大分聯隊跡之碑
昭和四十五年十一月三日 建之
元聯隊長 岩崎民男 書
(士候二十七期、陸大三十四期、東京帝國大學法學部政治學科卒、
昭和13.09.01-15.12.02 歩兵第四十七聯隊長、第一一一師團長、山口縣出身、陸軍中將)
岩崎民男聯隊長は 武漢三鎭攻略作戰中の昭和十三年九月十五日、湖北省の寒村 『呉伏七』 で 前聯隊長 長谷川正憲大佐(士候二十四期、陸大三十五期)から指揮を引き継ぎ、昭和十五年十二月二日 少將に進級して、湖南省
平壌に赴任途次、熊本に留守第六師團司令部を訪ねた後、大分では
記念碑建設委員長に 草本 利恒氏が 名を列ねてをられる。
大分市王子新町 やまばと児童公園内
草本さんがおられて 記念碑がない筈がないと思いつつも その所在を探しあぐねてゐた。 ふと思いついて 大分縣遺族会に問い合はせて やっと その所在を尋ねあてた。
創設・移設 | 廢隊・廢校 | 所属師團・歩兵旅團 | ||
明治四十一年七月 | 歩兵第七十二聯隊 | 大正十四年五月 | 宇垣軍縮により廢隊 | 第十二師團歩兵第十二旅團 |
大正十四年五月 | 歩兵第四十七聯隊 | 昭和二十年八月 | 小倉北方より移設 | 第六師團歩兵第十一旅團 後に 第四十八師團 |
昭和十八年十月 | 大分陸軍少年飛行兵學校 | 昭和二十年八月 |
左手が大分大學教育福祉科學部附属養護學校、ここに 昔 歩47 の正門があった。
右手が大分大學附属中學校、ここは 昔 裏門があった場所。 道路の反対側に 大分縣遺族會の事務所がある。
これが昔の 歩兵第四十七聯隊 の營門です。
いまや昔の面影はありません。
終戰後、別府に Camp Chikamauga が出來るまでの間、米歩兵第二十四師團119聯隊が ここに駐屯してゐた。 軍國少年であった僕は 一夜にして にわかクリスチャンに變身し 昭和二十年十二月のクリスマスに 大江牧師につれられて ここに來てチューインガムやチョコレ-トをどっさり貰ったことを憶へてゐる。 後年 ミシガン洲に駐在中 119歩兵聯隊が ミシガン洲兵を中心にした聯隊であったことを知り、當時の昔話に花を咲かせたことがある。
大分縣護國神社
大分市大字牧松榮山
海軍甲種飛行豫科練習生 「鎭魂之碑」
松榮山護國神社境内から 大分市街を望む。 左手に 昭和二十年八月十五日、宇垣 纏第五航空艦隊司令長官に率ゐられた最後の特攻機 十一機の彗星艦上爆撃機が飛び立った大分海軍航空隊の飛行場があった筈であるが、今や家屋が建ち並び そのよすがもない。
右手一帯は戰後開発された 鶴崎工業地帯。
陸軍墓地 (櫻ヶ丘聖地)
大分市志手
いまや ここを訪れる人も少なく ひっそりとたたずんでゐる。
地図にも出てないし、途中 交番で尋ねても判らず、行き着くのに苦労しました。
主に 大正七 ー 十一 (1918-1922)年 シベリヤ出兵時の 歩72 関係戰歿將兵が ここにひっそりと眠る。
歩47以前の、大分の郷土聯隊であった 歩兵第七十二聯隊は この時 全滅に近い損害を蒙ってゐる。
宇 佐 神 宮
昔は 國鐵宇佐驛から「宇佐参宮線」に乘り換へて 参詣してゐた。
豐後一之宮 國幣小社
左 御神木 樹齢三千年以上と謂はれる 楠木。
右 根回り六・四米のホルトの木。 大友宗麟(義鎭)の時代 ポルトガル人が寄進したと謂はれる。
天長四 (827) 年 宇佐八幡宮の参籠にて神告を蒙り 勘請したものと謂はれる。
古い扁額には「由原八幡宮」とある。
今や表参道まで 舗装されて自動車で行くことが出來るが、六十年前は 鬱蒼たる山道を歩く以外なかった。
昭和二十一年正月、
沿道に 大分海軍航空隊のものであろう 信管・爆薬を抜ゐた航空魚雷や爆弾が ゴロゴロしてゐた事を 憶へてゐる。
(2007/01/28 初掲)
淨土眞宗本派本願寺第二十二代門主 伯爵 大谷光瑞鏡如猊下の偉業を頌へる
別府市鐵輪御幸 大谷公園
日露戰爭開戰前夜、首都サンクト・ペテルブルグで通過護照を取得、自ら駱駝隊列を率いて露西亞領から葱嶺(パミール)高原を東遷して喀什噶爾(カシュガル)に至り、南下して
佛教東漸ノ道ヲ求メタ青年タチ。
西國東郡香々地ノ庄(現 豐後高田市見目) 長泉寺 出身の
満足な地圖もなく、砂漠の中の道なき道を高山病對策装備もなくて文字通り命がけの徒渉探險を法嗣自ら率先した目的は漢語譯の佛典に満足出來ず玄奘三藏の足跡を辿って梵語ならびに西藏語の原典を求めての志趣遠大な調査・學術研究探險であったと謂う。
三次に亘る探險隊の成果の大部分は 旅順・大聯ならびに上海の本願寺別院に遺された來たが、ごく一部は龍谷大學ならびに本願寺別府別院にあると謂う。
平成二十三(2011)年一月十六日 めずらしく降雪の日に撮影
(2011/02/10 追記)