追悼の 阿川弘之

平成二十七年八月三日 午後十時三十三分 入寂 享年 九十四歳

衷心 ご冥福を お祈り 申し上げます。
2015/08/07 追記

山本五十六記念館

越後長岡市呉服町一丁目
平成二十六(2014)年十一月五日撮影


日米開戰前夜の 昭和十六年十一月二十六日(木)、聯合艦隊司令長官 山本五十六海軍大將は 柱島に假泊中の旗艦『長 門』を 私服で一人こっそり抜けだし、愛妾「梅龍」コト 河合千代子と 安藝宮島は老舗高級旅莊「岩 惣」で最後の名残の一夜を過ごす。

宿帳には 「長岡市△△△ 山本長陵 五十二歳 船乘業」 と達筆の記名があったと謂う。

因みに十一月二十六日は南雲忠一率いる機動部隊が擇捉島單冠灣を眞珠灣に向けて密かに抜錨した日である。

岩惣主人は岩村平助、係女中は行儀見習中の 別府「海軍料亭」なるみ主人高岸源太郎長女 高岸ゆき子。

今や誰がその事實を知るや?

 

 

(平成庚寅師走十二月八日丁酉 大詔奉戴日に追記 寫眞追加)

NHK 番組 「わたしが 子どもだったころ」  『文筆家・阿川佐和子』 を視る。
父 阿川弘之氏の 性向・性格・行動様式に なんと私との共通点の多いことよ。
「瞬間湯沸かし器」 「亭主関白」 「頑固親父」 「雷親父」 でも 僕は 「お膳をひっくり返した」 ことも
「奥さんの髪の毛を掴んで 縁側から庭へ引きずり下ろした」 こともない。

だから 僕の方が 『よき父であり、よき夫』 ではある。

(2009/04/26 追記)

私の 「 阿川弘之 」 研究

左 昭和四十年十一月発行 初版 「山本五十六」、 右 昭和四十四年十一月発行 「新版 山本五十六」 初刷本。
現在 出版されてゐる 「山本五十六」 は すべて この「新版」を基 本もとほんとしてゐる。

「阿川弘之」 と謂へば その名が世間一般に広く知られるようになったのは 不朽ふきゅうの名作 「山本五十六」 であり、山本五十六の名を 老若男女日本人の間に広く行き渡らせたのも 「阿川弘之」 である。

執筆の經緯いきさつについては 最新かつ最終版である新潮文庫 「山本五十六」 平成二 (1990) 年十二月改版(下巻)「作品後記」に詳しく記載されてゐる。
この「作品後記」の日付が「昭和五十二 (1977) 年十二月」であるのに 不思議な事に それ以前の厚表紙ハードカバー本にも文庫本にもみあたらない。

本書は昭和三十九 (1964) 年十月から一年間に亘り「文藝朝日」に 『史傳 山本五十六』 として連載されたものを底本として 昭和四十年十一月 單行本として新潮社から出版されたものである。

その後 新たに判明した事実を書き加へ 約三百枚を加筆・改訂、初版を絶版とした上で 「新版 山本五十六」 として昭和四十四 (1969) 年十一月に同じ 新潮社により上梓されてゐる。  その後の文庫本にも若干の改訂は加へられてゐるものの、John Bester氏により英譯されて 「The Reluctant Admiral」 の題名で講談社インターナショナルから出版されたものを含め、現在 印刷・出版されてゐる 「山本五十六」 はすべて この 「新版 山本五十六」 を基 本もとほんとしてゐる。

しかし 永年の回を重ねた加筆・改訂にも不拘ず 結局 間違ったままの事柄が 最新版でも何カ所かそのまま残されてゐる。
私は阿川さんに 再三 資料を添えて その点を指摘して訂正・改訂を具申ぐしんしてゐたが、阿川さんには阿川さんの個人の しがらみ と ご事情があったようで、その都度 鄭重な禮状とともに 応諾をいただけなかった。

この機会に私の気がかりな部分を公表し、読者諸兄の御参考に供し度い。
勿論 この事が 名著・名作 「山本五十六」 の価値をいささかなりとも毀損きそんするものではなく、私自身に その意圖いとの毛頭ないことも 併せて強調したい。

ただただ間違った歴史認識が定着することをおそれ、事実を事実として書き留めておきたい一心であることを 重ねて申し添へます。

阿川弘之氏から貰った 数々の直筆書翰(上)と 端書三葉(下)

1. 伊號第一二四潜水艦にまつはる謎。

先ず 初版本から 問題の部分を拾ってみよう。(P-277)

『此の「伊一二四」号は、(昭和十七年)一月二十日の夕刻、ポートダーウインの沖でアメリカの驅逐艦「エゾール」と、オーストラリヤ海軍のコルヴェット艦三隻の包囲攻撃を受けて沈没していたのであった。 現場は水深五十メートルの、澄明ちょうめいな、潮の流れも激しくない海で、アメリカ海軍はすぐ、潜水母艦から潜水夫を入れて、「伊一二四」の残骸を切り、中の重要書類を引き揚げさせた。』

『其の中には「呂暗号」を含む、戰略暗号書、戰術暗号書、及び商船暗号書が何種類かあった。』

この部分、最新の改訂版では 水深が「十五メートル」になり、「商船暗号書をふくむ海軍の暗号書」に変更になってゐるが 基本的には初版本の記述を踏襲してゐる。 

偖て この話 後述の David Kahn をも含めて欧米の著作に該当記述が見当たらず、米軍側にもこれを裏付ける資料がないことから、一体 出典はどこなのかと不思議に思ってゐた。 (唯一の例外として 1986年米國海軍公報 (Naval Institute Press) に発表されたNorman Polmar, Dorr Carpenterによる"Submarines of the Imperial Japanese Navy"に言及されてゐるらしいが、これは 阿川本からの孫引きだと思はれる。)

1992(平成四)年、オーストラリヤの戰史家 David Jenkins 氏が "Battle Surface! Japan's Submarine War Against Australia 1942-44" を公表し、その中で氏は "The Reluctant Admiral" を引用しながら この事実を全面否定している。 それによると;

(阿川氏の記述は)間違ってゐる。 伊號一二四から暗號書は回収されてゐないと謂う事実を裏付ける議論の余地ない証拠がある。
たしかに潜水夫は潜水艦の破損状態を調べてはゐる。 しかし 艦内に入ることはなかった。

(This is incorrect. There is incontrovertible evidence that the code books were not recovered from I-124.
Divers examined the wreck of the Japanese submarine. But they did not enter the hull.)

として 沈没から六日目の 一月二十六日、533 トンの濠洲クレーン艦 HMAS Kookaburra を乗せた 8,100 トンの米國潜水母艦 USS Holland が 経験豊富で伝説的潜水夫である Richard E. Hawes 米海軍中佐 (1894-1968) に率いられてポート・ダーウインを出港してからの行動を 克明に調べ上げてゐる。

原文は長文で詳細を極めてをり 委細はそちらにゆずるが、要約すると 次の通り;

同日午前七時現場に到着。 42 米の水深で、潮流速く、視界はいずれの方角にも 2 米を越えることはなく、加えて 当時の潜水具の性能は 16 分以上の潜水を許さず、艦体を切り開いて中に入る事は出来なかった。 作業は難行を極め 若干の気泡と油の漏洩は見られたものの、船殻そのものは損傷を認められず、ハッチからの浸水で沈没したものと思われる。 (the hull was probably intact, the submarine having sunk as a result of water entering through the hatches) 結局 二月九日の 干満差が最少となる次の潮流を俟つ他ないとの判断で二十八日深夜 ポートダーウインに帰港した。

Hawes 中佐からアジヤ艦隊司令長官宛に「メイン・タンクは正常であり、圧搾空気注入により浮上可能」 (The main ballast tanks were evidently intact and could probably be blown through the salvage air lines.) との報告書も提出された。 しかし 米海軍にはその時 必要な機材に余裕なく、USS Holland は二月三日 他の任務で蘭印ジャワ島チラチャップに向けて出港。 濠洲海軍独自での引き揚げも考えられたが、二月十九日 帝國海軍機動部隊によるポートダーウイン空襲で 決定的に計画実施は遠のいた。

華盛頓ワシントン駐在濠洲海軍武官であった Commodore David Campbell は1989(平成元)年の本國宛て報告書の中で『戰争の潮流の変化から より重要な事柄のために伊號一二四のことは すっかり忘れ去られてしまい、米國立公文書館をくまなく調査し、米海軍は暗號書回収のために同艦に潜水夫を入れなかったとする 議論の余地なき結論を得た。』 ("The tide of war washed over I-124, "Commodore Campbell noted, "and she was forgotten in the context of greater affairs." The "unassailable conclusion" he concluded after a thorough study of US Navy archival material, was that the USN divers did not enter I-124 to recover cryptographic or other material.) と書いてをられる。

一体 阿川さんは この話を どこの誰から仕入れたのであろうか? 私は 事件当時 第三南遣艦隊首席参謀で 昭和十八年一月から終戰まで 軍令部通信課長(軍令部第四部 第九、第十、第十一課長)を勤められた 鮫島素直さん(兵科第四十八期、海大三十一期)が情報源ではないかと考えてゐた。
鮫島さんが昭和五十六(1981)年に自費出版した「元軍令部通信課長の回想」(非売品) P-142 に事件の顛末が詳細に記述されてゐる。

しかし 両者の決定的違いは 鮫島さんが 『伊號一二四潜水艦所有の暗號関係書類』 としてゐるのに 阿川さんは『呂暗号』と特定し、最終改訂文庫版でも『軍令部は五月一日付で「呂暗号」の使用規定、乱数表の全部を改変・・・』と 間違の上塗りを重ねてゐる。
当時 呂暗號は まだ使われてゐなかったわけで、鮫島さんから聞いた話なら、この点を取り違えることはあり得なかった筈。

戰略常務暗號書名 使用開始日時(日本時間午前零時) 米海軍呼稱 備    考
海軍暗號書D
一般亂數表第八號
昭和十六年十二月四日 JN-25B-8
海軍暗號書D1 昭和十七年五月二十七日 JN-25C 「呂」以降使用停止。
海軍暗號書呂 昭和十七年八月十五日 JN-25D 亂數表を變更しながら終戰時まで使用継続
海軍暗號書波 昭和十七年十月一日 JN-25E 亂數表を變更しながら終戰時まで使用継続

結局 阿川さんに この間違った情報を吹き込んだのは どこの 誰だったのか 永遠の謎である。

2. 「蒸留装置故障ニヨリ AF ハ眞水不足」に係はる謎。

この話も 初版本から拾ってみよう。(P-277)

『日本の攻撃部隊の編成、進路、日程などをほぼ正確につかみ得たのちも、万一「AF」がミッドウエー以外の地点であった場合は、邀撃態勢に大きな錯誤を犯すことになるので、太平洋艦隊司令部諜報班の、ロシュフォートという中佐の発案で、彼らは、「ミッドウエー島ハ蒸留施設故障ノタメ真水ノ欠乏ヲ来シツツアリ」という平文電報を発信してみた。』

まことに出来すぎた話で 読む者にとって 「なーるほど !!」 とうならせるような話ではある。 例によって 阿川さんは この話の出所を書き残してゐない。
David Kahn は The Code-Breakers の中で 同じ話を紹介し、出典を "Never a Battle Like Midway" by J. Bryan, III, The Saturday Evening Post (March 26, 1949) だとしてゐる。

しかし 米國で 「情報公開法」 (Freedom of Information Act 1979)  が施行され、極秘文書が続々と公開されたのに加え、守秘義務から解放された関係者が 積極的に真相を開陳するようになった。

1985(昭和六十)年に上梓された著書 "AND I WAS THERE" の中で当時の責任者である 米太平洋艦隊情報参謀 Edwin T. Layton 中佐(後 海軍少將)は 「ミッドウエーについて書いたすべての歴史家が 間違った解釈をしてゐる。」 (Rochefort embarked on a brilliant piece of deception that has been celebrated and misinterpreted by every historian who has ever written about Midway.) と 断定的に間違った解釈だと指摘してゐる。

詳細は 拙稿 『「元軍令部通信課長の回想」を読んで』 にゆずるが、当事者が完全否定してゐるのだから、議論の余地はあるまい。 阿川さんも David Kahn もこの時点で記述を訂正すべきであったと思うが、この話はいわば "目玉の一つ" であって 間違いだったと認めるのに躊躇があったものであろうか。

ところで 当時 軍令部第四部特務班に勤務して現場に居合わせた 兵科豫備學生出身の中牟田研市さん (終戰時 海軍大尉、後 日本國有鐵道常務理事、弘濟建物社長) が 「頭にくる挿話」 として この平文ひらぶん電報日本側傍受の経緯を自著 (P-87) の中で披露してゐる。

中牟田さんも ことの真相を知ったなら さぞや溜飲を下げることだろうと、是非 お教えしてさしあげたいところです。

3. 「NTF 機密第一三一七五五番電」 傍受・解讀に係はる謎。

この話も 詳細は 拙稿 新版「NTF機密第一三一七五五番電傍受解讀の眞實」 をご参照下さい。

「初版」と「新版」の大きな違いは David Kahn の 「THE CODE-BREAKERS」 が新たに加わったことである。 阿川さんは 「目からうろこが落ちた」 とばかりに完全にこれを鵜呑うのみにしてしまった。 しかし 「JN-25」 で書かれた「NTF-131755 番電」 が傍受・解読されたのだとする根拠は同書巻末の注釈  (NOTES TO TEXT)  を見れば明らかな通り、稚 戯ちぎとも謂えるお粗末なもので、David Kahn にこの情報を提供したとされる陸海軍戰史の權威 秦 郁彦氏にしろ、兵科豫備學生第二期出身の情報士官であった 阿川さんともあろう方が なぜこんなお粗末な話に引っかかったのか 不思議で仕方がない。
「第八艦隊司令長官」が 戰略常務暗號を使って 「バラレ陸軍守備隊指揮官」 (the chief of the Ballale Defense Unit) 宛に直接 電信を発信するなぞありえないことは自明の筈である。 

しかも ご丁寧なことに 昭和五十年に上梓された 「軍艦長門の生涯」 の中で(下巻P-224);
『現在でも、「あれは正規の戰略暗号が読まれたのではない」と信じている人があるけれども、山本の死から四半世紀後に出版されたデービッド・カーンの「The Code-breakers」を見れば、アメリカの情報部が「NTF機密第一三一七五五番電」を解いていたことはほぼ確実である。』 と念の入れようである。

David Kahn も情報公開法で解禁となった機密文書をもとに この部分を書き改めるべきであったと思うが、1996(平成八)年改訂版でも この部分は初版と全く同じままになってゐる。

ところで 三人の司令官、即ち 第一根拠地隊司令官、第二十六航空戰隊司令官、第十一航空戰隊司令官宛電信は「海軍暗號書波一」で書かれたものと一般に信じられてゐる。 その根拠は 防衛廳 (現 防衛省) 防衛研究所圖書館所蔵の 「山本元帥國葬関係綴」 原本に 「波一 軍極秘」 と記載されてゐることによるものだと思われる。 これは 昭和十八年四・五月に 当時の海軍省大臣官房が作成した「綴り」である。

これに関しても異論・異説あり。  David Kahn 氏の尻馬に乗っかってはやし立てた日本の暗號研究者諸氏は これにはどう答えるであろうか?

終戰時、南東方面艦隊 兼 第十一航空艦隊 暗號長であった 三神正孝氏から貰った 数々の書翰。

その中の一つ、平成十一 (1999) 年六月十日付け書翰の中に;

『NTF131755番電 について
  当時の通信参謀、暗号員の言葉から、NTFからは「ロ」で発信されています。
  使用開始まもない「ロー2」の可能性が強いようです。』

と 明記されてゐる。
当時の通信参謀とは 兵科第五十一期の 有澤直定中佐のことである。

後列左端 有澤通信参謀 その右 三神暗號長。
前列中央 草鹿任一南東方面艦隊司令長官、その左 中原義正参謀長、前列左端 大前敏一首席参謀。
昭和十八年七月 ブーケンビル島ブインにて撮影。

有澤さんは 戰後 新潟縣上越市にご健在だったので、直接 お尋ねする機会を逸してしまったことは、返す返すも残念なことである。 

ところで 上述三点ほどの重要性はないが、挿話でも いろいろ諸説がある。 その一つが 盲腸手術の事だが、工藤美代子さんが 2004年に上梓した「海燃ゆ」の中で新説を披露してゐる。

阿川弘之説 工藤美代子説
大尉時代、堀悌吉と湯河原で蜜柑47個喰らって盲腸炎発病 腸チフス予後療養中、大正6年3月箱根堂ヶ島温泉で虫垂炎発病
麻酔をかけずに開腹手術 東京帝大病院で、全身麻酔をかけ、近藤次繁博士執刀

大正4年12月には 海軍少佐に進級してゐるので、大尉の時代と少佐になってからと 二度盲腸を患ったのであろうか?

どうでも良い話ながら、真偽は 「後出あとだしジャンケン」の工藤さんにがありそうだ。

最後に 漢字つかいについてみてみましょう。 初版では、就中 人名については総て第二水準漢字が使われてゐたものを 新版ではこれが第一水準漢字に置き換わってゐる。 それに反し 初版で 「連合艦隊」 としてゐたものが 新版以降 総ての作品が 「聯合艦隊」 で統一されている。 

初      版 新      版
連合艦隊 聯合艦隊
禮子夫人 礼子夫人
鹽田廣重 塩田広重
源田 實 源田 実
鹿岡かのおか圓平 鹿岡円平
濱砂盈はすなみつよし 浜砂はますな盈栄みつよし

人名は その他でも 鹽澤幸一、坂巻善眞 (新版では 坂巻善辰ときたつ 改版では 坂牧善辰よきたつ となっている) とか 第二水準漢字にいたく拘ってゐる一方で 橋本禪巖禅師 と 第一、第二水準漢字を混ぜて使ってゐたりで、基本的には「本然漢字」に無関心だと謂うことでしょうか。  いや そうではない。 人名は その人に敬意を拂って本然漢字を使い、「聯合艦隊」は帝國海軍兵科士官であった阿川さんの美学であり、そして 文章は読者が読み易いようにと謂う 阿川さんの心配こころくばりでしょう。  そのあたりが やたら難読・難解文字を駆使した三島由紀夫との大きな違と言えますまいか。

本稿執筆にあたりエストニア御在住のtalented linguist,
Mr. Sander Kingsepp から貴重な情報をいただきました。 厚く御禮申し上げます。

(2007/03/01 初掲)

主要参考ならびに引用出典;

阿川弘之 「山本五十六」 昭和四十年十一月 初版 新潮社
阿川弘之 「新版 山本五十六」 昭和四十四年十一月 初版 新潮社
新潮文庫 「山本五十六」 (上、下) 昭和四十八年二月版
新潮文庫 「山本五十六」 (上、下) 平成二年十二月改版
阿川弘之 「軍艦長門の生涯」 昭和五十年十二月 初版初刷 新潮社
鮫島素直 「元軍令部通信課長の回想」 私家版(非売品) 昭和五十六年三月
中牟田研市 「情報士官の回想」 ダイヤモンド社 昭和49年10月
工藤美代子 「海燃ゆ」 2004年6月 講談社

The Reluctant Admiral, Yamamoto and the Imperial Navy, translated by John Bester, Kodansha Int'l 1979
Battle Surface! Japan's Submarine War Against Australia 1942-44, David Jenkins, Random House Australia 1992
"AND I WAS THERE" RADM Edwin T. Layton, 1985 First Quill Edition
The Code-breakers, David Kahn, 1967 (The revised edition Scribner 1996)

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