞬く間に巨萬の財を成す。 佛蘭西租界の數千坪の大邸宅に居を構え、後に憲兵隊が調べたところ 当時の金で八億圓から九億圓の蓄財があったと謂う。
しかも、日本軍占領下の上海とはゆえ、 「軍」 とも 「阿片」 とも無関係の正業である。

莫大な財寶が革命資金として還流することを怖れた東條は 憲兵隊に命じて内地への送金を嚴禁し、嚴重に監視させたと謂う。

その間 知遇を得た人の中には 浙江財閥で京都第三高等學校出身の周作民、交通銀行の錢永銘、等々 さらには後に上海市長から毛澤東の下で外務大臣を務めた 陳 毅にまで及んだと謂う。

昭和十九年九月、東條英機暗殺計畫容疑で上海で身柄拘束され、九段の東京憲兵隊へ連行される。 代々木の衛戌監獄に収監されて、東條の腹心で暴力團的性格の、「黙れ!」の佐藤賢了軍務局長に あわや毒殺されるところであったが、一連の東條パージで佐藤少將は支那派遣軍総參謀副長に轉出し(19.12.14付け、20.04.07 第三十七師團長)難をのがれる。
しかし 「消される」 危險がなくなったわけではなく、翌年三月 嫌疑不十分で釋放されるまで、三度三度の食事は妻ソメノが準備して差し入れたと謂う。

この時も憲兵隊内部に 密かに救いの手を差し延べてくれた人がゐたようだ。
筆者は 井上士郎法務少佐の名前を揚げている。

さて、釋放後も、同じく東條腹心の四方諒二東京憲兵隊長が 上海憲兵隊長に轉出(19.11.22付け、20.04.07 中支那派遣憲兵司令官)したため上海に戻る事が出來ず、上海に殘した 現在の邦貨で 二兆圓とも三兆圓ともいわれる膨大な財貨は放棄せざるをえなくなったと謂う。  僅か数年で稼いだ、とてつもない金額である。

昭和二十年三月一日 衛戌監獄を擔架で出所した淺原は 車で迎へに來てくれた十河信二の本郷の私邸で 暫く静養したあと、憲兵隊に散々痛めつけられた躰を別府温泉で癒す。
終戰まで 別府、岡城址で有名な豐後竹田に ひっそりと身を隠す。


私が中學・高校生の頃、即ち昭和二十年代中半頃は 別府の 「聾々庵」 で沈黙を守りながら 日本碁院の發展に盡くしてゐたと謂う。

巨魁が別府を引き拂い 再び活動を始めたのは昭和二十年代後半である。
飛行機便のない昭和二十年代、別府は文字通り「萬里雲煙ノ遠地」であり、東京へは汽車で一晝夜、今の若者には想像もできない長途の旅であった。

夕刻七時、急行列車は別府驛を出發。 電化されてゐたのは 東京ー濱松間のみで、濱松までは蒸氣機関車。  夏でも冷房のない客車は、汽笛の合圖で トンネル毎に 一齊に窓を閉める。  濱松に着く頃は 鼻の穴の中は眞っ黒だ。    急行列車は 大船、横濱、川崎、品川に停車して 新橋に着くころは 銀座のネオンがキラキラ輝いてゐた。 ブルートレイン「あさかぜ」の 東京ー博多間での運行開始が 昭和31年、日豊線への寝台特急導入が昭和33年に入ってからで、それまでは 二等車は reclining 無しの二人掛け。 三等車は四人がけのbox seatであった。  


昭和二十九年十二月の鳩山一郎日本民主黨内閣誕生秘話が紹介されてゐる。

第一黨の自由黨は吉田 茂の後継として緒方竹虎を立て首班指名にのぞむ。
当時 左右に分裂してゐた、右派社會黨の西尾末廣、左派社會黨の鈴木茂三郎に話を付けて 鳩山に投票させたのは、両氏と戰前からの盟友であった 淺原健三だったと謂う。
それだけなら ただのフィクサーであるが、「明日から鳩山の政策を批判すればいい」といってのけたそうである。  淺原にしか出來ない、淺原なら出來る藝當である。

時に淺原健三 五十七歳、まさに梟鳥の眞骨頂である。

淺原健三は 昭和四十二(1967)年七月 七十歳で代々木の東京鐵道病院で亡くなってゐるが、葬儀で弔辭を讀んだのが この 西尾末廣と鈴木茂三郎の二人であった。

鳩山一郎は 十河信二日本國有鐵道総裁誕生で淺原の功に報いたつもりであったらしい。

十河信二さんが日本國有鐵道総裁に擔ぎ出されたのは昭和三十(1955)年五月、浪人中の小生は駿臺豫備校の晝休み、ラジオのニュースで聴いたのを覺へてゐる。
七十一歳の老人がなぜ國鐵総裁なの と謂うのがその時の印象だったように憶へてゐる。

当時、戰後の混亂も落ち着き、岸信介を筆頭に 大達茂雄、星野直樹、鮎川義介 等々 滿洲族が 政財界の陰に陽に復活してゐた頃で、その辺の人脈が 十河さんを擔ぎ出したものだとばかり思ってゐた。

さて 総裁に就任して 十河さんが眞っ先に手をつけた事は、根っからの役人技術屋藤井松太郎氏を更迭して 島 秀雄さんを技師長に据へることであった。

島さんは櫻木町事件の責任をとって車両局長を辭し下野、当時 住友金属工業専務取締役だったが、就任會見で「鐵路を枕に討ち死にの覺悟」と 新幹線實現を天命とした十河さんは 島技師長なくば新幹線實現不可能との堅い決意だったと思う。

年功序列のお役所人事を ごり押しで覆せる時代だったとも云へようが、藤井技師長更迭には 數々の裏話があったようである。


私が 島さんの名前を初めて承知したのは 「日本國有鐵道技師長 島 秀雄 殿」 と墨書、「必親展」と朱筆された封書を 丸の内 國鐵本社秘書室に届けた時である。

勿論 入社早々のペーペー・バシリの私には 信書の内容が何なのか知る由もなかったが、「島 秀雄」と謂う名前は なぜか その時 深く腦裏に燒き付きました。

新幹線建設には 8,000 萬ドルと謂う大金を世界銀行 (The World Bank) から借り受けました。 当時の日本の外貨準備高が 2,000 - 3,000 萬ドルですから 8,000 萬ドルがいかに大きな借金であったかが想像出來ます。 借款條件として 主要機材の購入は國際入札によることと謂うのがあったのですが、「外國からの購入を阻止する事が國益」だと上から言われ 私自身も それに資することが使命だと大まじめに考へてゐた時代です。

今ならさしずめ 入札妨害罪で東京地檢特捜部の取り調べをうけるところでしょう。

島 秀雄さんの言葉で印象に殘ってゐるのが二つあります;
一つは「將來 通勤電車にも冷房が必要な時代がやって來る。 貧乏國日本では そのための空調器を作ることは出來ないので、米國製のwindow型量産品を活用すればよい。」
今や 通勤電車は勿論、地下鐵まで冷房車の時代。  もしかして開通当初の新幹線には冷房設備はなかったのかも?

二つ目は「新幹線の乘降は」エレベーターの様に二重扉にして ドアーの所にピタリと停車させる事。  これは 後に 新横濱驛で試作品の様なものが實用化されました。
エレクトロニクスの發達した今、技術的には完成の域にあり、上海、臺北の地下鐵では完全に實用化されてゐるのに、日本では京都地下鐵東西線のような一部例外を除き なぜだか普及しません。

僕は 昭和三十九(1964)年は 緬甸ビルマ の 蘭 貢ラングーン に駐在してゐたので、新幹線開通も東京オリンピックも一週間遅れの新聞でしか知りませんでしたし、十河さん、島さんが開通前に退任されたと謂うことも知りませんでした。 後任の 石田禮助総裁からは 「 君たちは 大變な借金をして とてつもないお荷物を殘してくれた!」 との苦言があったそうですが、今や新幹線はJR東海の弗箱ドルばこ。 新幹線なくしてはJR東海、JR東日本の經營は成りたつまい。

十河さんは 勲一等を受章して昭和五十六(1981)年に九十七歳の天壽を全うされました。

島さんは十河さんの退任に殉じて日本國有鐵道技師長を辭したが、再び求められて 宇宙開發事業團 初代理事長に返り咲き 遅れてゐた日本の宇宙開發に大きな足跡を殘されました。  引退後は 自宅の庭の草花を愛でることを趣味とされてをられたと仄聞してゐます。
平成六 (1994)年文化勲章受章、平成十年 九十六歳の天壽を全うされました。


今では新幹線のない日本は考へられないし、その誕生に疑問を感じる人はゐないが、昭和三十年代前半の高度經濟成長以前の財政嚴しい時、新幹線建設には鳩山一郎も政界の實力者河野一郎も根強い反對論者で、飛行機の時代に時代錯誤だとして、マスコミも擧って批判的であったと謂う。  新幹線建設物語のどこにも淺原健三の名前は出てこないが、無給、無冠の黒子でありながら、十河信二國鐵総裁の最高の相談役であり、毎晩必ず電話で相談に乘ってゐたといわれる淺原健三なくして新幹線は はたして實現したであろうか。

自由民主黨副総裁大野伴睦衆議院議員は新幹線を田圃たんぼの中の岐阜羽島に停めたと世間の嘲笑と批判を浴びたことがある。  あの話、ちと違う と筆者は云う。

地元羽島に驛を と謂う度重なる陳情に音を上げた大野伴睦は 淺原健三に相談を持ちかける。  淺原が授けた秘策は、「三日間だけ わめけ。 十河総裁も島技師長も反對するから それで地元も納得するだらう!」というものであった。

ところが 院外團出身の大野が 一回ほえただけで財界出身のひ弱な重宗雄三運輸大臣(明電舎社長・會長)は腰を抜かして「停めます!」と言ってしまったと謂う。
折角の淺原の秘策も、大野の『肚』も讀めない素人政治家 重宗運輸相の在任は 昭和三十四(1959)年四月二十四日から六月十八日の二ヶ月弱のことだから  その間のhappening であろう。

なんだか 温家寶首相に一喝されて、たまがって腰をぬかし 無法漁船の船長を釋放してしまった どこかの國の素人総理に似てませんか?


國鐵スワローズが 産經スワローズ(後 サンケイ・アトムズ)に賣却され 更に ヤクルト・スワローズになった經緯にも 淺原健三が一枚も二枚も絡んでゐたと謂う。

國鐵側は 十河信二であり、産業經濟新聞社は 淺原事件に聯座した轉向右翼の水野成夫が牛耳ってをり、ヤクルトは 同じく左翼から轉向の南喜一の會社であり、さもありなん。

ちなみに、國鐵スワローズで最盛期の金田正一の剛速球を no sign で受けてゐた 根來廣光君は 私の市立青山中學時代の同級生である。 大變 頭の良い nice guy であった印象が今でも強く殘ってゐる。 170cm の身長で、非凡な運動神經と頭腦の持ち主だったが、平成二十一(2009)年 七十三歳で鬼籍に入ってゐる。

私事ついでにもう一つ;
昭和二十二年六月 朝日新聞主催の岡城址での「滝廉太郎音樂祭」に 土井晩翠とともに 聲樂家の 佐藤美子も出席したとある。
冒頭の 土井晩翠が 「聾々庵」 に滞在したのは この時のことである。

畫家の佐藤 敬・美子夫妻は その頃、龜の井ホテル別館を常宿にしてゐた。 長男の 佐藤亞土君とは 市立野口小學校で机を並べた仲で、彼は藤永先生の指導で 人形劇に得意な才能を發揮してゐた。

亞土君は中學進級を機に 妹の眞弓ちゃんとともに横濱・鶴見區寺尾に轉居。 彼は名門 神奈川縣立湘南高校から昭和三十一年春、三田山上での入學式で邂逅。
この年、 衆樹・中田を擁した慶應は秋の慶早戰に勝って九シーズンぶりに優勝し 神宮から三田まで提灯行列。 その夜 銀座で一緒に飲み明かしたものである。   

在學中から東寶映畫に出演したり、血筋を受け継いでの多藝ぶりは端倪すべからざるものあり 後に版畫家として名を成したが、平成七(1995)年一月、若くして他界してゐる。

   

EKO's Echos de Paris

から引用・抜粹;

佐藤絵子のパリ日記 

今日の感動。

それはパリ、ポンピドーセンターの近くにあるローラン・ゴダン画廊で発見した展覧会。

画家の佐藤敬が画家佐藤亜土のお父さんであり、佐藤亜土は私の父であるため、

生まれた時から芸術に包まれながら育ってきました。

ご發展・ご活躍を祈ります。

「わが友 佐藤亞土チャンの事など。」 の頁へのリンク。




筆者は淺原健三の痕跡を求めて 山形縣鶴岡市の圖書館から 豐後竹田市役所をも訪ね、さらには 地方のタブロイド紙の古い記事まで調べつくして、世間には殆ど その名を知られてゐない不世出の異端児、扇動家、革命家、政財界の黒子梟鳥の姿を浮き彫りにしてゐる。

巨魁の全貌を私の貧筆で引用してゐては紙數が盡きない。   是非 御一讀をお薦めする。

(2012/04/05 初稿、2012/04/11 改)

付け足り 【泉都別府の別莊文化】 へのリンク


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