「鹿児島聯隊之址」

鹿児島市下伊敷一丁目 鹿児島縣立短期大学構内。

鹿児島縣護國神社

鹿児島市草牟田二丁目

臺灣歩兵第一聯隊「慰霊碑」 ならびに 碑文

歩兵第七十一聯隊、歩兵第二二六聯隊、歩兵第二二七聯隊、歩兵第四十五聯隊 ならびに 騎兵第六聯隊 各戰友会献木碑

一四五聯隊記念の碑

硫黄島の碑 (第109師團 歩兵第145聯隊)

硫黄島は日本本土より南へ一四○○粁米の中部太平洋に浮かぶ面積二十平方粁米の孤島である。
第二次太平洋戰争の末期昭和十九年六月米軍の反撃に備えて 硫黄島の守備についた栗林兵団に軍旗を奉じた一四五連隊を主力とする我等が薩洲健児は編成されたのであるが 硫黄島は水に乏しく 加えて文字通り硫黄と塩水の責め苦により燃えるような喉の渇き 非衛生的な悪條件下に激しい下痢や高熱等の病魔に冒され 更には糧秣の補給は絶たれ これが為 殆多くの兵員は栄養失調となり 米軍の上陸以前に無念の思ひで斃れていったのである。

斯くして制海・制空権を手中にした米軍は昭和二十年二月十五日 遂に硫黄島に襲いかゝり 昼夜の別なく連続八十時間の猛烈な艦砲射撃と空爆の繰り返しにより さしも勇猛果敢な我が将兵も 雨霰と降り注ぐ鉄の前に沈黙せしめられたのである。 然して米軍は遂に上陸 我が方と一ヶ月の 激戰が行なわれたのであるが 武器は悉く破壊せしめられ弾薬も尽き 大本營との通信は途絶え三月十七日 玉碎と公表されたのである。

誠に英霊の辿った激しく凄惨な死闘は 筆舌に尽し難いものがある。
又 米軍の発表による彼我の死傷者四万数千人は 太平洋戰争の全戰域を通じて これ程の打撃を与えた戰線はなかったと戰史に特筆されてゐる。

戰后三十有余年 激動の歳月は流れ 今や祖国日本は世界の大国に互して 立派に再建されてゐる。
これは我が身を 又 家族を犠牲にして祖国に殉じた尊い英霊の御加護であることを忘れてはならない。
今 私達は このような悲惨な戰争を再びくりかえしてはならないと誓いを新たに ここに銘記するものである。

硫黄島戰没者遺族生存者有志

(第106師團) 歩兵第145聯隊戰友會 碑文 原文

歩兵第百四十五連隊は昭和十三年五月「日支事変」のため在郷予備役及び後備役を中心に動員 鹿児島に於て編成を終え急遽中支那方面に派遣され揚子江岸蕪湖に集結後 江西省流漸橋に於ける緒戰廬山の戰闘を経て徳安迂回戰に参加しました。
この戰闘は約一ヶ月間にわたり 弾薬兵糧尽きたる中 多数の犠牲者を出し 悪戰苦闘し翌十四年三月修水河の激戰を経て南昌作戰に武勲をたて安義奉新方面の警備任務につきカン浙(カンは章ヘンに久の下に貢)作戰後一部は萱島部隊に編入され本隊は南支那へ転進広東仙頭作戰を最後に 昭和十五年三月帰国復員しました。

その生き残った隊員により百四十五連隊戰友会を発会させ以来毎年戰死者並びに物故者の慰霊祭を行って来ましたが この度戰友会相図り郷土部隊の実情を後世に留めると共に 戰没将兵と部隊関係物故者の霊とこしへに安かれと祈りつゝ
この記念の碑を建立します。

昭和五十年十月  百四十五戰友会一同

同じ歩兵百四十五聯隊であっても 硫黄島に派遣された聯隊(聯隊長 池田益雄大佐)は 膽第109師團(師團長 栗林忠道中將)・第二混成旅團(旅團長 千田貞季少將)所属で 昭和十八年三月復活編成された 硫黄島での唯一の歩兵聯隊。  

昭和十三年五月編成の 歩兵145聯隊は 特設師團である 第106師團(師團長 松浦淳六郎豫備役中將)麾下で 碑文にある通り 昭和十五年三月 復員、解隊されてゐる。

航空母艦「加賀戰没者慰霊之碑」

 

ミッドウエー沖海戰々没者名の冒頭に 艦長 岡田次作大佐(兵科42、任 海軍少將、石川縣出身)の名前が見える。

(2007/01/28 初掲)



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