追憶の < 第 六 師 團 >

附; 郷土聯隊の遺跡を訪ねる

熊本城内にあった 舊 第六師團司令部 跡
昭和三十五 (1960) 年七月撮影

第六師團司令部建物は 戰後、昭和二十二年創立の(舊制)熊本縣立女子専門學校校舎として使はれ、昭和二十五年に(新制)熊本女子大學として
他所へ新築移轉の後、昭和二十七年六月から 熊本市立博物館となり、その後 熊本城天守閣復元のため解體された。
寫眞は解体直前に撮影されたものだと思はれる。 (2007/02/06 追加掲載)

寫眞提供 熊本日日新聞社 殿

寫眞版権は 熊本日日新聞社に歸属しますので 轉用・複寫は固くお断り申し上げます。

仙臺第二師團、廣島第五師團、旭川第七師團とともに 最精鋭・最強師團の名前をほしいままにした 熊本第六師團の足跡そくせきかえりみる。

第六師團(熊本) 師團長 谷 壽夫中將(士候15 陸大24恩賜)
参謀長 下野一霍大佐(士候23 陸大31恩賜)
歩兵第十一旅團 旅團長 坂井徳太郎少將(士候17)
歩兵第十三聯隊(熊本) 聯隊長 岡本保之大佐 士候21
歩兵第四十七聯隊(大分) 聯隊長 長谷川正憲大佐 士候24
歩兵第三十六旅團 旅團長 牛島 満少將(士候20 陸大28)
歩兵第二十三聯隊(都城) 聯隊長 岡本鎭臣大佐 士候22
歩兵第四十五聯隊(鹿児島) 聯隊長 竹下義晴大佐 士候23
騎兵第六聯隊 聯隊長 猪木近太大佐
野砲兵第六聯隊 聯隊長 藤村 謙中佐 士候26
工兵第六聯隊 聯隊長 中村誠一大佐 士候22
輜重兵第六聯隊 聯隊長 川眞田國衛大佐 士候22

(昭和十二(1937)年十一月 杭洲灣上陸作戰當時の師團編成)

明治二十一(1888)年 軍制改革によって「鎭西ちんぜい 鎭臺ちんだい」から「第六師團」と改稱。 當初 歩兵聯隊の編合は第十三、第十四(小倉)、第二十三 ならびに 第二十四聯隊(福岡)であったが、宇垣軍縮後、第四十七、第四十五聯隊と入れ替はる。

昭和十二年七月 日華事變勃發。 北支那方面軍(軍司令官 寺内壽一大將 士候11 陸大21 伯爵)・第一軍(軍司令官 香月清司中將 士候14 陸大24)隷下 北支へ出動。 永定河、保定、石家莊を転戰。 十月 上海戰線の危急を救うべく、第十軍(軍司令官 柳川平助中將 士候12 陸大24恩賜 豫備役召集 騎兵科)に転属して「日軍百萬上陸杭洲灣」の先陣を切る。

昭和十三年五月、留守第六師團の豫備役・後備役を緊急召集して臨時編成された特設師團である 第百六師團の編成は以下の通り。

第一○六師團(熊本) 師團長 松浦淳六郎中將(士候15 陸大24)  豫備役召集
歩兵第一一一旅團 旅團長 山地 ひろむ少將 士候19
歩兵第一一三聯隊(熊本) 聯隊長 田中聖道大佐
歩兵第一四七聯隊(大分) 聯隊長 園田良夫大佐
歩兵第一三六旅團 旅團長 青木敬一少將 士候21 陸大30
歩兵第一二三聯隊(都城) 聯隊長 木島袈裟雄大佐
歩兵第一四五聯隊(鹿児島) 聯隊長 市川洋造中佐
騎兵第一○六大隊
野砲兵第一○六聯隊
工兵第一○六聯隊
輜重兵第一○六聯隊

第百六師團は編成完了とともに動員、 兄師團である現役師團の第六師團とともに 中支那派遣軍(軍司令官 畑 俊六大將、士候12 陸大22首席 砲兵科)・第十一軍(軍司令官 岡村寧次中將、士候16 陸大25)隷下で武漢三鎭攻略戰に参加、八月六日 田中聖道聯隊長 戰死、八月九日 市川洋造聯隊長 負傷交替を始め 大隊長・中隊長の半数が戰死傷。 十月、特設師團である第百六師團は雷鳴鼓劉なる寒村に包囲孤立させられて大苦戰。 あわや全滅の危機を 間一髪 救出される。

昭和十四年三月、同じく特設師團である第百一師團(東京)とともに南昌作戰に参戰。 昭和十五年三月、復員、解隊。

第百六師團は 第百一師團同様 永久缺番となり復活編成されることはなかったが、編合各歩兵聯隊は
聯隊補充區・所属師團をかえて 夫々復活編成されてゐる。

聯隊補充區 復活年月 所属師團 終戰時所在地
歩兵第一一三聯隊 福岡 昭和15年9月 龍第五十六師團 雲南省龍陵りゅうりょう拉孟らもうで壊滅状態
歩兵第一二三聯隊 熊本 昭和18年5月 静第四十六師團 馬來マレー半島
歩兵第一四五聯隊 鹿児島 昭和18年3月 膽第一○九師團 硫黄島守備唯一の歩兵聯隊として玉碎
歩兵第一四七聯隊 都城 昭和18年11月 静第四十六師團 馬來半島

歩兵第一四五聯隊(聯隊長 池田増雄大佐 士候27)は静第四十六師團に編合豫定のところ、急遽硫黄島に送られて小笠原兵團に編入される。 豫定通り第四十六歩兵團に配属されてゐれば 比較的平穏に復員出来たところなのだが。

昭和十五年度改編で 歩兵第四十七聯隊は 臺灣歩兵第一聯隊(臺北)、臺灣歩兵第二聯隊(臺南)とともに 新鋭の機械化兵團である 第四十八師團に編合される。

第四十八師團
かい兵團)
師團長 土橋つちはし 勇逸ゆういつ中將(士候24 陸大32) 参謀長 川越守二大佐(士候28 陸大36)
第四十八歩兵團 歩兵團長 安部孝一少將(士候26 陸大39)
臺灣歩兵第一聯隊 聯隊長 今井一二三大佐(士候30)
臺灣歩兵第二聯隊 聯隊長 田中 透大佐(士候26)
歩兵第四十七聯隊 聯隊長 柳 勇大佐(士候25)
第一大隊長 愛甲 哲少佐
第二大隊長 馬場浅之進少佐
第三大隊長 宮地育三少佐
捜索第四十八聯隊 聯隊長 北村九郎中佐
山砲兵第四十八聯隊 聯隊長 山口嘉良中佐
工兵第四十八聯隊 聯隊長 柳 敏雄中佐
輜重兵第四十八聯隊 聯隊長 田坂 敏中佐

(昭和十六年十二月八日時點)

師團は海南島で編成を完了、直ちに雷洲半島、福洲作戰に参戰。 その後 臺灣に移って對米開戰に備へて訓練に従事。
大東亞戰争劈頭 第十四軍(軍司令官 本間雅晴中將 士候19 陸大27恩賜)隷下 比律賓フィリッピン攻略作戰リンガエン灣上陸作戰の先陣を切る。 馬尼刺マニラ占領後 翌年二月には早くも第十六軍(軍司令官 今村 均中將 士候19 陸大27首席)隷下に転属、和蘭陀オランダ領東印度爪哇ジャワ島作戰に従事。 この過早な転用が「バターン死の行軍」の遠因となり戰後 本間軍司令官の責任問題に発展する。
大戰中は主に葡萄牙ポルトガル領東印度(チモール島)に駐屯、比較的平穏に終戰を迎へる。

一方 稲葉四郎(士候18 陸大24 騎兵科)、子爵町尻まちじり量基かずもと(士候21 陸大29恩賜 砲兵科)と師團長を交替し 旅團編成から歩兵團編成となった めい第六師團は 神田正種(士候23 陸大31)師團長で大東亞戰争開戰を迎へた後も湖南省を中心に支那戰線に展開。 昭和十七年秋 武漢周辺に終結を命ぜられ ガダルカナルへの転戰を内命される。 十二月二十一日、二梯團に分かれて上海を抜錨、馬公に寄港。 パラオを経由して 昭和十八年一月九日 トラック島に到着した時の 師團編合は次の通り; 

明第六師團 師團長 神田正種中將 参謀長 山之内二郎大佐 士候32 陸大40
第六歩兵團長 竹原三郎少將 士候23 陸大33
歩兵第十三聯隊長 友成 敏大佐 士候26
歩兵第二十三聯隊長 濱之上俊秋大佐 士候24
歩兵第四十五聯隊長 眞方 勲大佐 士候32 陸大40
捜索第六聯隊長 越澤六郎大佐
野砲兵第六聯隊長 齋藤晴雅大佐 九四式山砲装備
工兵第六聯隊長 岩仲廣知大佐
輜重兵第六聯隊長 服部政之助中佐
師團衛生隊長 山崎源藏大佐

この時 既にガ島撤退がきまり、歩兵第十三聯隊、捜索第六聯隊ならびに野砲兵第六聯隊第三大隊は第八方面軍(軍司令官 今村 均中將 士候19 陸大27首席)直轄としてニューブリテン島ラバウルへ。 師團主力は第十七軍(軍司令官 百武晴吉中將 士候21 陸大33)隷下ブーゲンビル(Bougainville)島に進出することになる。 昭和十八年四月 山本五十六聯合艦隊司令長官遭難時 歩兵第二十三聯隊は その捜索の一翼を担う。

山本五十六長官遭難機捜索第一發見者 歩兵第二十三聯隊歩兵砲中隊第一小隊長 濱砂盈榮みつよし少尉に對する 聯合艦隊戰務参謀 渡邉安次中佐からの感謝状。   經緯については 阿川弘之 「山本五十六」 に詳しい。

宮崎縣護國神社 蔵

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第八方面軍直轄であった 歩兵第十三聯隊は昭和十八年六月二十七日ラバウルより驅逐艦でコロンバンガラ (Kilimbangara) 島に進出し 工兵第六聯隊第二中隊とともに南東支隊長(佐々木 みのる少將、士候26 陸大35恩賜、騎兵科)の指揮下に入る。 捜索第六聯隊は野砲兵第六聯隊第三大隊主力ともに配属を解かれて師團へ復帰。

歩兵第十三聯隊長 友成 敏大佐 士候26
同第一大隊長 木下西舟少佐 士候45
同第二大隊長 小橋武雄少佐 士候40
同第三大隊長 鷹林宇一少佐 少候6

直後七月、ニュー・ジョージア(New Georgia)島に上陸した米軍を迎へ撃つべく歩兵第十三聯隊は九日夜 舟艇機動にて同島に上陸、ムンダ(Munda)飛行塲争奪戰で大損害を蒙る。 撤収作戰中の九月十五日聯隊長 友成 敏大佐は対岸のアルンデル(Arundel 現 Kohinggo)島付近で戰死。(九月七日午後九時三十分 との別説もある) 幾多の困難を乗りこえ コロンバンガラ島・チョイセル島を経由してブーゲンビル島に撤退。 九ヶ月ぶりに師團に復帰してエレベンタ(Eleventa)地區で戰力の回復をはかる。

昭和十八年十一月一日、米軍は 歩兵第二十三聯隊の守備地域であるブーゲンビル島タロキナ(Torokina)地區に上陸を開始。 聯隊は死力を盡して反撃を試みるも多勢に無勢。 聯隊長 濱之上俊秋大佐は全滅を懼れて 九日 獨斷退却を命じる。 聯隊長は股間部に爆撃による弾片瘡をうけて 河野孝次中佐と交替。 米軍は直ちに二カ所の飛行塲を建設してニューブリテン島ラバウルを戰闘機の行動圏内に収める。    

第十七軍は全力を挙げて二度にわたり飛行塲争奪戰を試みるが 総攻撃はいずれも成功せず。 昭和十九年三月末には 組織的攻撃戰力を喪失して 以後 ゲリラ戰に転じる。 米軍も積極的攻勢をひかえ、主戰塲は マリアナから比島に移り、ソロモンは補給を絶たれて孤立無援。 昭和十九年十一月には作戰擔當が米軍から濠洲軍に移り、兵器彈薬の欠乏に加へ、飢餓と疫病のため島の南部に追いつめられて壊滅寸前 終戰となる。

昭和二十年九月八日 タロキナ濠洲軍基地における降伏文書調印式に先立ち、神田正種軍司令官の提案により 日濠彼我両軍の戰歿將兵に対し黙祷を捧げた後、帝國陸軍を代表して 神田正種陸軍中將、帝國海軍を代表して 第八艦隊司令長官 鮫島具重ともしげ海軍中將(兵科37 海大21 男爵)、聯合國軍を代表して濠洲軍々司令官スタン S. サビジ陸軍中將が調印した。

終戰後 復員のため ファウロ (Fauro) 島に終結した時の 第六師團関係者の残存人員は次の通り。

部隊名 指揮官 人員 注  記 備  考
第十七軍々司令部 神田正種中將 457 第六師團長からの轉補
第六師團々々司令部 秋永 力中將 357 士候28 陸大38 第十七軍参謀長からの轉補
歩兵第十三聯隊 牟田豊治大佐 434 士候28 友成 敏聯隊長(戰死)の後任
歩兵第二十三聯隊 福田 環中佐 412 河野孝次聯隊長(戰死)の後任
歩兵第四十五聯隊 福永康夫大佐 808 士候31 眞方 勲聯隊長は少將に進級して
第十七軍参謀長へ。
捜索第六聯隊 上崎猛男少佐 135 越澤六郎中佐の後任
野砲兵第六聯隊 中村孝平大佐 1,376 齋藤晴雅聯隊長(戰死)の後任
工兵第六聯隊 柴原貞喜少佐 451 師團工兵隊を含む 岩仲廣知大佐は
獨立工兵第十九聯隊長に轉出
輜重兵第六聯隊 服部政之助大佐 813
第六師團通信隊 室岡正憲大尉 101
第六師團衛生隊 安部中佐 353
第六師團野戰病院 永田少佐 840 患者、職員合計 第七十六兵站病院を含む
合  計 6,537

戰史叢書<84> 南太平洋陸軍作戰<5>より抜粹

通常の歩兵聯隊の定員は約3 - 4,000名 であるが 第二次タロキナ攻撃時(昭和十九年三月十九日 第十七軍發 第八方面軍宛報告電)の人員は以下の通り記録されてゐる。 その後 終戰までの各歩兵聯隊の損害がいかに大きかったかがわかる。 合  掌

作戰開始時 戰  死 戰  傷  現在員 
歩兵第十三聯隊 2,493 226 387 1,880
歩兵第二十三聯隊 2,324 420 750 1,154
歩兵第四十五聯隊 3,131 592 650 1,889
合  計 7,948 1,238 1,787 4,923

戰史叢書<58> 南太平洋陸軍作戰<4>より抜粹

情報ご提供者;

平松 鷹史 様 大分市ご在住 「郷土部隊奮戰史」著者
内村  修 様 都城市ご在住 郷土史研究家
大分縣遺族會
熊本市観光情報センター
都城市教育委員会事務局文化財課
都城観光協会イベント事務局
防衛省自衛隊鹿児島地方協力本部広報企画室
防衛省自衛隊大分地方協力本部広報企画室

主要参考ならびに引用出典;

「郷土部隊奮戰史」 平松鷹史 大分合同新聞社 昭和58年1月 再販
「陸軍師團総覧」 近現代史編纂会 新人物往来社 二○○○年十一月
「日本陸軍歩兵聯隊」 新人物往来社 一九九一年八月
戰史叢書<2> 比島攻略作戰 防衛廳防衛研修所戰史室 (現 防衛省 防衛研究所) 昭和四十一年十月
戰史叢書<40> 南太平洋陸軍作戰<3> 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十五年十一月
戰史叢書<58> 南太平洋陸軍作戰<4> 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和四十七年八月
戰史叢書<84> 南太平洋陸軍作戰<5> 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和五十年五月
戰史叢書<89> 支那事變陸軍作戰<2> 防衛廳防衛研修所戰史室 昭和五十一年二月

(2007/01/28 初掲)

附;  編合歩兵聯隊の 今。  (クリックして下さい)



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